第13話 報告書
欠落者台帳は回収された。
机の上から、持ち去られた。
封印紐で括られ、欠けた円の印で閉じられ、監査局の鞄に入った。
残ったのは、机の上の“空気”だけだった。
ラザル監督官は、回収された台帳の跡を見つめたまま、ゆっくりと椅子に座った。
「……俺が担当、か」
「はい」
私は淡々と答える。
次に消されるのは誰か。
その答えが、目の前で増えた。
ラザルは私の方を見ずに言った。
「エリス。――報告に行く」
報告。
言葉にすると軽い。
だがこの国で、報告は命綱にも首輪にもなる。
「誰に」
「院長だ」
院長。
整合院の頂点。
そして整合院は、今や監査局の下に置かれつつある。
ラザルが低く言う。
「院長は俺たちを守らない。だが、報告書は“記録”になる。記録は消される。だが消された事実は――」
「痕跡になります」
私は続けた。
ラザルはようやく私を見た。
「そうだ。今日の目的は勝つことじゃない。“整える側”に、矛盾を抱えさせることだ」
矛盾を抱えさせる。
それは校閲官の勝ち方だ。
⸻
報告書は短くした。
長い文は読まれない。
読まれないなら、存在しない。
私は机の上に残った紙だけを並べた。
•職員名簿:私の識別番号が空白
•校閲差戻し簿:担当者欄の空白が増えている(私の名だけ混在)
•受領書:控え帳の封印番号(結び直しの矛盾)
•監査局の通知:端末返還なし/代理閲覧者
そして、控え帳。
封印は解かれている。
だがページは“触らない”ほうがいい。
触れば、そこが改ざん箇所になる。
触らなければ、改ざん者が触ったことになる。
私は控え帳を“開いた状態”で置き、該当ページの担当欄を指で示すだけにした。
担当:Elys Novaria
私の筆跡。
私の文字。
――私が書いていない文字。
ラザルは、報告書の末尾に一行だけ添えた。
> 「欠落者台帳」および「再建印」により、職員の存在が手続き上“整理”され得る。
> 本件は整合院の基盤に関わるため、院長決裁での調査着手を要請する。
調査着手。
便利な言葉は、いつも危険だ。
だが“調査”という言葉は、まだ制度の側にある。
⸻
院長室の前。
扉は重い。
扉の重さは、この国の責任の重さと比例している。
扉の左右に、黒い制服が立っていた。
監査局。
院長室の前に監査局がいる。
整合していない。
ラザルが言った。
「報告だ」
黒い制服は無表情のまま、扉を開けた。
⸻
院長は、書類の山の向こうにいた。
年齢はわからない。
この国では、肩書きが年齢を上書きする。
「ベネット監督官」
「報告があります」
院長の視線が、私に一瞬だけ向く。
「……ノヴァリア」
私の名を呼んだ。
それだけで、少しだけ空気が動いた。
院長は言った。
「座れ」
私とラザルは椅子に座った。
院長の右側には、ユスティナ・グレイが立っていた。
灰色の外套。欠けた円。
左側には、名前を知らない監査官が一人。
報告とは、裁かれることと同義になりやすい。
ラザルが、短く報告書を読み上げた。
欠落者台帳の発行。
職員名簿の空欄。
校閲差戻し簿の空白の増加。
控え帳に残った“私の筆跡”。
そして結論。
「欠落者台帳は、職員の存在を“整理”するための仕組みです。
空欄を作り、責任を割り当て、整理を正当化する。
次の担当に指名されたのは私です」
院長は、表情を変えなかった。
「……それがどうした」
ラザルは答えない。
質問で返す。
「院長。整合院の名簿に空欄が存在することを、許容しますか」
「許容する」
即答だった。
「整合のために必要ならな」
必要なら。
便利な言葉は、いつも危険だ。
ラザルは言った。
「必要ではありません。空欄は形式不備です。形式不備を許容するなら、整合院の存在理由が崩れます」
院長の視線が、ラザルから私へ移る。
「ノヴァリア。お前は何を主張する」
私は淡々と答えた。
「空欄は、誰かの都合で埋められます」
「埋められたのか」
「はい。私の筆跡で」
私は控え帳の該当ページを見せた。
院長は視線を落とした。
そして、ユスティナが一歩前に出た。
「その控え帳は保全物件です。改ざんの可能性があります」
私は即答した。
「改ざんしたなら、受領書が必要です」
ユスティナの眉がわずかに動く。
「受領書は存在します」
「封印紐の結び直しは記載されていません」
ユスティナは言い返さなかった。
言い返さないのは、記載がないからだ。
院長が言った。
「ベネット監督官。お前の言う“仕組み”とは何だ」
ラザルは短く答えた。
「存在を消す仕組みです」
院長は鼻で笑った。
「存在は消せない」
私は言う。
「記録は消せます」
院長の視線が、再び私に向く。
「ノヴァリア。お前は処刑予定が消えたではないか。生きている」
「はい」
「なら問題は解決している」
私は首を横に振らない。頷かない。
ただ、事実を置く。
「処刑予定が消えた代償として、私の記録が薄くなりました」
「薄く?」
「職位が消え、権限が消え、識別番号が空欄になりました」
院長は言った。
「それがどうした。整合のためだ」
その言葉が、決定的に危険だった。
整合のためなら、何でもできる。
それが再建計画の思想だ。
私は淡々と質問した。
「院長。整合とは、真実ですか」
室内の空気が止まった。
院長は答えなかった。
答えないのは、答えが「違う」からだ。
違うと認めれば、制度が揺れる。
代わりに、院長は視線をユスティナへ移した。
「監査官。説明しろ」
ユスティナは淡々と言った。
「欠落者台帳は、記録の整理のための内部帳簿です。
不整合が発生した場合、関連記録を整合させる必要があります。
担当を割り当てるのは手続き上当然です」
「誰が不整合を発生させた」
ユスティナは私を見た。
「ノヴァリアです。未来改版を口にしました」
私は言った。
「未来改版は、I.A.C.が第三者介入を疑っています」
「I.A.C.は国外機関です」
「国外機関は、国外だからこそ残ります」
ユスティナの目が細くなる。
院長が低く言う。
「……この報告は受理する」
受理。
それは勝ちではない。
処分の準備にもなる。
ラザルが聞く。
「調査は着手されますか」
院長は短く答えた。
「監査局に任せる」
任せる。
つまり、握る。
握れば、整えられる。
私はそこで、最後の一手を置いた。
「院長。確認をお願いします」
「何だ」
「欠落者台帳の担当欄は、本来空白でした。
それが、私の筆跡で埋められています」
院長は、控え帳のページを一度だけ見た。
そして――指で、紙を押さえた。
押さえる癖。
制度に慣れた人間の癖。
その瞬間、私の背中が冷えた。
嫌な予感。
紙は消えにくい。
だが、“整合処理”が走るとき、紙は色を失うことがある。
院長室の魔導灯が、一瞬だけ暗くなった。
私は目を逸らさなかった。
控え帳の担当欄。
さっきまであった私の文字が――薄くなる。
インクが、砂のようにほどけていく。
Elys Novaria。
文字が消え、紙に“繊維だけ”が残る。
私は、息を止めた。
消える。
紙でも消える。
院長は、淡々と言った。
「……見ろ。担当欄は空白だ」
ユスティナが静かに頷く。
「整理が完了しました」
ラザルの手が震えそうになって止まる。
震えれば、負ける。
感情が出れば、整えられる。
私は淡々と言った。
「整合していません」
院長が返す。
「整合している」
私は質問する。
「では院長。
なぜ“消えた”のですか」
院長は答えなかった。
答えないのは、答えが制度の外側にあるからだ。
私は最後に、報告書の控えを机の上に置いた。
たとえ私の控え帳が整えられても、報告書は“提出された事実”として残る。
残れば、次の手が打てる。
ラザルが立ち上がった。
「院長。調査は監査局ではなく整合院主体で――」
「却下」
院長は短く切った。
「ベネット監督官。お前は欠落整理の担当だ。今から監査局へ行け」
ラザルが固まる。
私は理解した。
報告は受理された。
そして同時に、担当は確定した。
欠落者台帳の次の駒は、ラザル。
ユスティナが淡々と告げた。
「なお、K-02が発行されます」
K-02。
二人目の欠落者。
ラザルが低く言う。
「……誰が欠落する」
ユスティナは、私を見た。
「それは、整合次第です」
便利な言葉は、いつも危険だ。
私たちは院長室を出た。
廊下に出た瞬間、ラザルが低い声で言った。
「……消されたな。紙でも」
「はい」
「じゃあ、もう残せない」
私は首を横に振らない。頷かない。
ただ、次の手を言う。
「残せます。外に出します」
「何を」
「“消えた事実”を」
ラザルが私を見る。
私は淡々と言った。
「監督官。I.A.C.に照会します。
欠落者台帳K-01が発行され、K-02が予告された。
そして、控え帳のインクが“消えた”」
ラザルが苦く笑った。
「お前……また敵を増やす気か」
「整合していないので」
私は答えた。
そのとき、廊下の奥で端末の通知音が鳴った。
ラザルの端末。
彼が画面を見て、顔色を変える。
「……エリス」
「はい」
「俺の職員名簿を見ろ」
彼が差し出した紙。
そこには、こう書かれていた。
ベネット監督官:識別番号――空白。
私は、静かに息を吐いた。
次が始まった。
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(第13話・了)




