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追放乙女と吸血鬼:枉の実  作者: かたつむり3号
第一章 百合は枯れても
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05


「アンジェリカ、出て行け」


 準備と称して実家に居座ること六日。朝の支度をしているアンジェリカの部屋を、バジェッタが訪ねてきた。ノックもなく扉を開けて一言、バジェッタは退去を迫る。


「お、はようございます、お父さま……」

「アー、ル……伯爵家から催促がきている」


 驚いた。

 今のバジェッタには娘の夫となる男の実家の名にさえ興味がない。金のなる樹だとでも思っているのかもしれない。


「今日の内に出て行け」

「……」

「わかったな」

「……はい、お父さま」


 アンジェリカの返事に満足したのか、バジェッタは踵を返して出て行った。


「……」


 自分の姿を見下ろす。

 着替えの最中であった。アンジェリカは下着姿である。


「実の父でも、さすがに恥ずかしいわ……」


 鼻の奥がツンとする。目の奥が熱い。


「恥ずかしいわ、お父さま……」


 ポロッと一粒、目端から涙が滑り落ちていった。一粒こぼれると、次から次へとあふれて止まらなくなった。その場に座り込んで、蹲って泣きじゃくる。

 腹の底が焼けるように熱い。

 アルバート侯爵家が、アンジェリカを早く追い出すようバジェッタに催促した。彼は言われるまま、アンジェリカに出て行くよう命じにやってきた。

 悔しい。悔しくて堪らない。

 大陸全土に名を轟かせ、人から畏れられ、魔族から恐れられたかつての父はもういないのだ。誇り高きレインの戦神はもう死んだ。己の妻以外のすべてを視界から追い出して、ちんけな小悪党の手のひらの上でいいように転がされるような腑抜けになってしまった。

 出て行け、などと。アンジェリカを悪だと断じ捨てた男と同じ言葉で、実の父親が娘を捨てるのか。


 腹の底で臓腑が焼ける。そのまま心まで焼いてくれたらいいのに。

 拭っても、拭っても涙は止まらなくて、泣き止めない自分が情けなくて、アンジェリカは立ち上がった。泣きながら着替えを済ませ、泣きながら支度を整え、そうして目も鼻も真っ赤にしながら、家令を呼んだ。


 レイン侯爵家に仕える使用人の中でも最古参。髪も髭も真っ白で、顔も手もしわくちゃな彼だけど、背筋はいつでもシャンと伸びている。彼になら泣き顔くらい見られてもへっちゃらだ。

 転んで擦り傷だらけになった泣き顔も見られた。熱を出して鼻水を垂らしながら真っ赤になった泣き顔も見られた。おねしょを隠そうと布団を火魔法で焼き焦がして叱られた情けない泣き顔だって見られている。悔しさでぐちゃぐちゃになった泣き顔を見られるくらい、何だと言うのだ。


「お嬢さま、あぁお嬢さま、そんなに泣いては枯れてしまいますぞ。さあさあ、おじじのハンカチをお使いください」

「ありがとう……」

「まったくそんなに泣いてしまわれて、ぜっかくの美人が台無しですぞ」

「ごめんなさい……」

「一体どうされたのです? 今日の朝食に人参はでませんよ」

「ぅ、ふ……ふふ、人参が嫌いだと泣いたのはクリスティーナよ。それも、うんと幼い頃の話だわ」

「おや、そうでしたかな? お嬢さま方はいつまでも愛らしいですからの。うっかりいたしました」


 家令は昔から、姉妹を泣き止ませるのが上手かった。


「落ち着かれましたかな?」

「ええ、ありがとう」

「それで、本日はどのようなご用命でしょうか?」

「先ほどお父さまから出て行くよう言われてしまったわ」

「……」


 家令のしわだらけの顔がくしゃくしゃになる。悲しいことがあると、彼はいつも顔をくしゃくしゃにした。この顔をされると、アンジェリカは堪らなく胸が痛む。


「それは、寂しくなりますな……」

「今日中に、と釘を刺されてしまったから、この後すぐに発ちます」

「お嬢さま、せめて朝食だけでも召し上がって行かれてはいかがですか?」


 首を振る。向きは横だ。


「お尻から根が生えて、きっと動けなくなってしまうもの」


 荷物を詰めた鞄から、隠していた宝石を包んだハンカチを取り出し、家令に渡す。


「逃げなさい」


 めったに口に出さない、命令の口調で強く言う。

 アルバート伯爵家が寄越した使用人はみな、アンジェリカが目を光らせている限りは大人しい。けれど当主であるバジェッタのことを気味悪がっているのは明白だ。口さがない噂話をコソコソ交わしている姿を幾度も見かけた。アンジェリカがいなくなれば、その態度は顕著になるだろう。

 長く勤める古参の使用人たちの気が知れない、と一緒くたに敬遠していることも知っている。アンジェリカのいない邸内で、どんな軋轢を生むか知れない。姉妹を憐れんで残ってくれた彼らはせめて、逃がしてあげなければ。


「大した色にはならないけれど、みんなに渡してちょうだい」

「そんな……退職金は先日いただいた分で不足はございませんよ」

「そんなはずないでしょう。お給金だって、侯爵家に仕える身で受けとるには、うんと少なかったはずよ」


 不足だったはずだ。借金のことを知っているから、アンジェリカが金策で苦労していたことを知っているから、みんな口を噤んでくれただけだ。


「残ったのはみな老いぼればかり。たくさんもらっても使い切れぬまま天へ召されるのがオチですぞ」

「あら、みんな可愛い盛りの孫やひ孫がいるじゃないの。おねだりに頷いていたらあっという間ですよ」


 あっという間に消えてしまう。その程度の額しか渡せなかった。宝石だって、どれだけの足しになるか。


「受け取ってちょうだい。わたくしの罪悪感を軽くするため。そう思えば、誰も拒めないでしょう?」

「……いやはや、そう言われては、丸め込まれてしまうしかない」

「こういうのを、惚れた弱みと言うのでしょう?」

「……お嬢さまには、恋の一つもさせてさしあげられなかった。不甲斐ない我らをお許しください」


 間違えたらしい。家令はしくしく泣き出してしまった。嘘泣きである。


「ともかく、みんなすぐに逃げるのですよ」

「ご安心ください。書類のお届けに出ている者が戻れば我らの仕事は完了です」

「ありがとう。たくさん助けてもらったわ。お礼を言うだけではとても足りない」

「足りておりますとも。不足はございません」


 それよりも、と強く両の手を握られる。


「何かあればすぐ、いつでも何でもお申しつけください。我らレイン侯爵家から離れようとも、心はいつでもお嬢さま方のおそばにあります」


 ニッと家令が口角を持ち上げる。悲しいときとは違う形で寄ったしわで、彼の顔はくしゃくしゃだ。アンジェリカも同じように、ニッと口角を吊り上げて笑う。貴族の令嬢としては、はしたない、と叱られてしまうけれど、歯を見せてはっきりと笑みの形をつくる笑い方が、彼女はとても気に入っている。


「ありがとう」


 何度も言って、けれど言い足りない。足りる日はもう来ないけれど、今、言えるだけの回数を懸命に伝えた。それしかできないもどかしさが、腹の底に沈んでいく。

 

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