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3.総統官邸旧地下壕―四月二十八日・夜
眼が醒めた。
遠く微かに天使の歌声が聞こえる。
目覚めを促したのは、その歌声だった。
バッケンシュタインは、ベッドの上で体を起こした。ついくせで頭を屈めてしまったが、身を起こせばすぐに頭がつかえてしまう三段ベッドではないことを思い出し、思いっきり伸びをしてみた。
簡易ベッドではあったが、当然のことながら薄く藁を敷いただけのものより格段に寝心地がよかった。シラミのいない毛布を使うのは何年ぶりだろうか。
たっぷりの湯でシャワーを浴び、清潔な衣服に着替え、あたたかな食事にありつくと、そのあとは泥のように眠った。久しぶりに深い眠りだった。同胞と共にいるときは味わえなかった平穏を、敵中にあって味わっている自分を不思議に感じた。同時に、この平穏に身を委ねてはならないと、己を戒める。
ベッドから降り、改めて自分のいる部屋を見回してみた。部屋の扉が少し開いていて、廊下の明かりが見える。室内の照明は消されていたが、漏れ入る明かりのお陰で周囲の様子が見て取れた。
窓のない狭い部屋だった。ベッドの他に木製のテーブルと椅子が一脚ずつ。他には何もない。白い壁紙を軽く叩いてみると、冷たい硬さが伝わってきた。おそらくコンクリートでできているに違いない。鉄の扉が壁よりも数十センチ凹んだ場所にある。その凹みが壁の厚さだとすれば、この部屋の頑丈さは半端ではない。ここへくるまでかなり階段を下ったので、総統官邸の地下深くに作られた防空施設なのだろうと思う。
扉の隙間から天使の歌声は聞こえてくるようだ。澄んだ美声の重なりが、見事なハーモニーとなって響いてくる。涙が出そうになったが、泣けば心が折れて、何もかも投げ出したくなりそうな気がしたので、ぐっと堪えた。投げ出してしまえばさぞかし楽だろうとも思う。こんな歳になってまで我を張り通す己の幼稚さも充分心得ている。それでも、突っ張り続けるのは、くだらない意地なのだ。しかし、この意地を捨てたら、これまでの自分の人生を否定することになる。だから捨てられない。
バッケンシュタインは、そっと扉を押してみた。
扉の横に銃を持った兵士がいたが、バッケンシュタインの視線に対して軽く会釈を返してきただけで、廊下に足を踏み出しても咎めることはなかった。
廊下には、避難してきたと思われる市民たちが座り込んでいた。女や子供や老人や、腕や足を失った男たち。みな背を丸め、諦観の浮かぶ視線を宙にさまよわせていた。空気の中に悲痛がにおう。
人々の表情はダッハウと似ていた。それでも、ここはまだダッハウよりはマシだとバッケンシュタインは思う。束の間にせよ、ここは、彼らにとって肉体的にも精神的にも安全地帯となっているのだから。少なくとも、今、この場には、人を人とは思わぬ狂気のにおいがない。
だが、ここにも、その狂気は確実に迫っている。バッケンシュタインは、ダッハウからここに来るまでの間に、それをはっきりと感じた。
ダッハウを出てからここまで、過酷な道程だった。空も地上も、どこもかしこも赤軍と連合軍で埋め尽くされていた。ベルリンは完全に包囲され、ナチス軍に反撃の余力は残っていないようだった。
車輌と軍機を乗り継いできたのだが、制圧された地域を器用にすり抜けて公園に着陸してみせた空軍パイロットの腕前は見事なものだった。ナチスには、彼のような力量のある男たちがまだまだ残っているようだ。しかし、いくら優れた個人がいようと、この国の崩壊を止めることはできそうもない。第三帝国が、もはや蘇生のかなわぬ瀕死の状態であることは、戦況を知らないバッケンシュタインにすら見て取れた。
軍機を降りてから総統官邸に辿りつくまでの間、市街の悲惨な状況がいやでも眼に入った。瓦礫と死体の山。収容所と同等か、それ以上の惨劇が、そこかしこに転がっていた。黒い軍服にハーケンクロイツの真っ赤な腕章を付けたヒトラーユーゲントの少年少女らが、手榴弾たったひとつを手に戦車と対峙していた。無理やり駆り出された老人たちが、足を引きずりながら砲弾を運び、戦闘機に狙い撃ちされていた。
そうした惨状を眼にしても、だからと言って、彼らに同情する気にはなれない。彼らが自ら行ってきたのと同じ蛮行の受け手側にまわったからといって、この恨みを帳消しにするつもりはなかった。人として生まれた以上人として生きたいという単純な願望を、根こそぎ奪った罪は重い。安易に忘れ去ることなどできようはずがない。また、忘れ去ってはならないとバッケンシュタインは考える。
彼らが滅びるとすれば、それは自業自得だ。
そう思う一方で、ナチスに鉄槌を加える連合軍や赤軍を、悪を砕く正義であり、迫害されたユダヤ人らの救い主であると安易に賛美するつもりもなかった。彼らがベルリンの市民に対して行っている残虐行為を見る限り、そこにはナチスがユダヤ人らに対して行った行為と同様の原理が働いているように思えて仕方なかったからだ。
人を人とも思わぬ狂気の連鎖。
やがて勝利した側が「正義」を名乗り、敗北した者たちを「悪」として歴史に刻むに違いない。しかし、彼らが行ったことは、どちらも死体の山を築くことであり、手法においても、結果においても、何の違いも見出せない。相手を威嚇し、殺し、己の力を見せつけることで、優位に立とうという行為に「正義」という名目をかぶせる人間の欺瞞。その欺瞞に踊らされてしまったところに、悲劇が生まれた。それを見抜けず、欺瞞を欺瞞で駆逐しても、根本的解決にはならず、今後も絶えることなく「戦争」という「正義」は繰り返されるだろう。そして何の罪もない市民の――女や子供や老人の――死骸の山が築かれ続けるのだ。
いつか、人類は、「戦争」という手法にたよらず、本当の「正義」と本当の「平和」を手に入れることができるのかもしれない。だが、そのような英知とは無縁の場所と時代に生きるバッケンシュタインが、今この瞬間に願っていることは、己が「善」となることでも、この世に「正義」が遂行されることでもなく、ただ、自分が受けたこの苦痛を、この恨みを、わずかでも晴らすことだった。
復讐というものが不毛な行為であることは重々承知だった。それでも、このいたたまれなさ、この無念さを飲み込んで、黙って死んでゆく気にはなれなかった。どうせ死ぬのであるならば、この身を捨ててでも、自分が受けた苦痛を、悲しみを、相手にも味わわせてやりたい。思い知らせてやりたい。
愚かなことだと判っている。それでも、一矢も報いることなく、なすがまま侮蔑に甘んじることを自分の心が拒否している。その自我の噴出をバッケンシュタインは、どうしても止めることができなかった。
戦争が、人を人と思わぬ狂気ならば、バッケンシュタインの復讐は、己を人と思い、相手を人と思うがゆえの狂気と言えた。
手の中で、小さな薄紅色の石をもてあそぶ。すでに間違いを犯し、神に叛いた身だ。シェンクに「死体は焼かずに埋めて欲しい」と頼んだのは、最終戦争のあとに訪れる復活の日に、墓から甦って永遠の魂を得ることを望んで言ったのではない。最後の審判で己の行為をきっちりと神に裁いて欲しかったからだ。地獄は恐ろしい。しかし、自分の行為がもたらした結果であるならば、それを正面から受け止める覚悟がバッケンシュタインにはあった。現世の地獄に理不尽に落とされた。だが、いや、だからこそ、本物の地獄には、自ら進んで笑いながら堕ちてやろう。
歌声が続いている。
「ここには天使が住んでいるのかね?」
警備の兵士に問うと、兵士は笑いながら答えた。
「ゲッベルス大臣のお子様たちですよ。夫人も実に立派な方ですが、お子様方も素晴らしい。大臣ご一家は全ドイツの手本です。誇りです。もっと間近でお聞きになりますか?」
バッケンシュタインが頷くと、若い兵士は先に立って歩き出した。うずくまる人々の間を進む。
「教授のお知り合いだそうですね」
若い兵士が話しかけてきた。
「教授?」
「軍医のシェンク親衛隊大佐のことですよ」
バッケンシュタインは曖昧に頷いた。
「ここには素晴らしい方が沢山いますが、教授もベルリン市民にとって英雄です。移転を拒んで、こうしてベルリンにとどまり、ハーゼ博士と共に市民の治療に当たってくださっているのですから! 自分の幼い従弟も教授の治療のお陰で、片足は失ったものの、命は助かりました。教授がいなければ、今頃死んでいたでしょう。教授は、貧しい者も分け隔てなく治療してくださる。自分にとっても、このベルリンにとっても、教授は大恩人です」
バッケンシュタインは、誇らしげな兵士の顔から眼を逸らした。この青年は、シェンクが行ってきた残酷な人体実験を知っても、それでも彼を英雄と讃えるのだろうか?
いや、おそらく讃えるのだろう。ユダヤ人を犠牲に、ドイツ国民のためになる研究をした英雄。ドイツの栄誉として!
この兵士も、避難してきた市民たちも、バッケンシュタインがユダヤ人であると知ったら、どんな顔をするだろうか?
「私はユダヤ人だ!」そう叫けぶと同時に、この人懐こい青年兵士の顔が豹変し、無気力だった市民たちの眼に焔が燃え、餓えた猛獣のように襲い掛かってくる――そんな様を想像してみる。
ユダヤ人――それは、ここにいる全員を狂気に走らせる魔法の言葉だった。やがて、「ナチス」や「ファシスト党」や「日本」や、その他の言葉が「ユダヤ人」に取って代わる日がくるのかもしれないが、当てはめられる言葉がどんな言葉であるにせよ、たったひとつの言葉が人間を変えてしまうというのは、なんと不思議で、なんと恐ろしいことか。
「悪」を「悪」として糾弾するのは大切なことだが、「悪」の本質を見極めることを怠って、ただ単純に、その名前の下に属するものすべてを「悪」と決めつけてしまうのは、危険な行為ではないだろうかと、迫害されてきた立場であるからこそ、バッケンシュタインは思うのだった。
開きっぱなしの扉をひとつくぐると、そこには歌声が満ちていた。
こぢんまりとしたホールのような場所だ。集まった人々は、みな同じ方向を向いている。彼らの視線の先には、六人の少年少女がいた。揃いの服を着て、椅子を連ねた即席の舞台の上に立っている。舞台の下から子供たちに向かって指揮棒を振るう女性は、母であるゲッベルス夫人だろうか。
近くで聞く歌声は、澄み切った湖を思わせた。涼やかで清廉で豊かな響き。バッケンシュタインは眼を閉じて、しばしその美しい声音に耳を傾けた。
この純粋な歌声を披露している子供らも、魔法の言葉を聞けば、途端に狂気に駆られるのだろうか。そう思うと、天使の歌声も、どこか錆びた軋みを含んでいるような気がしてくる。そして、そんな風に感じてしまう自分を、悲しい存在だと思った。
歌声が止み、拍手が巻き起こる。バッケンシュタインも眼を開け、幼い合唱団に拍手を送った。
「健気なお子様たちです」ここまで案内してくれた青年兵士が言った。「ここを去る人も多い中、エヴァ・ブラウン嬢や総統秘書の女性など、避難勧告にもかかわらず、総統と運命を共にする覚悟でここに残っていますが、ゲッベルス夫人もお子様たちと共に、総統への忠誠を表すために、わざわざ危険を冒して、ここへいらっしゃったんですよ」
子供たちは微笑みながらも、どこか疲れているように見えた。一番小さな女の子の暗く沈んだ顔には、特に胸が痛んだ。歪んだ大人たちの理想に翻弄される子供たち。彼らに罪があるはずはない。
「すまないが、ペンを持っていないかね?」
バッケンシュタインが訊ねると、青年兵士は内ポケットから一本のペンを抜いて差し出した。見慣れぬ形状を訝ると、兵士は自慢げに言った。
「珍しいでしょう? ボールペンです。二十歳の誕生祝いに叔父がくれたんですよ」
「しばらく借りても大丈夫かね?」
兵士はにこやかに頷いた。
バッケンシュタインは、ボールペンを持って、ゲッベルスの子供たちの前に出た。
「素敵な歌声への、ささやかなお礼です」
バッケンシュタインは一礼をすると、左手に持ったボールペンを一番幼い女の子の前に差し出した。
少女がボールペンを掴もうとすると、バッケンシュタインは右手で、ボールペンの上をサッと撫でた。目の前からペンが消え、少女は、「あっ」と叫ぶと、バッケンシュタインの右手をこじ開けた。そこにボールペンはなかった。
驚く少女の隣で笑っている少年のポケットから、バッケンシュタインはボールペンを取り出してみせた。
今度は少年が驚き、少女が笑い出した。
バッケンシュタインは、ボールペンを手の中で消したり出したりした。さらに、口から入れて耳から出す。その次は、右の鼻の穴に入れて、左の鼻の穴から出してみせる。
子供らは眼を輝かせ笑い転げ、そして、力一杯拍手してくれた。
周囲の大人たちも笑いながら拍手している。その笑顔の向こうに、腕を組んでこちらを見詰めている人物がいることにバッケンシュタインは気付いた。
剃り上げた頭。知的な灰色の瞳。灰緑色の軍服の上に長い軍用コートをはおっており、その左腕には赤十字の腕章がはめてある。
視線が合うと、男は、付いてくるように顎で奥の扉を示した。
バッケンシュタインは観衆に向かって一礼すると、ボールペンを青年兵士に返し、男のあとを追った。