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第9話 制定日

 移送。


 その言葉は、紙より軽かった。


 軽いのに、身体は重くなる。


 セドリック・ハーンが置いた封印文書には、搬送時刻が書かれていた。


 今夜。


 そして理由欄には、また同じ文字。


 誤差補正。


 私は封印文書を読んだあと、何も言わずに机に戻った。


 怒りは使わない。

 恐怖も使わない。


 使うのは時間だ。


 残り時間を、何に変換するか。


 私はラザル監督官の端末を見た。


 I.A.C.からの追加照会。


 > 再建補正項は、いつ制定されたか。


 制定日。


 存在するなら答えられる。

 存在しないなら、答えは「存在しない」だ。


 だが「存在しない」と答えると、外交問題になる。

 国家の基準運用が、制定もなしに導入されている。


 制度としては破綻だ。


 破綻を“整える”方法は二つある。


 1) 制定日を捏造する

 2) 質問を潰す


 監査局は2)を選ぶだろう。

 だから私を移送する。


 私は淡々と言った。


「監督官。I.A.C.に返答しましょう」


 ラザルは目を伏せたまま言う。


「返答すれば、首が飛ぶ」


「返答しなければ、国際認証が止まります」


「止まらないように整える」


 整える。


 つまり捏造する。


 私は頷かなかった。

 否定もしない。


 ただ、別の道を提示する。


「制定日が存在しないなら、“制定日が存在しない”と事実で返すのではなく、手続きの段階で返します」


 ラザルが顔を上げた。


「段階?」


「再建補正項は、王令ではなく“運用通達”として導入された――と」


 ラザルの眉が動く。


「運用通達なら、制定日ではなく、施行日になる」


「はい。質問がずれます」


 ラザルは数秒考え、低く言った。


「……それは嘘だ」


「嘘ではありません。通達が存在しないのなら、存在しないと言えます。存在するなら出せます。存在しないなら“監査局が隠している”と外に示せます」


 ラザルが舌打ちをした。


「お前は……外交を武器にする気か」


「制度を武器にします」


 私は淡々と答える。


「I.A.C.は制度です。制度は記録を要求します」


 ラザルは短く息を吐いた。


「……やってみろ。だが、短く」


「短くします」


 私はラザルの端末を借り、返答文を作成した。


 > 再建補正項は王令制定ではなく、運用通達として扱われる。

 > よって制定日ではなく施行日が管理対象となる。

 > 施行日および通達文書の提示を求める場合、当院は関係部署(監査局)へ照会する。

 > なお、現時点で当院校閲権限は停止され、基準運用文書の閲覧が制限されている。


 最後の一文が重要だ。


 閲覧が制限されている。


 つまり、整合院が“答えられない構造”にされている。


 それ自体が証拠になる。


 送信。


 送信ログが残る。


 残れば、消されても“消された事実”が残る。


 私は淡々と紙に出力し、鞄に入れた。


 控え帳はない。

 だが控えは作れる。



 夜。


 整合院の廊下は昼より静かだ。


 窓の外の王都の灯りが、遠い。


 私は机の引き出しを開け、何も入っていないことを確認した。


 端末は押収済み。

 控え帳も保全済み。


 持てるものは紙だけ。


 紙だけなら、隠せる。


 私は鞄の底に封筒を一つ忍ばせた。


 宛先は、I.A.C.ではない。


 レオルディア連邦・記録管理局。


 内容は短い。


 > 王国の基準運用(再建補正項)に制定記録が存在しない可能性。

 > 欠けた円の上位印が介入している。

 > 当局が受領した改版符A-17の原本保全を要請。


 これは通知ではない。

 お願いだ。


 お願いは制度ではない。

 だが、お願いは人間に届く。


 私は封筒を机の奥に置いた。


 送るのは、移送の直前だ。


 監査局に見られたら終わる。


 終わるなら、最後に送る。



 扉が開く音がした。


 足音。

 一定の速度。一定の間隔。


 セドリック・ハーンが入ってくる。


 黒い制服。欠けた円の胸章。

 手には封印文書。


「時間だ」


 私は立ち上がった。


「荷物は最小限です」


「そうしろ」


 私は鞄を持ち、封筒を底で確かめた。


 まだある。


 セドリックは私を見て言った。


「最後に確認する。あなたは整合演算が誤っていると主張するか」


 私は答えない。質問する。


「監査官。あなたの胸章の印は何ですか」


 セドリックの目が一瞬だけ動く。


「監査局印だ」


「監査局の印は欠けた円ではない」


 セドリックは沈黙した。


 私は続けた。


「I.A.C.は言いました。欠けた円の上位印は連盟の認証印ではない、と」


 セドリックの口元がわずかに引き締まる。


「……何が言いたい」


 私は淡々と言った。


「欠けた円は監査局印ではなく、“改版介入印”です」


 セドリックが低く言う。


「証拠は」


「あなたが着けています」


 一秒の沈黙。


 セドリックは、初めて感情のない声で言った。


「校閲官。あなたは印の意味を取り違えている」


 私は首を横に振らない。頷かない。

 ただ質問する。


「では監査官。欠けた円の正式名称は」


 セドリックは答えなかった。


 答えないのは、答えが“未来の言葉”だからだ。


 私は言った。


「再建暦は、将来運用の用語でした」


 セドリックの目が細くなる。


「……その言葉をどこで」


「文書に書かれていました」


「文書は整合している」


「なら質問です。将来運用の用語が、なぜ現在の文書にあるのですか」


 セドリックは、初めて一歩近づいた。


 近づいて、低い声で言った。


「……現在は、将来の一部だからだ」


 私は瞬きを一度だけした。


 今、彼は言った。


 未来が現在に侵食している、と。


 彼自身の口で。


 私はその一言を、忘れない。


 忘れないために、紙が必要だ。


 私は鞄の底の封筒を握った。


 今だ。


 移送の直前。


 私は淡々と言った。


「監査官。最後に、郵便局に寄れますか」


「不要だ」


「手続きです」


「何の」


「私物の送付です。監査局の保全対象ではありません」


 セドリックは一瞬迷い、首を横に振った。


「だめだ」


 私は頷いた。


 だめなら、別の手だ。


 私は廊下へ出ると同時に、鞄から封筒を滑らせるように落とした。


 落とした、のではない。

 置いた。


 床の影に。


 誰かが拾う。


 拾えば、外へ行く。


 監視が完璧なら拾えない。

 完璧でないなら拾われる。


 制度は完璧ではない。


 だから私は生きている。


 セドリックは気づかなかった。

 気づかないふりをしたのかもしれない。


 私たちは階段を降り、黒い馬車へ向かった。


 扉が開く。

 私は乗り込む。


 扉が閉まる直前、セドリックが言った。


「エリス・ノヴァリア」


「はい」


「七日後。あなたの整合は確定する」


 私は淡々と返した。


「整合は真実ではありません」


 セドリックは答えなかった。


 馬車が動き出す。


 王都の灯りが遠ざかる。


 そして私は、確信していた。


 今夜、私が落とした封筒が外へ出れば――

 欠けた円の上位印は、外部記録に固定される。


 固定された瞬間から、

 この国の未来は、もう一度分岐する。



(第9話・了)

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