温泉で美女幽霊と混浴した件
華霖王朝の北方、霜見嶺の麓には「湯鴉村」という集落があった。
この村には、かつて皇族専用の湯治場として建てられた離宮「幽湯殿」がある。
戦乱の折に焼け落ち、廃墟と化して久しいが、近年また湯が湧き出したと噂され、湯鴉村には訪問者が増えつつあった。
都から訪れた若き書吏、辰は、この再興された湯殿に療養を兼ねて滞在することになった。
「傷にも、熱にも、効くという評判でしてな」
宿の女将が言った。
「ただし、深夜の湯には入らぬこと――それが昔からの言いつけです」
辰は笑ってうなずいた。
湯殿は見事だった。大理石を思わせる白い岩で囲まれた湯船に、乳白色の湯が満ちている。
湯気に包まれた空間はどこか神聖で、湯に指を入れると、不思議なほど体が軽くなった。
辰はその日から、昼と夕方に湯に入り、痛めていた脚の回復を感じていた。
だが三日目の夜。寝つけずにいた彼の耳に、水音が聞こえた。
ぴちゃん…
ぴちゃん…
それは宿の方からではない。
――湯殿だ。
辰は蝋燭を手に、音のする方へ向かった。
月の光が差し込む湯殿の入り口。扉は、かすかに開いていた。
「誰か、いるのか?」
返事はなかった。
蝋燭の光をかざすと、白い湯気の向こうに、人影のようなものが見えた。
長い髪。白い衣。湯の中に立ち尽くしている。
「失礼、もう閉まっているはずですが……」
近づくと、それは音もなく湯の中へ沈んだ。
――そのまま、泡も立たず、消えた。
辰は凍りついた。湯は、静まり返っている。
あの人物の姿は、どこにもない。
翌朝、村の長老にその話をすると、顔色が変わった。
「…見たのですか、白衣の女を」
「ご存知なのですか?」
長老は重々しく語った。
かつて、皇帝の寵姫・麗貴妃が、この地で湯治をしていたという。
美しいが病弱で、やがて病が悪化し、湯殿の中で息を引き取った。
以来、毎年その命日に、白衣の女が湯に現れると村人は語り継いでいた。
「その日を境に、湯を白濁させるようになったのです」
長老はそう言った。
「それ以来、深夜の湯には“誰か”が立っているのだと…」
辰はぞっとしたが、理屈では納得できなかった。
病死した女が何故、現れるのか。
その晩、もう一度だけ、確かめようと彼は決めた。
夜更け。湯殿は静まり返っていた。
辰は蝋燭を手に、湯船の傍に座った。
湯気は揺れ、かすかな香のような甘いにおいが漂う。
しばらくして――また、現れた。
湯の中に、白い姿。
彼女はゆっくりと湯から立ち上がる。髪は顔を覆い、目は見えない。
だが確かに――湯の中で、彼女は笑っていた。
辰は、声をかけようとした。
だがそのとき、蝋燭の火が、突風でもないのにふっと消えた。
次の瞬間、彼は湯に引きずり込まれていた。
湯は熱くなかった。ただ、底が異様に深かった。
脚をもがいても、どこにも触れない。
そして、耳元にささやき声が。
「一緒にいて…もう、さみしくないの」
彼の目の前に、麗貴妃の顔が浮かんでいた。だがそれは、あまりに白く、あまりに爛れていた。
――ぐちゃぐちゃに、溶けた肌。目も口も崩れ、泡と湯に溶けていた。
彼は絶叫した。
翌朝、辰の姿はなかった。
湯殿の水位が異様に上がっていたという。
宿の女将はぽつりと呟いた。
「また、一人、湯の底に…」