06
さして重くもない鞄を抱えて廊下を進む。
出て行くと思うと感傷的になる。幼い頃の記憶と現状の乖離が激しい邸内の様子に、思わず苦笑が漏れてしまう。
花壇を畑にして以来、邸内のあちこちを彩っていた花は姿を消した。花瓶は売った。
壁を飾っていた絵画もほとんど売った。残っているのは、幼いクリスティーナが絵描きを夢見ていた頃に量産した絵である。客の目に触れない廊下の壁に残る日焼けあとを埋めているのはどれも、彼女の夢の残滓だ。
美術品も芸術品も調度品も、金になるものは売ってしまった。
殺風景な邸内はどうみても貴族の邸宅ではない。アルバート伯爵家が這い寄ってくるほどに落ちぶれる頃には、客も来なければ誰にもどこにも招かれない状態だった。邸内を整え、訪れる客人の目を楽しませる必要がなくなれば、アンジェリカは売却に遠慮をしなくなった。
何でも売った。目利きの鑑定士を招き、片っ端から売って、売って売りまくって金にしてきた。おかげで邸は空っぽだ。
家のためとはいえ、アンジェリカがここを空っぽにした。そうして今日、遂にアンジェリカもここを出て行く。アンジェリカの部屋に残るすべては、売りに出す手配が済んでいる。
「わたくしだけが、無価値のまま出て行くのね……」
独り言ちる。
邸から運び出すものにはすべて価値がついたのに、アンジェリカには銅貨一枚の価値もつかなかった。
借金のかたに差し出された娘。それなりの価値がつくはずであったのに、婚約は破棄された。
「有責で破棄されたということは、……わたくしったら大赤字だわ」
そのツケは妹が払うのだ。彼女は望んで婿をとるのだから、借金のかたに、という意思はないだろう。
父親の借金には慣れていたが、自分で赤字を出すのは初めての経験だ。妹に払ってもらうという経験も思えば初めてで、そう思うと申し訳なさで胸が痛む。恋した相手と結ばれる。それだけがせめてもの、慰めであった。
玄関へ続く廊下の角を曲がると、扉を塞ぐようにクリスティーナが立っていた。遠目にもわかるほど不機嫌な顔をしている。
どうやら家令が知らせてしまったらしい。
「おはようございます、お姉さま」
「おはよう、クリスティーナ」
「朝食も召し上がらずに、どこかへお出かけですか?」
「ここを出て行くのよ」
「私に何も言わずに行ってしまうおつもり? なんて薄情なお姉さまなのでしょう」
クリスティーナは声を荒げなかった。怒っていると、いつものように宣言することもしない。
「出て行けと言われてしまったのよ」
「アルバート伯爵家に言われたから何だと言うのです? まだ籍を抜いていないのだから、堂々と居座ればよろしいじゃない」
アンジェリカとエリオットの婚約を破棄する手続きは済んだ、と報告を受けていた。クリスティーナと婚約を結んだ、とも。
しかしレイン侯爵家からアンジェリカの籍を抜く手続きは、まだ済んではいなかった。バジェッタが後回しにしている。あるいは忘れている。近いうちにそちらも催促があることだろう。そして金を餌に催促すれば、バジェッタはすぐ動く。あっという間だ。
「先ほど、お父さまに言われたのよ。今日中に出て行け、と」
「――~~~~っ、……!」
「クリスティーナ。宝石は譲ってあげられなかったけれど、代わりにこれを残していくわ」
本当は玄関の扉のノブにかけて出て行くつもりだった。クリスティーナに会うつもりはなかった。
きっと寂しくて、動けなくなってしまうから。
親指の第一関節ほどの大きさをした、透き通る青い石である。揺らめく水面のように濃淡を変化させる不思議なそれは、名を月晶石といった。水底で月光を浴び時間をかけて内に閉じ込め、外に水面を映した石には特別な力が宿る。
細い銀糸で編んだ紐が通してあり、ペンダントとして首から下げられるようにしてあった。
「これを、私に持っていろとおっしゃるの?」
「もう、あなたのそばにいてあげられないのだもの。お守りよ」
受け取らず、クリスティーナは激昂した。
「嫌よ! 嫌いよ! 憎いわよ! こんなもの要らないわ。お姉さまのことなんて、私すぐに忘れてしまうわよ! 覚えてなんていてあげるものですか!」
振り払ったクリスティーナの手が月晶石を引っ掻け、玄関の隅へ弾き飛ばした。
「わたくしは、ずっと覚えていますよ。忘れてあげられないわ」
「私は怒っているの! とても、とっても怒っているのよ!」
「もう怒られてあげられないわ」
クリスティーナ。
うんと丁寧に名を呼んだ。
「わたくしのことは忘れてしまって構わないわ。覚えていなくて構わないから、どうか、お願いよ」
幸せになってね。
クリスティーナは返事をしなかった。憎むように、恨むように、アンジェリカをただ睨んでいる。
さようなら。別れの言葉は終ぞ口から出てくれず、アンジェリカは何も言えずにそのままクリスティーナの横を通り、邸を出た。たった一人の妹との今生の別れであったのに、喧嘩の一つもできなかった。