02
アンジェリカの実家であるレイン侯爵家は、王国内でも有数の大貴族である。……大貴族であった。
豊かな領地と富んだ財、優れた人材と秀でた功績。レイン侯爵家は貴族として、結構お利口な家だった。しかし現在、その姿は見る影もない。没落とまではいかないけれど、落ちぶれた、と評される程度には株を落とした。落ちこぼれた。
簡潔に言って、借金ができたのである。築き上げてきた莫大な富が空になっても、豊かな領地を切り崩して売り捌いても、優れた人材をなげうっても足りない。これまでの功績が帳消しになるほどの、途方もない額の借金ができた。
十二年前、アンジェリカの母親――スフィアが病を患ってから、レイン侯爵家の在り様は一変した。
アンジェリカの父親でありレイン侯爵家の当主であるバジェッタ・レインは、スフィアを愛している。深く、溺れるほどに愛している。それはもしかすると、二人の娘に向ける愛よりも深く重いのかもしれない。それほどに重々しく、バジェッタは妻を愛している。
そんな愛する妻が病気になった。彼は当然、治療のために全力を尽くした。
医者を呼び、薬師を呼び、神官を呼び、魔法使いを呼び、魔術師を呼び、呪術師を呼び、思いつく限りの相手に救いを求め、そうしてすべて、失敗した。
スフィアは治らなかった。
彼女の病は好調せず、不調を維持したまま、まだ生きている。死んだように、生きている。
食事をせず、水分をとらず、眠っている。何年もそうして、それでも死なず、スフィアは生きている。
生きているから、バジェッタは諦められない。
高名な医師を呼び、優秀な薬師を呼び、信心深い神官を呼び、長命な魔法使いを呼び、賢明な魔術師を呼び、悪名高い呪術師を呼び。金を払って、金をばら撒いて、金をまき散らして。治療の全てが空振りして、薬の全てが無駄になり、レイン侯爵家には借金だけが残った。どころか今なお、増えている。
今回は駄目だった。でも次は、次こそは。
バジェッタは諦めない。
現状維持はこれまでの積み重ねがあったからで、ここでやめたら彼女はいよいよ死んでしまうかもしれない。
バジェッタは諦められない。
増え続ける借金はもはや、バジェッタの代では払いきれないだろう。アンジェリカはすぐさま金策に奔走したが、彼女が運んでくる金は借金の返済と母の救済のため、あっという間に底を尽きる。キリがない。
止まらない父親を引き留めるには、親子の情は薄過ぎた。母親が生きている以上、子への愛が妻へのそれを上回ることは絶対にない。
打つ手がない。
頭を抱える、途方に暮れるアンジェリカへ手を差し伸べたのが、アルバート伯爵家であった。野心家で、侯爵家と縁を結び、箔をつけたい当主の意向により、エリオットとの婚約が結ばれた。
アルバート伯爵家は、ジェントリから成り上がった家系である。築いた財は莫大で、王家への上納金で爵位を買い、国のためを謳っては金を払い、家の繁栄を謳っては貴族との結婚を金で買い、そうして伯爵位にまで上り詰めた。
『レイン侯爵家は王国の礎を支えてきた一族です。この家が立ち行かないというのは国の損失だ。奥さまのために財をなげうつ姿勢は同じ男として、尊敬の念を禁じ得ない。お手伝いをさせてください。これまで両家は縁がなかった。しかし関係の希薄さは、子どもらの婚姻をもって血の繋がりという強固な関係を築くことで埋められます。お手伝いさせていただきたい』
是非、と言われ、それを突っぱねるだけの精神力を、当時のバジェッタは持っていなかった。
あの頃のバジェッタの頭にあったのは、異国にあるという妙薬ならばあるいは妻を救えるかもしれない、という一点のみ。その薬を買う金がない。それだけにしか脳を割けない状態だった。
バジェッタは飛びついた。金をくれる。その言葉だけに縋りつき、あっさりアンジェリカを差し出した。
何かしらの感情で胸を痛めるには、アンジェリカの心は擦り切れていたのだろう。何も感じない。何も感じたくない。婚約者が決まったと告げる父に、はい、と返事をして、それ以外のことは何も、言わなかった。
アルバート伯爵家の援助により、レイン侯爵家は辛うじて貴族としての体裁を取り戻すことができた。返済期限の迫った、あるいは超過した借金を片付けてもらい、取り寄せた異国の妙薬の支払いを肩代わりしてもらい、滞っていた使用人への退職金の支払いを立て替えてもらった。代わりの使用人を貸し出してくれて、生活を立て直してくれて、スフィアの治療に協力してくれた。
もらってばかりのレイン侯爵家。くれるばかりのアルバート伯爵家。
両家の力関係は決したように思われた。アンジェリカがいなければ、本当に決定的になっていたことだろう。
アンジェリカは優秀な娘であった。十歳にも満たない頃から、スフィアにつきっきりで実務から遠ざかったバジェッタに代わり、領地運営の一切を引き受けた。それ以前から、倒れたスフィアの名代として侯爵家の女主人を務めていた。
肩書きがないだけで、彼女は実質的な当主であり領主であった。
退職を拒み残ってくれた古株の使用人たちと団結し、滞りなく実務をこなす。そこにいたのは幼い令嬢ではなかった。子どもの姿をしながらも、中身は熟した大人のよう。
援助の名目でレイン侯爵家を掌握しようとしていたアルバート伯爵は、アンジェリカのせいで今なお野心を遂げられずにいる。
彼女は伯爵が口を出すことを拒んだ。手を出すことを認めなかった。
侯爵家と伯爵家。どんな繋がりであれ、どんな関係であれ、爵位の壁は越えられない。婚約という細い糸で結ばれただけの、家族でもない伯爵が、侯爵家の内側に踏み込むことを、アンジェリカは許さなかった。彼女は伯爵の立ち入りの一切を否定し続ける。
バジェッタを介しても無駄であった。彼は娘への愛情まで妻に捧げるような男であったが、寄せる信頼は絶対であった。
『ご心配なく。アンジェリカに任せておけば問題ない』
いくら言葉を尽くしても、どれだけ時間を割いても、彼の言葉は一貫してアンジェリカへの信頼を語る。揺るぎない。崩せない。
それが父親からの愛情であると、アンジェリカは思わない。長年の経験で培った危機察知能力が、バジェッタ・レインの本能が、アルバート伯爵の野心を警戒しているのだ。
レイン侯爵家は古くより、魔族狩りを生業としている祓魔の家系である。堕落をもたらさんとする者の気配は見逃さない。放っておいても撃退してくれる優秀な盾が己の娘だというのだから、信頼の一つも寄せるだろう。
伯爵はアンジェリカを攻略できなかった。息子と同い年のうら若き乙女一人を相手に、惨敗した。完敗した。この十年間ずっと、負け続けている。
「その果てがこれとは……」
アルバート伯爵は標的を変えた。堅牢な砦であるアンジェリカは崩せない。であれば脆弱な妹を攻略する。クリスティーナであれば容易く崩せる。
その目論見はどうやら、正解であったらしい。
クリスティーナは攻略された。エリオットという紳士に、容易く誑し込まれた。姉を蹴落とし家を乗っ取ろうと目論む狐に、いとも簡単に化かされた。
「これまでの苦労が台無しね……」
クリスティーナ・レイン。まったく手のかかる妹である。