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5.総統地下壕―四月二十八日・夜~三十日午後
総統閣下の眼がバッケンシュタインを観察する。シェンクはその様子を、固唾を飲んで見守った。
閣下の手は、パーキンソン病によると思われる震えが続いている。黄疸もひどいようだった。健康状態は最悪と言っていい。
閣下がもっとも信頼した医師テオドール・モレルは、実に食わせ者だった。モレルと共に閣下の主治医を務めていたヴェルナー・ハーゼ博士やルートヴィヒ・シュトゥンプフエッガー中佐は、モレルのことを「藪医者」と言ってはばからない。シェンクもあの男を「詐欺師」だと思っている。
モレルが総統閣下に対して処方した薬には、まかり間違えば危険なことになりかねない劇物も多く含まれていた。アンフェタミンやメタンフェタミン、コカイン、モルヒネなども、症状の緩和に即効性がありさえすれば、それらの薬がもたらす別の作用など、まったくお構いなしに処方した。モレルの処方する薬の効き目と、その巧みな言葉が、閣下の心を捉えていた。患者というのは、その症状が辛ければ辛いほど、素早く効く薬を処方する医師を神のように思うものだ。だが、即効性というのは、裏に副反応の危険が付きまとう。
モレルは総統の信頼と主治医としての地位を、自分の栄耀栄華に利用し尽くした。そして、いざベルリンが包囲されると、総統を捨てて、さっさと逃げ出したのだった。
いや、逃げ出したのはモレルだけではない。親衛隊を名乗り、側近を自認していた将校たちの多くが総統官邸をあとにした。自分こそがもっとも総統のお心を理解し、だれにも負けぬ忠誠心をもって尽くしていると、豪語していた者に限って、砲撃の音を聞いた途端、他のだれよりも先に総統を見捨てた。
そんな人の心の無惨さを、シェンクは嘆かわしく思う。
その一方で、今もこうして総統閣下の側にいて、閣下への忠誠を貫いている自分に満足していた。自分は、状況によって右往左往し、忠誠をあっさりと翻し、恩を仇で返すような輩とは違うのだ。半端な決意で親衛隊に入ったわけではない。
だが、忠誠心だけでは、どうにもならないこともある。
モレルが与え続けた向精神薬や劇物は、総統閣下の心と体を治療不可能なまでに破壊し尽くしていた。モレルが去ったときにはもう手遅れで、薬を取り上げれば、閣下は間違いなく狂乱する。毒にしかならぬものと判っていながら、与え続けるより他になかった。
人一倍健康に関心が高く、煙草すら嫌悪していた総統閣下が、その関心の高さゆえに心身を蝕まれてしまったのは、まったくもって皮肉なことだった。
総統閣下の精神がもはやまともではないことは、側近のだれもが感じていた。それでも、かつての閣下を知り、その理念に共感し、忠誠を誓い、そして、その忠誠を今でも捨てずに、ここにとどまっている者たちは、少しでも閣下の望みを叶えたいと願っている。シェンクも、またそうした想いを持つひとりだった。
総統閣下が自害の決意を周囲に伝えたのは、四月二十二日のことだった。二十日の総統閣下の誕生日をわざわざ狙ったように始まった赤軍による首都攻撃は、閣下の心を挫いたようだった。それまで描いていた劇的な反撃という妄想は、耳をつんざき、体の芯まで響いてくる轟音の前に、あっさりと霧散した。
それでも、ときどき、すでにまったく動けない状態に陥っている部隊のことを、あたかも万全な装備をした救世軍のように思ってしまうようで、それらの部隊が、颯爽とベルリンに現れ、今の窮地から救い出してくれるのだと、うわごとのように言うのだった。
そのたびに側近たちは、疲れた頭を振りながら、そんな夢のような部隊はどこにも存在しないのだと、根気よく説明するしかなかった。
側近の言葉に閣下は苛つき、ヒステリックに喚き、怒鳴り、泣いた。
首都はすでに機能していなかったが、大本営もまた麻痺状態だった。
第三帝国の幻想は、もはや消えようとしていた。
そんな状態でも、シェンクは総統閣下を見捨てることはできなかった。医者として苦しむ患者を見捨てることができなかったし、この国の繁栄のために力を尽くしてきた指導者を、部下として、国民として、見捨てることができなかったのだ。シェンクはこれまで総統閣下の理想を自分の理想として生きてきた。アドルフ・ヒトラーという男は、シェンクにとって人生そのものであり、国そのものだった。
戦況の悪化と共に、総統閣下の死は避けられないだろうとの想いが、大本営となっている総統地下壕に籠もった人々の心を支配した。そうした人々の心に呼応するように、閣下の死への願望は、日に日に強まっていった。ハーゼ博士に確実な自殺方法を訊ね、シアン化物のカプセルを用意させた。そして、そのカプセルを、秘書や副官など身の回りの者に「敵の辱めを受けるよりは、栄誉ある死を」と、ひとりひとりの手を握って渡した。閣下はその言葉を、自らに言い聞かせていたに違いない。それは、閣下に残された、唯一の矜恃の示し方だった。
国が滅んでゆく音を聞きながら、それでもシェンクは、なんとかならないものかと考えた。敬愛する総統閣下をこのまま死なせたくなかった。閣下の魂をなんとしてでも後世に伝えたいと、そう思った。
だから、意を決して申し出たのだ。
閣下の魂を抽出し、永遠にとどめる許可をください――と。
かねてから興味を抱いていた男の話をした。己の娘の魂を抽出して石に閉じこめた男の話だ。閣下は、その話を実に興味深そうに最後まで聞くと、どこかホッとしたような表情を浮かべて頷いた。
「そのバッケンシュタインという男を、ここへ呼びたまえ」
その男がダッハウにいることを知っていた。だから、すぐに呼び寄せる手配をした。
そして、その本人が、今、こうして総統閣下の前にいる。
純粋に閣下のためを思って進言したつもりだった。閣下のためにこの男を呼び寄せたはずだった。だが今は、ぜひこの眼で魂を抽出する瞬間を見たいという願望のほうが大きくなっていた。
実験材料が、敬愛する総統閣下であるというのは、やや不本意ではあったが、堂々と世紀の大実験に臨席できる幸せには代えられなかった。学者としての好奇心が疼く。シェンクは、自分のその不遜な感情を否定しなかった。
ナチス総統の魂の抽出――それは、人類史に残る壮挙に間違いない。
だから、どうか総統閣下が許可してくださるように、バッケンシュタインが断ることにないようにと、シェンクは心の中で強く祈った。
運動不足と機能障害で太ったナチス総統と、栄養失調で痩せ細ったユダヤ人。体型にこそ差があったが、見た目の年齢や、髪の色や、眼の色が、とてもよく似ている。
無言のまましばらく対峙していたふたりだったが、閣下が、ようやく口を開いた。
「私の母の主治医は、ユダヤ人だった。立派な医師だった……」
閣下の言葉に、バッケンシュタインは身じろぎした。
「あなたも、ユダヤ人医師だと聞いた……」
バッケンシュタインは頷いた。
「私は、私の魂をこの世にとどめたいと思っている。先生だけが頼りだ。どうかよろしく、お願いします」
ナチス総統が、あろうことかユダヤ人の手を両手で握りしめ、深々と頭を下げている。
ギュンシェは呆然とした顔でその様を見詰め、バッケンシュタインも、しばし固まったように動かなかった。
閣下が頭を上げると、バッケンシュタインは言った。
「解りました……」
閣下の顔に安堵の色が浮かぶ。
だが、シェンクは、バッケンシュタインが、〝承知しました〟とも〝約束します〟とも言わなかったことに気付いていた。
総統閣下に頭を下げさせたユダヤ人の後ろ姿を見詰めながら、シェンクは、自分が側に付いている限り、この男に妙なことは絶対にさせないと心に誓うことで、辛うじて、己の中に湧き上がる不安を打ち消した。
四月二十九日の深夜過ぎ、総統地下壕の地図室で、総統は、長年の愛人であったエヴァ・ブラウンとささやかな結婚式を挙げた。立ち会ったのは、ゲッベルス宣伝大臣と、総統個人秘書であるマルティン・ボルマン党官房長だった。
続いて行われた結婚披露宴の最中、そっと席を外した総統閣下は、シュトゥンプフエッガー中佐に命じて、所持していたシアン化物のカプセルが本物であるかどうかテストさせた。愛犬ブロンディに毒を飲ませて、死ぬ姿を見下ろしている閣下の姿を、シェンクは開いた扉越しに見てしまった。
その後、閣下は、秘書であるトラウデル・ユンゲと執務室に籠もってしまった。遺書を口述筆記させているのだろうと、みな噂した。
午前四時。遺言に署名を終えた閣下が、新婦と共に床についたことをシェンクも耳にした。
総統閣下は覚悟を決めて、粛々と人生の終焉を迎える準備をなさっている。そう思うと、胸が締め付けられた。
同盟国であるイタリアのファシスト党首ムッソリーニは、逃亡途中でパルチザンに捕縛され、昨日、銃殺刑にされたらしい。ムッソリーニの遺体はミラノのロレート広場に逆さ釣りにして晒されているという。生きのびようと足掻けば、総統閣下にも同じ運命が待っているはずだ。閣下の遺体は、絶対に敵側に渡すわけにはいかないと、シェンクは強く思った。
二十九日の朝から三十日の午後にかけて、シェンクは不眠不休で準備を続けた。バッケンシュタインの論文から、必要だと判っているものはいくつか事前に用意していたが、本人に確認しながら、さらに必要な機材を追加した。敵軍に完全に包囲された状況下で、特殊な材料を確保するのは至難の業だったが、総統閣下を永遠たらしめたいという、みなの想いが不可能を可能にした。
そして、三十日の午後二時を回った頃、総統地下壕で働くひとり一人に別れを告げて個室に戻ってきた総統閣下を、準備を終えたシェンクは、ハーゼ博士、シュトゥンプフエッガー中佐、ボルマン党官房長、ギュンシェ副官、ヒトラーユーゲント団長だったアルトゥール・アクスマン、そして、バッケンシュタインと共に出迎えた。
「ハイル・フューラー!」
バッケンシュタインを除く男たちの敬礼を、総統閣下は片手を軽く挙げて受けた。
いつもと変わらぬ閣下の姿に、シェンクは涙を抑えることができなかった。総統閣下は、そんなシェンクの眼を見詰めると、肩をポンとひとつ叩いた。
「すべて任せた。よろしく頼みます」
シェンクは、無言のまま手だけを挙げて敬礼すると、涙を払い作業を開始した。