01
「アンジェリカ・レイン! 君のような悪辣な女と結婚などできるか! 今日このときをもって、君との婚約を破棄する!」
豪奢なシャンデリアが照らす広間の喧騒をかち割って、エリオット・アルバートの怒声が反響した。
アルバート伯爵家で催された夜会の最中である。ファーストダンスを終え、二曲目が始まるまでのわずかな時間の隙をついて、エリオットは婚約者を突き放した。
「よくも実の妹を、あそこまで邪険にできたものだな。彼女は怯え切って、君の名を聞くだけで身が竦んで動けなくなるんだぞ!」
険しい声に、招待客たちが何事かと耳をそばだてる。
レイン侯爵家のアンジェリカと、アルバート伯爵家のエリオットは、政略によって結ばれた婚約の見本のような関係だった。互いに好意はなく、いつでも義務的に一緒にいる。交わす会話は事務的で、思いやりや気遣いはどこか演技じみていた。
両家を繋ぐために必要であるから一緒にいる。けれど互いのことは別段、必要としていない。
十歳の頃に結ばれた縁は、十年経っても変わらず結びついていて。二人はいつだって一緒にいたけれど、いつまで経っても、二人に対してワンセットという印象はつかなかった。あくまでも二人はツーマンセル。必要であるから一緒にいる。必要でなければ、一人で十分に事が足りる。
そんな二人であったから、アンジェリカに対して声を荒げるエリオットというのは、非常に珍しい光景だった。
この状況に対してアンジェリカがどんな対応をするのか。好奇心に駆り立てられ、招待客の視線は自然と、二人に釘付けになる。
糾弾され、憤怒の情を突きつけられる最中にあっても、アンジェリカの表情に変化は見られない。編み込み結い上げた銀髪の一本も乱れず、強気な金の吊り目は衰えることなく鋭い眼光を保っている。動揺の気配すら漏らさずに、彼女は凛と澄まし顔で直立不動の姿勢を崩さない。
反してエリオットの声は熱を増す。
「人形のように無感情を気取っていても、中身の醜悪さは隠せなかったな。妬心に狂い、無実の妹を苦しめた」
アンジェリカは自身の妹、クリスティーナ・レインの愛らしさに嫉妬した。エリオットは主張する。強い口調で、断言する。
強面な父親似のアンジェリカと違い、麗しい母親に似たクリスティーナは柔らかい雰囲気を纏い、愛嬌があり、顔立ちも可愛らしい。小柄で、小動物を思わせる仕草は他者に守りたいという気持ちを抱かせる。人の目を惹く華やかな笑みも、鈴を鳴らすような軽やかな声音も、アンジェリカは持っていない。
女の割に背が高く、凛とした雰囲気も手伝ってどこか近寄りがたさを感じさせる。まっすぐ伸びた背筋も、洗練された所作も、きつい目つきと相まってアンジェリカの雰囲気を尖らせる一方だ。顔も肉体も造形こそ整っているけれど、それは美しいだけであって、受ける印象は冷たさである。同じ親を持つ姉妹であるのに、こうも違いが出るものなのか。
それでもしばらくは平気であった。アンジェリカは侯爵家の長女である。家のために背負う責任はクリスティーナの比ではなく、貴族社会での足場を強固なものにするためには、鉄の仮面が必要だった。
内側には淑女として必要なものを目一杯に詰め込んで、周囲に侮られないよう鎧を纏う。貴族の娘であれば誰であれ、大なり小なりやっていることである。
平気でなくなったのは、自分を慰められなくなったのは、エリオットが、同じ責を負うはずの婚約者が、クリスティーナと親しくしている姿を目撃したからであった。
演技でない思いやり、演技でない気遣い。初めて見る、優しい笑顔。自分は向けてもらったことのないそれらに、アンジェリカの自尊心は大いに傷ついた。
「婚約者の妹だ。未来の家族を大切に扱うことは当然だというのに君は、思い込みで妹を傷つけた」
エリオットは、クリスティーナを愛している。
ただの婚約者。必要だから一緒にいるだけの婚約者。
十年間、一度も覆らなかった関係性に初めて、不満を覚えた。アンジェリカは、エリオットを愛している。初めて見る彼の笑顔が、自分ではなく妹へ向けられたことで、十年越しに自覚した。
そうして愛は、あっという間に妬心を燃え上がらせた。彼は自分の婚約者であって、妹のものではない。妬心はあっという間に憎悪を募らせ、攻撃に転じるまで時間はかからなかった。
エリオットは、クリスティーナを愛している。そんな事実、ありはしないのに。
「両家への説明は済んでいる」
出て行け。
エリオットの声が冷え込んだ。
「君はもうぼくの婚約者ではない。今夜のファーストダンスが、君とのラストダンスだ」
出て行け。
繰り返すエリオットをじっと見据え、沈黙を貫いていたアンジェリカが、ゆっくりと口を開いた。顔を彩るのは、淑女の微笑み。感情に封をする、彼女の鉄の仮面であった。
「エリオットさまのお話はわかりました」
温度のない声音では、彼女の心情はつかめない。
「両家の出した結論に、わたくしは従いましょう」
やはり動揺の気配すらなく、アンジェリカは平然として見えた。
エリオットの怒声をものともせず、糾弾の内容には一言も触れず、彼女は美しい所作で深々と頭を下げた。
「みなさま、お騒がせして申し訳ございません。主催の意向に従い、わたくしはお先に失礼させていただきます」
――エリオットに背を向けて。
一部始終を見守っていた招待客たちへ向けて、深々と頭を下げた。
エリオットは激昂する。
「アンジェリカ! 君という女はどこまで――」
「アルバート卿」
冷たい、冷たい声だった。
振り返ったアンジェリカはもう微笑んではおらず、その顔からは一切の感情を削ぎ落していた。背筋が凍る。
「婚約者でなくなったわたくしは、もうあなたのアンジェリカではないのです。わたくしを嫌うことは自由ですけれど、侯爵家への不敬は許しません」
「……」
「婚約の件は手続きを含め、改めて場を設けましょう」
それでは、ごきげんよう。
もう一度、またもエリオットに背を向け深く頭を下げたアンジェリカは、今度は振り返ることなく会場から出て行った。