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1.ダッハウ―四月二十五日
「出ろ」
髑髏を象った襟章が付いた灰緑色の軍服に引き締まった長身を包んだ青年将校の声は、大きくもなければ威嚇的でもなかった。しかし、狭く汚い部屋に詰め込まれた人々の間から恐怖のにおいが立ち上がるのを、バッケンシュタインは、はっきりと嗅いだ。
恐怖はいつも独特のにおいとなって、空気を満たす。
恐怖を感じると、人の体は実に素直に決められた反応を示す。脈が速まり、瞳孔が拡大し、呼吸が乱れ、手に汗を握る。汗に含まれるホルモンが、この独特なにおいの正体なのだろうと、バッケンシュタインは分析しながらも、そうした物質的なにおいの他に、それとはまったく別のにおいが、確かに存在することを感じていた。それは鼻で感じるものではなく、心で嗅ぎ取るにおいだった。
恐怖とは、リスク回避の行動を促すための精神作用だ。すなわち生への本能的な執着の現れだ。生きることがそのまま苦痛を意味するこの劣悪な環境にあってさえ、それでもなお人が生への執着を捨てきれないでいるということは、まったくもって不可思議な事実だった。死こそが、自由への切符であり、苦しみの鉄鎖を断ち切る利剣だというのに、自分たちの死を告げにきた将校の声に、みな、見事なまでに恐怖のにおいをまき散らしている。
木の枠に薄く藁を敷いただけの狭い三段ベッドから緩慢な動きで這い出した人々は、重い足取りで部屋を出ると、廊下に並んだ。
いつもならば看守たちの叱声が飛ぶのだが、今日は黙って見守っている。
みなの顔に浮かんだ絶望と苦渋を、バッケンシュタインは冷静な科学者の眼で観察しながら、自らも重い体を引きずって薄汚れた列の中程に加わった。
看守が人数を数え、将校に報告する。
将校は軽く頷くと、列にざっと眼を走らせた。バッケンシュタインは、彼の真っ青な眼を見詰めていたが、そのガラスのような瞳が、こちらの視線を捉えることはついになかった。
金髪碧眼長身というヒトラーが理想とするアーリア人の特徴を見事なまでに備えた、自分の半分にも満たない年齢の、この美しい将校の頭の中には、いったいどんな思考が渦巻いているのだろうかと、バッケンシュタインは思った。今から数分後、この痩せこけたみじめな男たちの集団に、どのような運命が降りかかるのか、彼は熟知しているはずだ。それをどう捉え、どう感じているのか。
しかし、青年将校は、仮面のような冷たい表情を一度も崩すことなく、ただ「行け」と、短く命じただけだった。
看守の先導で行列が動き出す。
バッケンシュタインも仲間と共に、これまで何度も歩んだ廊下に、人生最後となるはずの一歩を踏み出した。
「特別労務班員」に選別されたときから、数ヶ月後にはこうなる運命であることは解っていた。そう言い渡されていたわけでもないし、噂として流れていたわけでもない。それでも、みな自分たちの未来を知っていた。
生きたいと思うような環境ではなかった。未来に希望を持てといわれても不可能な状況だった。それでも、死を目の前にして、喜ぶものはいない。体は素直に恐怖を感じ、心は激しく拒否している。
だれかが深い溜息をついた。
いつもならば、鋭い罵声と、げんこつが飛んでくるのだが、今日はまるで聞こえなかったかのように、何の反応もなかった。そのことがいっそう空気を重くした。
この収容所が、単に安価な労働力を確保するためだけのものでないことは、収容者のだれもが気付いている。
決してまっとうとは言い難い行為がなされていることは、現場を見ずとも、出来上がった死体の山をチラリと見さえすれば、容易に類推できる。その、とても公にはし難い、死体の山の処理こそが、特別労務班員の仕事だった。
特別労務班員に選ばれた者たちは、他の収容者との接触を断たれる。特別な区画に住まわされ、その特別な任務を毎日黙々と努めることを余儀なくされる。他の収容者の労働に比べれば、死体を運んで焼却炉にくべる作業は、確かに肉体的には楽かもしれない。しかし、精神的にはとてつもなく過酷だった。昨日まで、自分たちと同じ立場にあった者たちの死骸。しかも、まともな形を保ったものは少ない。変色し、変形し、そして、解剖されているものも多い。そのうちのいくつかは、まだ息あるうちに切開されたものであることを、バッケンシュタインなど、医学の心得のある者の眼は見抜いていた。収容者は人ではなく、あきらかに材料なのだ。
銃殺のほうがまだマシな殺され方ではないかと思えるほど無惨な死体の数々を、班員はみな眼にしてきた。その同じ運命が、その実態を知ってしまった自分たちの行く先にも待っているであろうことは容易に想像できた。
収容棟を出た行列は、四月の明るい空の下を歩いた。春とはいえまだ空気は冷たく、乾き切った大地は、歩くたびに砂埃が舞い上がった。
森が見える。鳥の声が聞こえる。しかし、広がる自由の天地との間は、高圧電流が流れるフェンスで遮られている。
やがて、煉瓦造りの建物が見えてきた。一同は、その見慣れた建物の、見慣れぬ扉をくぐった。
薄暗い廊下を行き、一室に押し込まれた。
「お前たちの、日頃の奉仕への報償として、今日はシャワーを浴びることを許可する」
青年将校が仮面のような顔のまま告げた。
だれも、その言葉を額面どおりに取りはしない。この部屋の向こう側には、自分たちが仕事をしていた焼却炉があると知っているのだから。
これから何が行われるのだろう。不安に怯える眼が互いを見詰める。
手足や首をひっぱりその限界を測るのか。水中に没してどのくらいの時間生き続けるか調べるつもりか。加圧の実験か。それとも、減圧への耐性実験か。はたまた、新薬の投与か、解毒剤の効果のほどを調べるつもりか。ウイルスを植え付けられるのか。もしくは、新型の有毒ガスを吸わされる?
何もかもがすすけた色合いに沈む中、青年将校の青い瞳が、やけに鮮やかに眼に映る。
バッケンシュタインは、上着のポケットの中に隠し持っている、小さな薄紅色の石を、左のてのひらでギュッと強く握りしめた。
入所の際、収容者はいったん裸にむかれ、所持品のすべてを奪われることになっていたが、入所の時期や担当者によって対応はまちまちだった。また、どのような場所であっても、人の行為には必ず抜け道があるものだ。太い縦縞模様の囚人服を着せられた人々に混じって私服のシャツに上着まで着用している者もいる。どれも垢にまみれ擦り切れているが、それでも、薄っぺらい粗悪な繊維でできた囚人服に比べればはるかにマシだった。
バッケンシュタインも、私服を確保したうえ、この小さな石だけはなんとか手元に残すことに成功した。他人には何の価値もないただの小石に見えるだろうが、バッケンシュタインにとってこの石は、他の何ものにも替え難い貴重な宝だった。
だが、この大切に守り続けてきた宝とも、ついに別れを告げねばならぬ時がきたようだ。
「さっさと服を脱げ」
看守に急き立てられ、仕方なく衣服のボタンに手をかけたとき、大きな音と共に扉が開き、収容所長であるハインリヒ・ヴィッカー親衛隊《SS》特務曹長の声が響いた。
「バッケンシュタイン! ハイリヒ・バッケンシュタインはいるかっ!?」
鋭い眼が一同を見回す。沈黙が垂れ込める中、バッケンシュタインは、そっと手を挙げた。
「ハイリヒ・バッケンシュタインに間違いないな」
食い入るような瞳から、絶対に嘘は言わせんという気迫が伝わって来る。バッケンシュタインは頷いた。
「今すぐベルリンへ向かえ」
さっさと踵を返す所長のあとに続いて脱衣場を出た。
仲間たちの刺すような視線を遮るように、背後で扉が閉まる。残された彼らの運命が気にかかったが、どうすることもできない。
屋外に出ると、軍用コートを与えられ、車輌に乗せられた。
車は、砂塵を巻き上げながら走り出した。焼却炉のある建物や、数年暮らした収容舎が、背後に遠ざかってゆく。
門の手前で車が停まり、バッケンシュタインは、待機していた一団に引き渡された。軍用車輌に乗せられ、銃を構えた兵士に左右をがっちりと固められた。逃げるどころか身動きすらできない。
車が走り出し、「労働は自由をもたらす」という文字が掲げられた鉄柵の門を潜り抜けた。生きてこの門を出られたというのに、バッケンシュタインは少しも喜びを感じなかった。
「なぜ、私がベルリンへ行かねばならない?」
無視されるか、殴られるかするものと思っていた問いに、意外にも答えが返ってきた。
「総統閣下が、貴様をお呼びだ」
前方座席に座った将校が振り向き、憎々しげに顔を歪ませた。
「このユダヤ人めが」
将校の言葉に、てのひらがじっとりと汗ばむ。自分の最期を予見しても浮かぶことのなかった汗。我が同胞にとって最大の敵であるナチス総統アドルフ・ヒトラーの許へ連れて行かれると聞いて、バッケンシュタインは、ひそかな興奮を覚えていた。
自分が総統に呼ばれる理由など他に思い浮かばない。ヒトラーが欲しがるようなものは、たったひとつしか持っていない。
バッケンシュタインは、ポケットの小石をギュッと握りしめると、座席に身を預けて眼を閉じ、心の中で嗤った。
総統がこれを欲しているのならば、素直に差し出してやろうか……