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2.総統官邸旧地下壕―四月二十八日・昼
エルンスト=ギュンター・シェンクは、木のテーブルを挟んで立つその男を見た瞬間、彼を連行した将校が間違いをしでかしたのではないかと疑った。求めていた人物とはまったくの別人ではないかと思ったのだ。
短い頭髪。そげた頬。落ちくぼんだ眼。生気のない青白い顔で、両手をだらりと下げて立つ姿は、どう見ても有能な科学者には見えなかった。
さほど遠くない場所で爆発音がし、地下壕全体がビリビリと震えた。総統閣下の愛犬ブロンディが吠え、秘書か、もしくは、宣伝省大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの妻だと思われる、女の短い悲鳴が聞こえた。シェンクの横に立つ総統個人副官オットー・ギュンシェは、身じろぎをし、軍服の喉元に指を入れて緩める動作をした。
だが、つい先ほどまでベルリン市街にあって、敵の砲撃をかいくぐりながら、手足を吹き飛ばされたり内臓がはみ出したりした市民や兵士たちの治療に当たっていたシェンクは、この程度のことでは動じない。
今目の前にいるその男も同様に、連続する爆撃音と激しい振動にも眉ひとつ動かさずにいた。そのことに気付いたシェンクは、改めて男の顔を見詰めた。
この男が本当にバッケンシュタインであるならば、五十半ばのはずだったが、皺の刻まれた干からびたような肌は、老人のように見えた。外見は市中をうろつく浮浪者となんら変わらない。だが、よく見れば、その瞳は青く深い色を湛えており、冷ややかでいながら、奥底に熱を秘めた独特の光を宿していた。こんな瞳の持ち主を、シェンクはたったひとりだけ知っていた。それは、彼が敬愛する総統閣下に他ならない。
たとえ一瞬といえども、ユダヤ人風情を総統閣下と重ね合わせてしまった自分に恥じ入りながら、シェンクは男を睨み付けた。
「ハイリヒ・バッケンシュタイン……で、間違いないな?」
男は無言で頷いた。
「エルンスト=ギュンター・シェンク。親衛隊《SS》大佐。軍医だ」
シェンクは簡潔に名乗った。両手は背後に回したままだ。握手は求めない。ユダヤ人と結ぶ手は持っていない。
相手もはなから握手など期待していなかったようだ。中佐のままになっている階級章からシェンクの顔に視線を移動すると口を開いた。
「ダッハウの……?」
値踏みするような視線。こちらの力量を推し量ろうとする眼は不快だった。が、苛立ちを隠してシェンクは軽く胸を反らした。
「そう。ダッハウの大薬草園を作ったのは私だ」
十一年前、二十九歳で突撃隊《SA》に入隊したシェンクは、その後、ダッハウ強制収容所に赴任し、大薬草園の建設に心血を注いだ。ダッハウでシェンクは今も有名らしい。確かに名を残すだけの仕事を成し遂げたと自分でも思っている。ダッハウにバッケンシュタインが収監されているのを知ることができたのも、かつて勤めていたときのツテがあったからこそだった。
「あの農園の建設で百人死んだと聞いた」
淡々としたその口調に棘はない。表情にも非難の色は浮かんでいない。
何のためにそんな話題を持ち出すのだろうか。もちろん類推することはできたが、確証はなく、シェンクは、真意を探るため、相手の様子に神経を集中した。どんな些細な変化も見逃すまいと注意を払いながら、相手と同じ淡々とした口調で答えた。
「不幸な事故と、病気が重なっただけだ」
「ある種の薬草が大量に栽培されていると聞いている。人体にとって非常に有害なものだ」
「単なるデマだ。大薬草園は、兵士の健康維持に有用なハーブを栽培している。ビタミン類の効率的な摂取に貢献している」
バッケンシュタインはシェンクの瞳から眼を逸らさない。その奥に秘めたものをすべて暴く力があるのだぞと言わんばかりの視線に、シェンクは内心たじろいでいたが、眉ひとつ動かさず言ってのけた。
あの広大な薬草園をバッケンシュタインがすべて見ているはずはない。その眼で見ていれば、医者である彼には、どのような効力のある薬草であるか、きっとひとめで判ったに違いない。だが、そのような特殊な場所に彼のような囚人を立ち入らせるはずはなかった。
「……大薬草園の建設に携わった医者は、その後マウトハウゼンの収容所で、廃棄物から作ったソーセージを囚人に食べさせる実験をし、数人が犠牲になったと聞いたが?」
一収監者の耳にそんな噂までが入っているのかと、シェンクは苛立ちながらも、冷徹な仮面を崩さぬままバッケンシュタインの問いに答えた。
「あれは、実に残念な結果だった。成功していれば、この国の食糧事情はおおいに改善されたことだろう。飢餓の撲滅こそが私の目指すところだ。あの実験が成功していれば収容所に回す食糧も確保でき、餓死者を出すこともなかったろう……あの実験は、収容者たちのためでもあった」
「だが、犠牲が出た」
「新しい研究に犠牲は付きものだ。わずかな犠牲がより多くの者の命を助ける。それは犠牲になった者たちにとっても非常に名誉なことではないかね?」
「それが名誉であるならば、あんたが自らソーセージを食べてみればよかったのだ」
バッケンシュタインの瞳に怒りの焔が垣間見えた。
感情の発露に、シェンクは内心ほくそ笑んだ。そう。この男は怒っているのだ。怒りの原因は判っている。だから、それを取り除いてやればいい。
シェンクは肩の力を抜くと、苦笑を浮かべた。
「もちろん食べてみた」
バッケンシュタインが眼をむく。
「その直後にひどい嘔吐を繰り返し、熱を出した。確かに、人間にはとても食べられる代物ではなかったな」
「そんなものを、どうして、何日間にもわたって、彼らに無理やり食べさせたのだ?」
口調に表れた動揺を、シェンクは聞き逃さない。
「彼らの貴重な犠牲は、われわれに有益なデータをもたらした。価値ある犠牲を否定しては発展は望めない」
「われわれは人だ。豚ではない」
男は眉を寄せた。瞳が揺れ動く。
「むろん、あなたは豚ではない。立派な医者であり科学者だと心得ている。だから、ここへ招いた」
感情を抑え、冷静に切り返す。
しばしの沈黙。そして、バッケンシュタインは溜息混じりに言った。
「あんたは、本当にそう信じているのか?」
「あなたは間違いなく科学者で、われわれが必要としている知識を持っている唯一の人間だ」
そう答えると、バッケンシュタインは首を振った。
「そのことではない。犠牲は名誉なことだと言うその言葉を本気で信じているのかと問いたかったのだ。あんたらが私をここに連れてきた理由は判っている。私に実験をやらせたいのだろう? その実験材料は、名誉ある豚かね? それとも屑のような人間かね?」
それまで黙って会話を聞いていたギュンシェが、怒りも露わにテーブルを叩いた。
銃を引き抜き、今にも発砲しそうなギュンシェを、シェンクは手で制した。
バッケンシュタインの協力がどうしても必要なのだ。彼の機嫌をそこねるわけにはいかなかった。しかし、この不愉快な会話はさっさと、なおかつこちらに有利に終わらせたいというのも偽らざる本音だった。
バッケンシュタインは、ギュンシェが突きつける銃口を面白そうに見ている。どうやらこの男は、自分の命が惜しくないらしい。しかも自分の価値を心得ていて、それを盾にこちらを愚弄している。脅迫や強制が利かない相手を働かせるのは難しい。だが、どうしてもこの男には仕事をしてもらわねばならなかった。
「あなたの娘は、実験材料でもなければ、豚でもなかったはずでは?」
シェンクは言った。
バッケンシュタインの顔色が変わった。シェンクを無言で睨み付ける。
「あなたの娘が名誉ある人間であったのであれば、今回の対象も同様だ」
その言葉に、バッケンシュタインは笑った。
「親衛隊大佐を名乗るあんたが〝同様〟などと口にしていいのか?」
「人間としての機能になんら差異はない。だからこそユダヤ人を使った実験の結果が、われわれに益をもたらしてくれる」
ギュンシェが驚きの眼をこちらに向けた。
まかり間違えば危険な言葉だった。頭の固い幹部などにはとても聞かせられない。だが、医者としてのシェンクにしてみれば、あまりにも当たり前の事実だった。それなくして、ユダヤ人を使ってきた意味はなくなる。
バッケンシュタインの瞳から険が取れた。代わりに浮かんだのは、理解と……憐れみだろうか?
「何か、望みはあるか?」
シェンクの問いに、バッケンシュタインは真剣な眼差しで答えた。
「私の死体は、焼却せず、麻布にくるんでそのまま埋めて欲しい」
いかにもユダヤ人らしい望みだった。その願望がどれほど切実なものか、収容所に勤務していたシェンクはよく理解している。
「解った」
〝承知した〟という言葉も、〝約束する〟ともいう言葉もわざと避けた。そのことにバッケンシュタインは気付いただろうか。
「それが唯一の望みだ。あんたに託す」
念を押すように言うと、バッケンシュタインは口を閉じた。会話は終了だ。
シェンクは小さく微笑むと言った。
「後ほど総統閣下がお会いくださる。それまでにシャワーを浴び、食事を摂って、少し休むといい」
「それは助かる。ちょうどシャワーを浴びる寸前で、ここへ連れてこられてしまったからな」
言葉に含まれた皮肉な色合いには、わざと気付かぬふりをして、シェンクは、扉の外で警護している兵士にバッケンシュタインの世話を命じると、部屋をあとにした。