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4.旧地下壕から総統地下壕へ―四月二十八日・夜
斜め前を行く男のコートには赤黒い染みがある。はじめて会ったときも、今も、生臭い血のにおいをまとった男。それが、エルンスト=ギュンター・シェンクだ。
「ずいぶんと洒落た特技を持ってるようだな」
シェンクが前を向いたまま言う。
「娘を喜ばせたくて練習した。ずいぶん苦労して覚えた。一度覚えたものは、忘れないものだな……」
「娘は喜んでくれたか?」
「ああ……」
「子供の笑顔はいい」シェンクが言った。「いつも笑顔で暮らせるようにしてやりたいものだ。餓えなどで苦しむことなく……」
バッケンシュタインは軍医の横顔を見詰めた。が、何の表情も見せない顔からは、その内面を推し量ることはできなかった。
「教授!」雑用係らしい少年がシェンクに声をかけてきた。「先日はありがとうございました」
シェンクは片手を上げて応えると、歩みを止めぬまま言った。
「ロルフだったか……様子はどうだ?」
「今朝ほど……死にました……」
シェンクは足を止めると、少年の顔を見詰めた。
「……力になれなくて……すまない……」
「いいえ、とんでもない!」少年は慌てて手を振った。「教授は出来る限りのことをしてくださいました。あいつも満足に違いありません」
シェンクは、少年の肩に手を乗せると言った。
「早くここを出たほうがいい。君まで無駄死にする必要はない」
「お気持ちだけありがたく……」
シェンクは微笑む少年の肩を軽く叩くと、背を向けて再び歩き出した。
バッケンシュタインはあとを追いながら、心持ち俯き加減になった医者の顔を、黙って見詰めていた。
「私は内科医だ」シェンクが、ひとりごとのように呟いた。「ハーゼ先生も内科医だが、外科の経験もあった。私たちの他に医者はいなかった。みなベルリンを脱出してしまったからな。だから、外科の経験がまったくない私がハーゼ先生の指示をあおぎながら手術をするハメになった。はじめてのこぎりで生きた人間の足を切り落としたときは吐き気がしたものだ。血で手が滑って巧く切ることができず、患者にひどい苦痛を与えたかもしれない。その患者は死んでしまったから、確かめようもないがね……」
シェンクの片頬に苦笑が浮かぶ。
「まるで肉屋の商品のように人間の手足が山積みになってゆく光景は、気持ちのいいものではない……だが、生かすためには、傷つき腐った手足を、躊躇うことなく切り落とすしかないのだ」
「ユダヤ人は腐ってなどいなかった。傷つけたのも、腐らせたのも、あんた方だ」
バッケンシュタインの憤りを、シェンクはどう受け止めているのか。その表情に変化は見られなかった。
「この地球の資源は限られている。すべての人に行き渡るだけの土地も空気も食料もないのであれば、より優秀な者、より有益な者を優先的に選抜し、生き残らせるのは当然だろう。劣った者を生きのびさせるために、優秀な者が犠牲になるのであれば、人類の未来は暗い。人類の未来を考えれば、あえて躊躇いを押さえて、切り捨てることも必要なはずだ」
「ならば、なぜ、あんたはここに残っている? 優秀で有益な人物であるはずのあんたが、身を危険に晒してまで、能力の劣る庶民の命を助ける必要などなかろう。ここを離れ、生きながらえることを考えるべきだ」
「総統閣下がもっとも信頼していた主治医であるモレルは、そう言って真っ先に逃げ出した。今、総統閣下の側にいる医師は、私とハーゼ先生と、シュトゥンプフエッガー中佐だけだ。われわれが逃げ出したら、だれが閣下を診る? 閣下がここにいらっしゃる限り、われわれは逃げない。私は、今、もっとも守るべきものを守っている。総統閣下の命に比べれば、自分の命など大したことはない」
灰色の瞳に宿る揺るがぬ信念。
しかし、それは、バッケンシュタインの眼には、歪んだ信念として映った。
庶民の血にまみれ、奮闘するこの男は、立派な医師に見える。信念を貫こうとする姿は、颯爽として好感が持てる。だが、根本的な部分で彼を歪ませているものがある。それは歪んだ思想だった。
思想は人を正すが、歪ませもする。
シェンクは、あえてその歪んだ思想に固執しているようにも見えた。バッケンシュタインが復讐心を手放せないのと同じように、手放してしまえば、それまで生きてきた自分を否定することになるのを恐れてのことかもしれない。
「われわれは、理解しあえたかもしれないのに……残念だ……」
バッケンシュタインが溜息と共に呟くと、シェンクは振り向き、不快気に眉を寄せた。
そう。ユダヤ人の同情など、この男には不快なだけなのだ。ならば、同情などすべきではない。憎しみには憎しみを。侮蔑には侮蔑を――素直に返せばそれでいい。
バッケンシュタインは口を閉じた。シェンクも無言で足を運ぶ。
不安気な顔でたむろする兵士や、酔ってふらつく将校たちをかき分けて奥へと進み、頑丈な扉をくぐると、コンクリートのにおいが鼻についた。先ほどいた区域よりも新しく作られた場所であることは壁紙の白さからも判る。壁の厚みもぐっと増しているようだった。
調度類の格調の高さや、壁に飾られた絵などから、ここが特別な区域であることがうかがえた。空気のにおいが違う。キンと張り詰めた、殺気のようなものを感じ、足が竦みそうになった。警備の親衛隊が放つ熱意が、空気をも固めている。この先にだれが待っているのか、訊かずとも知れた。
親衛隊が左右を守る鉄の扉を、シェンクが叩いた。中から扉を開けたのは、シェンクと共にいた総統副官だとかいう男だった。名前は確かギュンシェといったか。顔付きは優しいが、いかにも軍人らしい鋭い目付きをしている。年齢は三十に満たないように見えるが、少佐の肩章を付けた男は、人を蔑むことに慣れているようだった。バッケンシュタインを見下ろす眼は冷酷で、無慈悲そのものだ。
ギュンシェは、シェンクに軽く目配せすると、体をずらし、中に入るよう促した。
「ハイル・フューラー!」
部屋に踏み入れ、ナチス式の敬礼をするシェンクの顔が引き締まる。その顔に浮かんだものは、畏敬の念のようにも見えたが、怯えのようにも見えた。
ギュンシェが扉を閉める。
どっしりとした執務机に、秘書のものと思われる小さな机と椅子。奥のほうにあるのは重要書類などを保管するための金庫だろうか。照明は明るく、床を覆う絨毯は柔らかい。豪奢ではないが、質の高い調度をあしらった機能的な執務室だった。
執務机の前に立つ、ちょび髭を生やした、青い眼に黒い髪の男が、右手をぞんざいに挙げてシェンクの敬礼に応えた。
名乗らなくてもだれか判った。写真で見たよりもずっと老けて見える。バッケンシュタインと同じくまだ五十代半ばのはずだったが、七十を過ぎた老人にしか見えない。背は曲がり、手は絶えず震えている。顔色は黄色く、男が病み衰えていることは、医術の心得がない者にもひとめで判るだろう。
バッケンシュタインが実年齢よりも年老いて見えるのは、極度の栄養失調と過酷な環境と過重な肉体労働のせいだったが、この男を老けこませてしまったものは、その対極にあるものに違いない。
立っているのも辛そうな様子でありながら、それでもその男は、絶対的権力者のにおいを強烈に放っていた。人の生死を握った者だけが持つにおい。
権力者の手は、人の命をもてあそぶ。この男の手の中に、今も多くの同胞の命が握られているのだ。
ナチス総統アドルフ・ヒトラー。
バッケンシュタインと、その同胞すべての敵が、今目の前に立っていた。
ヒトラーの視線を真っ直ぐに受け止めて、バッケンシュタインは、汗のにじんだ手の中で薄紅色の小石を強く握りしめた。