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春がまたやってくる

作者: 米倉健太郎

「この桜をあと何回見ることができるだろうなぁ。」

父がぽつりと漏らしたその一言は、心に鈍い痛みを与えた。

桜並木の下、父と母が並んで歩いている。その歩幅は、久しぶりに会う私にとって、なんとなく自然なものに思えた。最近の両親の様子をよく知らないはずなのに、妙にしっくりくる速さだった。その背中を見ながら、私は無言で足を進めていた。風に乗って散る花びらが父の肩にふわりと落ちる。どこにでもある、春の風景。その一言がなければ、ただの穏やかな一日だったはずだ。

足元で小石が踏まれる音が響く。砂利道を進むたびに、父の足音は一定のリズムを刻み、その音には特別な意識を感じさせない。一方で、私の足音は次第に歩幅が狭まり、一歩一歩踏み出す速度が落ちていった。胸の奥にざわつく思いが広がり、「あと何回」という言葉の重みが、足元の砂利に押し込められるような気がした。


桜の花びらがひらひらと舞い落ちる光景を見ながら、私は自然とその光景に心を奪われた。咲き誇る一瞬の美しさが、次の瞬間には散りゆく花びらとなる。その繰り返しに、なぜか父の言葉が重なってしまう。

「桜を見るたびに、自分の年齢を感じるようになったよ。」

風に乗った父の声が、ふと耳に届いた。その呟きは特別に私へ向けられたものではなかった。しかし、その静かな響きが胸に残った。昔はそんなことを考えもしなかったのだろう。しかし、歳を重ねるにつれて、毎年の桜が特別な意味を持つようになったのだと感じた。

桜の季節が巡るたびに、私たちは人生の残り時間を少しずつ失っていく。だからこそ、その一瞬を大切にしなければならないのだと、父の言葉は教えてくれているようだった。


大学を卒業してから実家を出た私は、仕事や結婚、そして育児に追われ、忙しさを理由に両親と過ごす時間を後回しにしてきた。年に一度帰省するかどうか、電話もほとんどしない。両親は元気で、何不自由なく暮らしている。それが私の中での当たり前だった。

しかし、「あと何回」という言葉は、時間が有限である現実を突きつけてきた。その瞬間、自分がいかに両親の存在を軽んじてきたかを思い知ったのだ。

翌日、妻と娘に実家への再訪を提案した。何度か両親に娘を会わせたことはあったが、その頻度は年に一度程度で、提案を聞いた妻は少し驚いた表情を見せた。それでも快く同意してくれた。

自分だけでなく、新しい家族も両親に改めて紹介したいという気持ちが、なぜかその日強く湧き上がってきた。桜並木を再び歩く頃には、娘が興奮した声で花びらを追いかけていた。

「わぁ、桜がいっぱい!」

娘の声に、父と母が足を止めて振り返る。小さな手で必死に舞い落ちる花びらを捕まえようとする姿に、父は目を細めながら微笑んでいた。

「この子、元気だなあ。」

母が優しく娘の頭を撫でる。父と母の表情は昨日よりも穏やかで、私はようやく心の中の重みが少し軽くなるのを感じた。


桜並木を抜けると、小さな広場に出た。そこには子どもたちが遊ぶ遊具やベンチがいくつかあり、近所の人たちが思い思いに時間を過ごしている。娘はすぐに遊具へ向かい、滑り台に上って楽しそうに滑り降りる姿に、私も自然と笑みがこぼれた。

「ここに来るのも久しぶりだな。」

父が懐かしそうに広場を見渡す。その言葉に、私はふと自分が子どもの頃、この場所で遊んだ記憶を思い出した。砂場で城を作ったり、父とキャッチボールをしたりしたあの日々が、鮮明に心に浮かび上がる。

「お前もよくここで遊んでたな。あの頃は、毎週のように家族で散歩に来ていた。」

父の言葉に、私は驚いた。そんな頻繁に来ていた記憶は薄れてしまっていたが、父の口調から、その時間がどれだけ大切だったかが伝わってくる。

「そうだったんだね。なんだか懐かしいな。」

私の言葉に、父は頷いた。その横で、母がにこやかに笑っている。桜並木と広場を背景に、家族が一つの場所に集うその光景が、私の心に深く刻まれていくのを感じた。

娘が滑り台を降りて駆け寄ってくる。「おじいちゃん、おばあちゃん、一緒に遊ぼう!」と無邪気な声で誘うと、父と母は少し照れたような顔をしながらも手を取って娘と一緒に歩き出した。私もその背中を追いかける。

次第に陽が傾き、空が淡いオレンジ色に染まり始める頃、私たちは広場を後にした。帰り道、娘が桜の花びらを大事そうに手に握りしめていた。その姿に、父が穏やかな声で語りかける。

「桜は毎年咲くけれど、一つとして同じ花びらはないんだ。その瞬間を大事にするんだよ。」

その言葉が、娘の小さな心にどう響いたのかはわからない。けれど、私自身には深く届いた気がした。父の語る瞬間の大切さは、これからの私たち家族の時間をどう過ごすべきかを示唆しているようだった。

家に戻ると、娘は疲れてぐっすりと眠りについた。その寝顔を見ながら、私は心に決めた。この時間を無駄にしないよう、もっと頻繁に家族で両親を訪ねようと。


その夜、両親と三人でゆっくりと話す時間があった。父が湯呑みを手に取りながら話し始めた。

「こうしてお前と過ごすのも、久しぶりだな。少しずつ、家族が増えていくのを見るのは嬉しいもんだ。」

私は静かに頷き、胸の奥から言葉が溢れ出るのを感じた。この機会を逃してはならないと思い、ゆっくりと口を開いた。

「お父さん、お母さん、今日はありがとう。そして、これまでずっと支えてくれて、本当に感謝してる。」

二人の顔が驚きと優しさで満たされるのがわかった。母は微笑みながらも目を潤ませ、父は少し照れたように頬をかきながら頷いた。

「ありがとうなんて、改まって言われると、こっちが照れるな。」父は少し笑いながらそう言った。

「でも、お前がそう思ってくれてるなら、それが一番嬉しいことだよ。」

母もゆっくりと話し始めた。「私たちも、あなたには感謝してるのよ。ここまで一生懸命やってきたこと、ちゃんとわかってるからね。」

その言葉に、私は胸が熱くなった。これまでの人生の中で、こんな風にお互いの気持ちを直接伝え合うことはほとんどなかった。両親が私を思い続けてくれたこと、それを感じられるだけで、すべてが報われるような気がした。

「これからも、時間を見つけて会いに来るよ。娘もきっと喜ぶし、僕ももっと両親と話したいから。」

そう言うと、父は「無理しない程度にな」と微笑みながら応えた。母は「いつでも歓迎だから」と優しく頷いた。その瞬間、私の中にあった何かがふっと軽くなるのを感じた。

夜が更けていく中で、私たちは昔話や日々の出来事を語り合い、笑顔とともに温かい時間を共有した。桜の季節に見た風景と、両親との会話、それが私の人生の中で忘れられないひと時となるのは間違いなかった。


そして次の日、別れの時間が訪れた。家の玄関で、両親が娘を抱きしめ、「また来てね」と明るい声で送り出してくれた。その「またね」の言葉には、昨日とは異なる、ポジティブな響きが込められていた。

両親との再会が、新たな始まりを告げているように感じた私は、心の中でそっと誓った。「これからもこの時間を大切にしていこう」と。

車に乗り込み、娘とともに家路へと向かった。娘が「またおじいちゃんとおばあちゃんに会いたい!」と笑顔で言った。その言葉が、私にとって一つの希望となり、桜の季節を迎えるたびに新たな思い出を作ることを楽しみにする理由となった。

しばらく車を走らせると後部座席から聞こえる娘の静かな寝息に耳を傾けながら、私は街を抜けていった。道端に立つ桜はまだ美しく咲き誇り、その姿が車の窓越しに揺れて見える。その光景は、またいつか訪れる春の日を思わせ、心に新たな希望を灯してくれた。

両親との時間、娘の笑顔、そして桜の儚さが織りなすこの一日が、私にとってかけがえのない宝物となった。次に会う時も、笑顔で迎えられるように、今この瞬間を大切に積み重ねていこう。そんな決意とともに、車は静かに家へと走り続けていた。

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