異形の世界
気がついたら、土の上で大の字になっていた。空には青空が広がり、太陽がまぶしい。
体を起こすと、背中がずきりと痛んだ。高い所から落ちてきたみたいで、やっとのことで立ち上がる。見るとそこは木造家屋に挟まれた路地裏で、光と一緒にガヤガヤと賑やかな声が聞こえてきた。人影もたくさんいて、僕は路地の隙間からこっそりと顔を出した。
すると、そこには人間ではない者がたくさんいた。二本足で歩く動物や腕や足、目なんかがいっぱいある人型、虫、中には原型を保っていないウネウネしたものもいる。通りに面した店や家に出入りしていて、みんな着物を着ていて妙な統率感がある。
なんだ、ここは。
開いた口がふさがらないとは、まさにこのことだった。予想外のことにしばらくそこに突っ立ていると、横から声をかけられた。
「よぉ、兄ちゃん。どうした、ぼけっとして」
声をかけてきたのは、白い着物を着た全身真っ黒の異常に背が高い兎だった。片手には煙管を持っている。
「あ、え、えっと、その、僕、」
急に声をかけられたのもあって、よく分からない存在に事情を話してもいいのかとしどろもどろになっていると、兎は何かに気づいたように顔をこちらに近づけた。
「あの、何か・・・」
顔を近づけたまま、兎は鼻をヒクヒクとさせた。
口の中からピンク色の舌が少し見えた。
「兄ちゃん、何か食いもんでも持ってるのか?いやに美味そうな匂いがすんな」
「え、僕、何も・・・」
持ってない、と言おうとしたところでハッと嫌なことを思い出してしまった。それは、昔見た映画のワンシーンで別世界に迷い込んだ主人公がそこの住人たちに食料とみられて逃げ惑うのだ。
今、僕は同じような流れを踏んでいるのではないか。人間だと分かったら、ここにいる異形たちに一斉に襲われて食べられるんだ。
「あ、あぁ、多分、この中に食べ物が入っているからだと思うよ。ほんとは君にもあげたいんだけど、僕もお腹がすいているから・・・」
「ああ、やっぱりそうか。いやいや、兄ちゃんのもの盗るなんてしねぇよ」
兎は気が良さそうに笑うと、煙管をくわえた。いやに様になっている。そして、僕の方に身をかがめると、人目を気にするようにひそひそと話し始めた。
「あのな、兄ちゃん。どうやら、ここに人間が来たみたいでな。町の奴らが噂してるんだ」
ドクンと心臓が大きく波打った。
人間って・・・、もしかして僕のこと!?こんなに早くバレるものなのか!?
「それで何人かその人間を探しているんだが、兄ちゃんも見かけたら・・・、ってあれ?」
兎の話が全部終わらないうちに、僕は全速力で走り出した。
いろんな奴らがひしめき合っていて、途中でぶつかって怒鳴られたけど僕には止まる余裕がなかった。
僕は通りを駆け抜け闇雲に走って、人気が無いところでようやく足を止めた。
呼吸を整えて辺りを見回すと、霧が濃い場所だった。不気味なところではあるが、さっきみたいに得体の知れないものがたくさんいるよりマシだ。
霧が視界を邪魔する中、目をこらしながら出口を探す。
ここは一体、どこなんだろう。明らかに僕がいた世界と違う。人間がいない、異形だらけの世界。それに僕が壁を吸い込まれたときは、夕方だった。でも、ここは青空だ。世界が違うから時間も違うのかと思ったが、ここに来てから随分時間が経っている。もうそろそろ、ここの世界も夕方になって良いはずなのに・・・。
空を見上げると、清々しいくらいの青空だ。もしかして、時間に関係なく青空なのかな。それとも、時間の概念がないとか。
「ダメだ。いくら考えても分からない。出口も見当たらないし」
霧がさっきよりも濃くなっている気がする。どうしよう、引き返すべきか。
すぐ目の前まで先が見えないくらいに視界が悪い。ここがどこだか分からないし、危険な場所があるかもしれない。よし、引き返そう。そう思った矢先に、
「あのぅ、」
呼び止められた。今度は女性のか細い声だ。見えるか見えないかぐらいに、着物を着た女性がいる。家か何かの横から話しかけていて体の下半分が見えない。
「あのぅ、すいません。どうやら、この霧で迷ってしまったみたいで。見たところ、あなたもそうかもしれないと思って声をかけたのですが、」
「あ、えっと、そうなんです。僕もこの霧で迷ってしまって帰れなくなってしまったんです」
見たところ、普通の女性だ。肌は青白いが、髪は濡れたように艶がかかった黒でとても綺麗な顔立ちをしている。
「あのぅ、ここに来るまでに足をくじいてしまいまして。申し訳ないのですが、肩を貸していただけないでしょうか」
女性は建物の壁にひっついていた。何もないここでは、支えになるものがなくて大変だったのだろう。
僕は快くそれを引き受けて、女性に近づいた。
「あら、あなた、もしかて・・・」
女性がそういったときには、僕はもう十分に近づいていて、建物で隠れていた姿を見てしまった。
女性には、足がなかった。正確には、人間の足が付いていなかった。
「え」
それに気づいた時には、もう遅かった。仰向けに体を転がされ、地面に縫い付けられた。
彼女は蜘蛛だった。上半身は人間の女の姿で、下半身は蜘蛛の腹と足が付いていた。
「ねぇ、もしかして、君、人間?そうだよね?人間じゃなかったら、こんな匂いしないもの」
地面に仰向けになった僕に蜘蛛女の顔が近づく。顔が綺麗な分、恐怖が増す。
なんとか起き上がろうとしたが、見えない力で押さえつけられているようでビクともしない。
どうしよう、これじゃ逃げられない。
「えー、嘘でしょ。今日はすごいツイてる。町の方がすこしザワついていたのは、これだったんだね」
蜘蛛女は嬉しそうに舌なめずりをすると、今度は僕の首筋に顔を近づけた。
「じゃあ、君にはそのまま大人しくしてもらうからさ」
首に牙を突き立てられ、うめき声をあげる。でも、痛みは一瞬で感じなくなり、頭がぼぅっとしてきた。力も入らなくなって、声を上げようにも情けない声しか出てこない。
「あ、あ・・・」
「うん、上手く回ったみたいだね。大丈夫、次に起きたときには全部終わっているから」
喰われる。ぼんやりとした頭でそれだけは分かった。
助けて。眠っちゃダメだ。誰か助けて。目を閉じちゃダメだ。お願いだから。でも、まぶたが重い。
混濁した意識の中、何かが女の背後で動いたのを見つけた。何だろ、動物かな。
瞬間、女の金切り声が聞こえ、続いて悲鳴が響き渡った。
女は倒れ、その背後に誰かがいた。その人物は、異形ではない人間の形をしていた。
誰だろう、この人・・・。僕を助けてくれた・・・?
その人は慌てて僕に近づいてきて何か言ったけど、僕には聞き取れなかった。
お礼、言わないと、いけないのに・・・。
僕はまぶたの重さに耐えきれず、意識を失った。