第5話 聴取
執行官:ラザル・ベネット。
その一行を見たまま、ラザル監督官は動かなかった。
怒りでも恐怖でもない。
制度に慣れた人間が、制度の“嫌な正確さ”を前にしたときの沈黙だった。
「……エリス」
彼が低い声で言った。
「今日から、お前は単独で動くな」
「承知しました」
「控え帳は持っているな」
「はい」
私は革表紙を机の端に置いた。
ラザルはそれを見て、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「それはお前の武器だ。だが――奪われる可能性もある」
奪われる。
そう言い切れる時点で、彼も理解している。
この国の記録は、守られるものではない。
必要なら、回収される。
端末が鳴った。
今度は整合院内ではなく、王宮系の回線音だった。
差出人:王宮監査局。
件名:「聴取要請」
ラザルが画面を見た。
私より先に、彼の表情が固まる。
「……来たか」
聴取要請は、命令だ。
王宮監査局は、整合院の“外”にある。
整合院が記録を整える場所なら、監査局は記録を裁く場所。
裁く側は、整える側を信用しない。
信用しないから、裁く。
私は控え帳を開き、要請文の要点を書いた。
王宮監査局 聴取要請
件名:国家整合妨害
日時:本日 午後
書き終える前に、ラザルが言った。
「控え帳は――見せるな」
私は顔を上げた。
「持参要請が出ています」
「なら、見せるな。渡すな」
「拒否すれば罪になります」
「……そうだ」
ラザルは短く息を吐いた。
「だから、言い方を間違えるな」
言い方。
この国では、言い方が制度になる。
「同席できますか」
ラザルは一瞬迷い、首を振った。
「無理だ。執行官任命が出た以上、俺が動くほど疑われる」
なるほど。
制度は、逃げ道を残さない。
「……エリス。質問には答えるな。質問で返せ」
私は小さく頷いた。
答えを言えば、切り取られる。
質問は切り取りにくい。
「では、行きます」
私は控え帳を鞄に入れ、立ち上がった。
扉を出る直前、ラザルが低く言った。
「お前は、記録を守れ」
それは激励ではない。
命令でもない。
たぶん、祈りに近い。
⸻
王宮監査局は、王都の中心にある。
整合院の白い石造りと違い、黒に近い灰色の建物だった。
入口で身分札を提示し、預け物を確認される。
武器は持っていない。
持っているのは紙と控え帳だけだ。
それでも監査局の目は、紙の方を警戒する。
受付官が言った。
「控え帳を」
私は鞄を開け、革表紙を出した。
「これは私の業務控えです」
「国家記録です」
即答だった。
私は表情を変えずに返した。
「業務控えは、記録の写しです。原本ではありません」
「写しも国家のものです」
理屈としては無茶だが、監査局は理屈で動かない。
権限で動く。
私は控え帳を差し出した。
受付官はそれを受け取り、封印紐で括った。
「聴取室へ」
⸻
聴取室は広くなかった。
机が一つ。椅子が二つ。壁の灯りは白い。
向かいに座っていたのは、無表情の男だった。
黒い制服。王宮監査局の紋章。
書類鞄。
そして――欠けた円の印が、胸章に刻まれていた。
私は瞬きを一度だけした。
「エリス・ノヴァリア校閲官」
「はい」
「監査官、セドリック・ハーン」
名乗りは形式的だった。
彼は私の控え帳を机の上に置いた。
封印紐は解かないまま。
「あなたは本日、国家整合妨害の疑いで聴取対象となりました」
「疑い、というのは」
「整合演算の正当性を損なう言動を行い、演算の安定運用を阻害した可能性がある」
私は尋ねた。
「言動の記録はありますか」
「あります」
セドリックは書類袋から一枚の紙を出した。
議事録。
整合院内での会話記録。
私の発言として、こう書かれていた。
> 「未来改版が混入している可能性があります」
私の言葉だ。
だが――
「監査官」
「何です」
「この議事録は誰が作成しましたか」
「整合院の記録係だ」
「同席者の署名は」
「不要だ」
「発言の直後に、私が控え帳に書いた事実と一致しますか」
セドリックは目を細めた。
「控え帳は今ここにある。後で確認する」
後で。
この“後で”が危険だ。
私は話題を変えないまま続けた。
「監査官。質問があります」
「質問するのは、こちらだ」
「では、確認です。私の罪状は“国家整合妨害”」
「そうだ」
「その分類コードは何ですか」
セドリックの指が止まった。
薄い沈黙。
彼は平坦に言った。
「N-AF-03」
私は頷いた。
「では、N-AF-03の定義は」
「整合演算の前提を不当に疑い、制度信頼を毀損する行為」
私は静かに言った。
「“不当に”の判定基準は」
「監査局が判断する」
「監査局は、何を根拠に不当と判断するのですか」
セドリックの目が、ほんのわずかに鋭くなる。
「前提を疑う必要がない状況で疑った」
私は返した。
「前提を疑う必要がない状況、というのは」
「整合演算は正しい」
私は、一度だけ瞬きをした。
「それが前提ですか」
「そうだ」
「では質問です。監査官。整合演算が正しいと証明するのは何ですか」
セドリックは答えなかった。
答えない沈黙は、制度側にとって弱点だ。
私は続ける。
「整合演算は、基準暦と換算式に依存します。基準暦と換算式が改訂されれば、指数は変わります」
「当然だ」
「では、換算式を改訂したのは誰ですか」
セドリックの指先が、机を軽く叩いた。
「……本題に入ろう」
本題。
彼は書類をもう一枚出した。
王宮監査局の内部資料。
表紙に欠けた円の印。
「今朝未明、暦補正係数が改訂された」
私は反射的に言いかけた。
“公告はない”。
だが私は答えない。
代わりに質問する。
「改訂を確認した根拠は」
「監査局が保有する、整合演算陣の監査ログ」
セドリックは淡々と言った。
「そして、その改訂を行った端末は――整合院の校閲端末だ」
私は表情を変えなかった。
「校閲端末は複数あります」
「あなたの端末だ」
彼は、紙を差し出した。
端末識別符。
使用者署名。
そして、改訂実行者:E. Novaria
完璧に整った書類だった。
整っているほど、危険だ。
私は質問する。
「監査官。確認します。監査ログは改ざんできませんか」
「できない」
「理論上、ですか。実務上、ですか」
「……できない」
二度目の答えは、弱い。
私は畳みかけない。
淡々と、別角度を出す。
「では、もう一点。改訂理由は何ですか」
「誤差補正」
「誤差補正の対象は」
「暦補正係数」
「暦補正係数は、何に誤差が出たとき補正しますか」
セドリックの視線がわずかに動く。
答えに詰まったのではない。
言っていい範囲を探している。
私は続けた。
「暦補正係数は、基準暦の扱い方を変えた時に動きます。基準暦を改定せず、換算式だけを変えた場合です」
セドリックが言った。
「つまり、あなたは換算式が変わったと主張するのか」
「私は主張していません」
「では?」
「見られない状態になりました。暦補正係数の閲覧権限が遮断されています」
「当然だ」
「当然、というのは」
「危険だからだ」
「危険なのは、私ですか。係数ですか」
セドリックの口元が、ほんのわずかに歪む。
「……言葉遊びはやめろ」
「言葉は制度です」
私は淡々と言った。
「監査官。私は校閲官です。空白を見つければ、止めます」
セドリックが控え帳を指で叩く。
「あなたの控え帳を確認する」
封印紐を解く。
革表紙を開く。
ページがめくられる。
私は彼の指先を見ていた。
控え帳の中身を読まれても構わない。
私は嘘を書いていない。
だが――
彼があるページで止まった。
セドリックの目が、ほんのわずかに細くなる。
「……これは何だ」
私はそのページを見た。
欠けた円。
私が写した印。
そして、その横に書いた、改版符。
A-17。
セドリックは、ゆっくりと別の書類袋を開けた。
中から出したのは、一枚の古文書だった。
紙は黄ばんでいる。
文字は古い。
しかし、印だけははっきりしている。
欠けた円。
「百年前の整合崩壊事件の資料だ」
セドリックが言った。
「あなたは、これを見たことがあるか」
私は答えない。質問する。
「監査官。なぜ監査局がそれを持っているのですか」
「整合院が“欠落させた”からだ」
欠落。
その言葉は、刃だった。
セドリックは続ける。
「百年前、校閲官が一人消えた。記録ごと消えた。
その時も、同じ印が残っていた」
彼は古文書を机に置き、私を見た。
「そして今回、同じ印が、あなたの控え帳にある」
私は静かに返した。
「整合していません」
セドリックが言う。
「何が」
「監査局が、欠けた円を“異常”として扱っていることです」
「異常だ」
「なら、なぜあなたの胸章に同じ印があるのですか」
室内の空気が止まった。
セドリックの手が、胸元に触れそうになって止まる。
彼は、初めて言葉に詰まった。
私は追撃しない。
ただ、次の質問を置く。
「監査官。欠けた円は、異常印ですか。監査局印ですか。未来改版印ですか」
セドリックは、答えなかった。
代わりに、椅子から立ち上がった。
「今日はここまでだ」
「まだ質問は終わっていません」
「終わりだ」
彼は扉の方へ向かいながら、最後に言った。
「控え帳は監査局で預かる」
私は静かに言った。
「それは、押収ですか」
「保全だ」
保全。
便利な言葉だ。
便利な言葉は、いつも危険だ。
私は席を立たずに言った。
「控え帳の返還手続きの文書をください」
セドリックが一瞬止まり、振り向く。
「何?」
「保全なら、受領書が必要です。封印番号、ページ数、対象範囲、返還期限」
セドリックの目が、ほんのわずかに動いた。
面倒だ、という目だ。
だが制度は面倒でできている。
「……用意する」
彼は苛立ちを抑えた声で言い、扉を開けた。
出ていく直前、セドリックが低く言った。
「エリス・ノヴァリア」
「はい」
「あなたは、何を守っている」
私は即答した。
「空白です」
扉が閉まった。
⸻
帰路、空がやけに明るかった。
制度が動くほど、空は関係ない。
整合院へ戻ると、ラザルが廊下で待っていた。
彼は私の手元を見た。
「控え帳は」
「保全されました」
ラザルの顔が歪む。
「……受領書は」
私は紙を差し出した。
封印番号と返還期限が記載されている。
ラザルはそれを見て、わずかに息を吐いた。
「よくやった」
その言葉は、褒め言葉ではない。
生存報告に近い。
私は言った。
「監督官。監査官の胸章に、欠けた円がありました」
ラザルの眉が動く。
「……監査局印か」
「異常印かもしれません」
「どちらにせよ、終わっていない」
ラザルは廊下の先を見た。
「そして――執行官任命は、取り消されていない」
私は頷いた。
終わっていない。
だから読む。
だから、整合していないところから、埋めていく。
私は、端末を開いた。
新着通知が一件。
差出人:国際整合連盟(I.A.C.)
件名:
「照会回答期限:本日中」
私は画面を見た。
ラザルを見た。
そして、淡々と言った。
「期限が来ました」
⸻
(第5話・了)
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