第135話 転戦(6)越境
——東北地方 青森県
関東の防衛を浅霧に任せ、俺が本格的に東北方面への北上を開始してから約十数時間。寝る間も惜しんで移動を続けた甲斐もあって、俺はついに本州最北端の地である青森県にまで辿り着いていた。
ここに至るまでに幾度となく戦闘を行ってきたが、こまめに治癒を施していた影響か、肉体的にはもちろん精神的な疲労はない。
とはいえ、範囲が範囲だっただけに流石に東北に蔓延る全ての羽虫を俺1人で片付ける事は叶わなかった。
だが、それでもSNSの反応を見る限りは、概ねの脅威は取り除けたと考えてもいいだろう。各地域の避難所や病院、道すがらにいた怪我人なんかの治癒も含め、俺が介入して以降の人的被害は実質ゼロに抑えたと言ってもいい。
まぁ、その一方で俺をアヴァロンと同様の敵勢力と勘違いした奴等のせいで強引に振る舞う事を余儀なくされ、建物の損壊なんかが多少増えた部分はあるが、それはご愛嬌というものだろう。
東日本と西日本の政府部隊の対応が微妙に違うことからして、浅霧も何やら予め俺達に対する事で部下達に指示を出していたみたいだし、きっと俺の撃ち漏らしと合わせて、そいつらが民間人へのフォローをするはずだ。
何にせよ、人的被害を拡大させないことが先決。となれば、感謝されこそすれ、助け方にどうこう言われる筋合いはない。
唯一の懸念点としては、そうして動く中で銀次からの報告で上がった上鱗騎士や真鱗騎士といったアヴァロンの中でも上位個体とされる奴等を一度も見かけなかったことだが、それは暫く様子を見るしかないだろう。
俺も出来る事なら手応えのある奴と戦いたいが、どこに居るかも分からない奴等相手に時間を割く程の余裕は今はない。
実際に大きな被害が出ているならまだしも、別にそういう訳でもないのなら尚更、今は着実に被害を出していっている地域へと救援に向かう方がずっと建設的だ。
「何にせよ、今は一刻も早く東北を抜けて北海道へ行かなきゃな」
日本の国土の約4割を占める北海道と東北地方だが、実のところその半分以上を北海道が占めている。
つまり、現状を進捗状況で言うと半分。
この事実をもうと捉えるか、ようやくと捉えるかはそれぞれの主観によるだろうが、俺の体感的にはようやくの方に近い。
ペース的にはこれといったイレギュラーも起こらず順調そのものだが、全体図を俯瞰してみるとやはり北海道が他の地域に比べ放置されている感が否めない。
最前線である九州よりは深刻ではないし、援軍を送るには距離もあるから先ずは安全な経路を確保するためにも他の地域を優先しよう。
政府部隊の立ち回りから政府側のそんな思惑が透けて見える。
これらが全てあの浅霧の采配だとは考えにくいが、逆に考えれば浅霧だからこそこの程度の被害に留まっていたと考える事もできる。
実際、北上すればするほど政府部隊を見かける数は減少しているが、それらの部隊の殆どが驚くほど統制の取れた動きをしていた。
とはいえ、俺の苦労が無かった事になる訳じゃ無いけどな。
「…アイツにどんな事情があったにせよ、いつか必ずこのツケは払ってもらう」
そして、俺は走る脚に一層力を込めて、山間を駆ける。
走りやすさで言えば、やはり舗装されている公道を行く方が良いが、先を急ぐなら時には獣道のような道を選ぶ方がいい場合もある。
まぁ、人的被害を抑えるという副目標がある以上、人口密集地である市街地では要救助者を見落とす可能性があるため選択できないが、こうした自然の多い区域なら見落としの心配も少ない。
一応、走りながら周囲への警戒も怠っていないし、その過程で新たな技を習得した今の俺に限って万が一の見落としはあり得ないだろう。
「治癒系統術『生命探知』」
治癒のマナは生物に吸収される。その特性を活かし、マナを周囲に薄く広げて、その吸収量、即ち減少量から周囲にいる生命体を探る探知術。
周囲に散布させる為、マナの消耗が大きく、自然や人の多い場所では、その判別が難しいという欠点はあるものの、豊富なマナと既に常態化している並列思考と完全記憶能力のある俺にはそれも問題にならず、やはりその汎用性は高い。
こういった状況下ですぐに人の気配が察知できるというのもそうだが、何よりこの術を発動する段階で一定量のマナさえ保有していれば、遠くのマナも感知出来る事実に気がつけたのが大きい。
言わばGPS。
これまでは戦闘方面にばかり能力を伸ばしていたせいであまり意識をしていなかったが、これはつまりそれなりの治癒のマナさえ体に保有していれば、仲間の位置をいつでも把握出来るということだ。
現に、猛スピードで北上する俺の背面…南方面から微かに日頃から過剰なまでに治癒を施している家族を始め、肉体強化をする過程でそれに負けず劣らず治癒を受けている鬼灯連中の気配を感じる。
逆に言えば、この気配が薄くなったり、感じられなくなったりしたら自然治癒力を底上げするために体内にある俺のマナを使用しているって事だから危険な状態って事なんだろうが…
「どうやら特に問題は起こっていないみたいだな」
明け方でテンマも銀次も仮眠をとっている最中なのか、動いている気配はないが切迫した様子もない。家族の方も同様だ。やはり生まれた時から俺のマナを保有しているからか、異様にはっきりと鈴の気配が感じ取れるのが気になるところだが、それ以外に異常はなさそうだ。
カラーズの連中の気配は感じないが、それは単に俺のマナを保有していないだけで、特に問題があったわけではないだろう。俺の家族が無事である以上、拠点にいる連中の安全も保証されている。
そして、それから3時間程の時間をかけて…
「ま、待て!!」
「待たん」
——グシャッ
「…これで粗方は片付いたか」
ようやく俺は青森県内に現存する最後の羽虫を撃破し終える。
騒動の長期化の影響がジリジリと目立ってきているのか、情報が錯綜していたせいで思いの外時間が掛かってしまったが、この程度の遅れならまだ想定の範囲内だろう。
北海道での被害状況や政府部隊の頑張りにもよる部分はあるが、今後の立ち回り方によってはまだまだ巻き返せる範疇だ。
そして、俺は地図を頭の中で思い浮かべ、ここから北海道までの最短ルートを算出する。
通常、本州から北海道へと渡る手段は陸路、海路、空路…と幾つかあるが、今回のような非常時には公共交通機関が使用できるはずもなく、選べる手段は自ずと限られてくる。
「…陸路しかないか」
飛行機やフェリーなどの公共交通機関がダメとなると、残るは陸路しかない。本当はここでクロウズが使えれば1番良かったが、生憎と今はその殆どを偵察や俺やテンマ達では届かない部分の救援に向かわせてしまっている。呼ぼうと思えば出来ない事も無いだろうが、今はその待っている時間すらも惜しい状況だ。
となると、ここはやはり陸路しかない。
つまりは青函トンネル。
だが、ここで一つ問題が浮上する。現在地の下北半島から青函トンネルの入口まではかなりの距離があるということだ。
本州側の入口は津軽半島の今別町付近。そこまで向かう為には大幅に迂回しなければならず、単純計算でも相当な時間を要する。俺の脚ならそれでも並の車や列車で向かうよりは幾分マシだろうが、急いでいる今となってはその一分一秒が致命的なロスだ。
本来ならこういった状況に陥る以前にもっと早く自分の行動を顧みるべきだったが、あの羽虫共の分布を正確に把握しきれていなかった以上は、それを今言っても仕方がないだろう。
あの時は人的被害を出さない為にも、被害規模の大きい箇所から回るのが最善だった。そうした結果、最後に行き着いたのがこの場所だっただけだ。
ならば、悔やむ必要はない。俺はこれからもこれまで通り最善を選択し続けるまでだ。
「…待てよ」
だが、そうして俺が再び青函トンネルに向かって走り出そうとした時、ふと頭の中にとある妙案が思い浮かぶ。いや、厳密には妙案とも言えない正しく子供が考えたような奇策だ。
しかし、俺の卓越した思考がその奇策が有効であることを否定をするよりも先に導き出してしまう。
「水上を走る…か」
口に出してみると尚のこと馬鹿馬鹿しい。
だが、これまで陸路での移動ばかり考えていたが、俺の身体能力なら水面を走ることも不可能ではないはずだ。身体強化により得た瞬発力と、適切な身体制御による浮力の調整。
理論的には十分可能だ。
とはいえ、自然と視界の中へ飛び込んでくる荒々しくも雄大な津軽海峡を見ているとそれが無性に机上の空論に思えてならなくなる。
「ははっ、面白い…」
しかし、俺は口元を三日月に歪めて、その机上の空論を実行することを決める。
その内にあるのは恐怖や迷いではなく、成功するという確かな自信と未知の体験に対する純粋な好奇心のみ。
動機も子供でも分かる至極単純な理屈。青森から津軽海峡を挟んで北海道。直線距離で考えても、海を渡るのが最短ルートだ。
ならばやらない手はない。
そして、俺は覚悟を決める時間も取らず、瞬時に海峡を見渡せる崖上に立ち、一度呼吸を整える。
水上を走るのに必要となるのは勇気やパワーなどという大雑把なものなんかではなく、極限の集中力だ。
そして…
「治癒系統術『身体強化』」
俺はより効果を上げた身体強化を発動しながら、何の躊躇いもなく日本海と太平洋、二つの海がぶつかり合い、絶え間なく渦巻く潮流へと身を投じる。
——ッッッ
瞬間、体に襲い来る大きな浮遊感と次第に大きくなっていく奔流の音。
それを静かに目を閉じて感じながら俺は、最適な姿勢と着地する位置とタイミングを調節する。
そして、遂に強烈な潮の匂いと白波が直前にまで迫った時、俺は水面を蹴るように素早く脚を押し出す。
肝となるのは蹴る力よりも、いかに水面への着水時間を少なく出来るか。つまり、水の反発よりも早く足を引き上げる素早さ。
——シャッ
——シャッ
——シャッ
最初の数歩こそ不慣れ故の危うさがあったものの、10歩も進めばその技巧は驚くほど安定する。
そして、10メートル、100メートル、500メートル…と、極限の集中の中で難なく維持される水上走行に俺は静かにほくそ笑む。
「問題ないな」
当初は理論上の可能性に過ぎなかった水上走行の技術だったが、図らずも荒波という過酷な環境によって、その技術は一歩進む度に着実に俺の身体へと刻み込まれていく。
そして、1000メートルを越えた頃には、波の高低差を瞬時に読み取り、最適な着水ポイントを選択する技術は、既に本能のレベルにまで昇華されていた。
挑戦する前から成功する確信はあったものの、いざ実際に成功してみると思いのほか嬉しいものだ。
しかし、こうして北海道までの最短経路を確保出来た今となっては、そう喜んでばかりもいられない。
視線の彼方、本州最北端から遥か北に広がる日本最大の島。その広大な土地には、今もなお羽虫共の脅威に晒されている奴等がいる。となれば、必然的に政府部隊の手が回りきらず、放置状態になっている地域も多いはずだ。
「……急ぐか」
そして、俺は吐息とともに胸奥のざらついた焦燥を飲み込み、脚に更に力を込める。
常態化した幾つもに分岐した思考の片隅、そこに今もなお鮮明に残る喧しくも馴染みある声を思い浮かべて。