04
寝室までの道すがら、レイン侯爵家の使用人たちに指示を飛ばして回る。いざという時のために、普段から備えはしていた。アンジェリカを追い出してしまえば、侯爵家はあっという間にアルバート伯爵家に乗っ取られることだろう。
「お嬢さま……」
アンジェリカの身を案じ、眉を下げてくれるのは、血の繋がりのない彼らばかりである。
「バタバタと急かして悪いわね。少ないけれど、退職金には色をつけます。もう少しだけ辛抱して、わたくしに力を貸してちょうだいね」
いざという時は後始末を済ませしだいすぐさま逃げろ。彼らにはそう言い含ませてきた。
情でアンジェリカのそばへ残ると決め、子猫の涙のような少ない給金でも快活に笑って働いてくれた。感謝しても、し切れない。
「我らのことより、ご自身のことを考えてください」
「そうですよ。あたしらは帰る家もあるし、次の働き口も用意があります」
「いつでも何でも、おっしゃってくださいね」
優しさが身に染みる。
「ありがとう」
手を握ってくれる彼らの温もりに目の奥がジンと熱くなる。
なんとか振り切って部屋に戻ると、中にはクリスティーナがいた。アンジェリカのソファーに座り、アンジェリカの宝石をテーブルに並べてうっとり眺めている。
「おかえりなさい、お姉さま」
「ただいま、クリスティーナ」
向かいのソファーに腰を下ろす。
視線を泳がせて見ると、クローゼットの戸が開いている。わざわざ中を漁って、奥に隠していた宝石類を引っ張り出してきたらしい。
「その宝石は使用人たちの退職金ですからね。譲ってはあげられなくってよ」
「あら、やっぱり逃がしてさしあげるのね。お姉さまは優しいわ」
ずい、と押し返されたので、ハンカチに包んで懐に仕舞う。
「宝石は要らないわ。お姉さま、私の宝石は一つも売らなかったもの」
クリスティーナの視線が、クローゼットを撫でる。サイズの割に、ほとんど中身のない、可哀想なクローゼット。
バジェッタが増やす借金を減らすため、幼いアンジェリカは私財を売り払った。ドレスも靴もリボンも髪飾りも宝石も、売れるものは何でも売った。幼さを言い訳に髪を売ったこともある。成長するにつれ必要になるそれらは必要なときに必要最低限だけ増やし、必要なくなればやっぱり売った。十五歳を過ぎる頃にはさすがに髪を売ることはやめたが、ものを増やす機会を減らして帳尻を合わせた。
けれどクリスティーナのものは、一つだって無理に売ることはしなかった。成長し、サイズが合わなくなるまで待って。流行が過ぎて古くなるまで待って。クリスティーナのものを金に換えるのはいつも、彼女に必要なくなってからだった。おかげで換金額は下がったが、アンジェリカはそれを嘆いたことは一度もない。
「お姉さま、お姉さまはこれからどうするの?」
庭に花を見に行きましょう。
それくらいの軽やかな問いだった。ちなみにレイン侯爵家の庭は大部分を畑にしてしまって、もう花はほとんど咲いていない。残した花は、クリスティーナの部屋の窓から見える景色の範囲だけだ。
「ここを出て行くわ」
「……どうして?」
「出て行けと言われてしまったの」
今朝も、同じような返事をした。
「どうして出て行けと言われたの?」
妹の反応は、今朝とは違った。
「あなたの目に触れると、あなたが怯えて泣くのだそうよ」
「……そう、私はお姉さまに怯えているのね」
知らなかった。
クリスティーナは呟いて、どこか寂しそうに小さく笑った。
「クリスティーナ。宝石は譲ってあげられないけれど、婚約者は譲るわ」
「いいの?」
「あなたのほうがいいと言うのだもの。構わないわ」
「うふふ、嬉しいわ」
口元をほころばせ笑うクリスティーナは愛らしい。アンジェリカは彼女の姉になって以来、ずっとこの妹を愛らしいと思っている。だからクリスティーナが目を伏せて、胸を痛ませるように眉根を寄せたりすると、どうしようもなく苦しくなったりするのだ。
そしてクリスティーナが眉根を寄せるときはたいてい、バジェッタの話をするときである。
「お父さまはなんておっしゃっていた?」
果たしてクリスティーナは父の言葉を気にした。
「何も。お母さまの様子を気にして、ずっと上の空だったわ」
「……そう。やっぱり、そうなのね」
クリスティーナの抱える寂寥感を、アンジェリカはきっとすべて理解はしてあげられない。都合のいい盾という認識ではあったが、アンジェリカには父親からの、愛はなくとも信頼はあった。クリスティーナにはそれすらない。
「ねえ、お姉さま。本当に出て行ってしまうの?」
「出て行くわ」
「どうしても?」
「どうしても」
まるで嫌だと言うように、クリスティーナは問う。テーブルに頬をくっつけて、上目遣いでアンジェリカを見つめる姿は幼い子どものようである。
「わたしが行かないでとお願いしても、それでも出て行ってしまうの?」
「あなたにお願いなんてされたらなおのこと、わたくしはすぐにでもここを出て行きますよ」
ムッとして膨らんだ妹の頬を、指で突っつく。柔らかい。クリスティーナの頬は赤子の頃から、変わらずふくふくと柔らかい。
「まあ、意地悪なおっしゃりようですこと!」
クリスティーナは体を起こし、アンジェリカの目をじっと見つめる。
「ねえ、お姉さま。私のこと、怒っている?」
小首をかしげ笑う姿は、悪戯がバレた子どもに似ている。アンジェリカも口端を持ち上げた。
「ええ、怒っていますとも。わたくしの苦労が台無しだわ。よくもやってくれたわね」
「もっと怒った風に叱ってくださいな。そんな風に、小さな子どもの悪戯に気づいた姉のようなおっしゃりようでは、叱られ甲斐がないわ」
「だってわたくしは、あなたの姉ですもの」
二つ年下の、可愛い妹。
母の愛は儚くて、父の愛は所在が知れない。多忙な姉は愛を知らず、持ち合わせが少ない故に金平糖のように小さな愛をぽつりぽつりと渡してあげることしかできなかった。
寂しがり屋な、可愛い妹。
嫌は嫌と叫ぶ。嫌いは嫌いと拒む。憎いは憎いと噛みついてくる。けれど決して、寂しいと甘えることはない。
「お姉さまは負けないのだと思っていたの」
「負けてしまったわ。あなたのせいよ」
頬杖をつき、むくれるクリスティーナの鼻を弾く。クリスティーナはますますむくれた。
「どうして勝ってくださらなかったの? お姉さまのせいで、私のお姉さまが邸から出て行ってしまうわ」
「それはあなたの落ち度ですよ。恋をしているくせに、恋心を軽んじるからこうなるのです」
姉にいじめられている。
そこまでの訴えにとどめておけばよかったのに。それだけなら、仲直りの芝居くらい演じてあげられたのに。怯えて見せ、震えて見せ、泣いてまで見せた。
手遅れ。アルバート伯爵家はすっかりクリスティーナの嘘を信じ込んで、まるっと骨を抜き取られてしまった。
「恋の駆け引きなんて私できないわ。お姉さまが教えてくださらなかったんですもの」
「あら、わたくしだってできないわ。だって恋をしたことがないのだもの」
「お父さまに相談してくれるとおっしゃったのに!」
「それもあなたの落ち度ね。よく知らないのに駆け引きして、失敗したとわかってから姉を頼ろうとするなんて。とんだ甘ったれだわね」
「お姉さまなら起死回生の一手や二手や百手、思いつけたでしょう!」
「あらあら、本当に甘ったれだわ。砂糖菓子みたい」
可笑しくて、口端から笑みがこぼれ落ちる。
見咎めたクリスティーナが眦を吊り上げた。可愛らしい顔が台無しになるほどに、全身で激しく怒りを訴えかけてくる。
「嫌よ、嫌いよ、憎いわよ! お姉さま、私とっても怒っているわ!」
「見ればわかりますよ」
立ち上がり、クローゼットの中に入る。クリスティーナは後ろにぴったりくっついて、ぶつぶつ文句を垂れ流している。
「お姉さま、ちゃんと聞いてください。私は怒っているのです。腹を立てているのです!」
「聞いていますよ。存分に吐き出しなさい」
棚から鞄を引っ張り出す。荷物は少ない。手早く詰める。
「私はエリオットさまを愛しているのです!」
「ええ、知っていますとも。ですから譲ってあげると言ったでしょう?」
「でもお姉さまが追い出されてしまいました! どうして出て行くことを承諾してしまったのです!」
「両家の出した結論に従うと、言ってしまったのだもの」
「どうしてそんなことをおっしゃったのです!」
「だって、びっくりしてしまったのだもの」
「っ、……!」
手を止め、クリスティーナのほうへ顔を向ける。彼女はぐっと唇を引き結び、眉根に深くしわを寄せていた。
「そんなに意外?」
首を傾げるアンジェリカに、クリスティーナはだって、だってと漏らす。
「衆人環視の前で婚約者から突然、妹を虐める女とは結婚できないと責められたら、さしものわたくしだってびっくりしてしまうわ。だって虐めていないもの。それともわたくしは、あなたを虐めたのかしら?」
「お姉さまが私を虐められっこないじゃない!」
そうよね、と返す。
クリスティーナはどうしてか、悔しそうに顔を伏せた。
「……傷つきましたか?」
「いいえ。目の前に立つ婚約者が、遂に父親の阿呆を継いだのかと悲しくはなったけれどね」
「阿呆でも、私は愛しているのです」
「クリスティーナったら、すっかり盲目ね」
恋は盲目とはよく言ったものだ。
口端からコロコロと笑声が転がり落ちていく。
「まあまあ、レイン侯爵家が駄目になっても、あなたはアルバート伯爵家が面倒を見てくれるから心配ないわね。お母さまの面倒はお父さまが見るでしょうし、お父さまはお母さまのために生きることをやめはしないでしょう。領地のことは始末の手はずが済んでいるし、もう心配事は一つもありませんね」
アルバート伯爵家からの援助があるのなら、家族が路頭に迷うことはない。懸念事項がなくなったので、アンジェリカはもう心配しないことにした。
「さて、と準備は済みました」
詰め終わった鞄はそう重くない。身軽と言えば聞こえはいいが、これはアンジェリカの中身のなさを表しているのだ。
「お姉さま、出て行ってしまうの?」
「みんなに退職金を渡したらね」
走り回らせている使用人たちを労って、彼らを送り出すまでは居座る。
「お姉さま、私はとても怒っているわ」
冷たい声を出すクリスティーナの表情からは、すっかり感情が抜け落ちていた。
「そのようね」
アンジェリカは笑みを深める。喧嘩というのは難しい。今回もまた、上手に喧嘩できなかった。