79.工房
「リジー、あんまり商品に近づくなよ。割れたらどうするんだ」
兄が小声で私に注意してきたので、じろりと睨み返した。
「割らないわよ」
そして、素知らぬ顔で兄の足を踏みつけたとき、工房の奥からこちらへやって来る一人の女性の姿が見えた。
ジャルジさんがその女性に向かって話し掛ける。
「サラさん、お久しぶりです。ジャルジです」
サラさんと呼ばれたその女性は、とても若く見えた。
こんな若い女性がガラス職人なの?
私の勝手な思い込みで、てっきりお爺さんが出てくるのだとばかり思っていた。
思わず、その女性をじっと観察してしまう。
見た目は20代に見える。とても若々しく、化粧っけの無い肌はつやつやしている。
頭にタオルを巻き、髪をひとつに束ねているその女性は、顔中が汗だくだった。
「ジャルジさん、いらっしゃい。半年ぶりぐらいかしら? さっきまで作業をしていたから汗が止まらなくて、こんな格好でごめんなさいね」
二人の会話から、ジャルジさんがこの工房のお得意様だということは分かった。
サラさんが私と兄のほうに視線を向ける。
「そちらのお二人は? 初めてお会いしますよね?」
その言葉を受けて、ジャルジさんが私たちを紹介してくれた。
「サラさん、こちらは、ハリス子爵のご子息とご令嬢です」
「サラさん、初めまして。私はジャック・ハリスです。こちらは、妹のリジーです。どうぞよろしくお願いします」
兄が挨拶したので、私も兄と一緒に挨拶した。
サラさんは慌てて頭のタオルを取って、私たちに向かって姿勢を正す。
「いえ、私のほうこそ失礼しました。領主様のご子息とご令嬢だったのですね。どうぞゆっくり見て行ってください」
「ありがとうございます。このグラスが素敵だと思って先ほどから見ていたんです」
私は、花のモチーフが美しくカッティングされたグラスを指さした。フォルムがコロンとしていて、とても可愛い。これでジュースを飲んだら美味しそうだ。
「そのグラスを気に入っていただけました?」
「はい、とても。これをいただきたいのですが」
私が買う気満々でサラさんに声をかけると、兄が制止した。
「リジー、ちょっと待て。今日はジャルジさんに付いてきているんだぞ。お前が先に買ってどうするんだよ」
しまった。確かに兄の言う通りだ。
私が肩を竦めると、ジャルジさんが笑った。
「大丈夫ですよ。サラさんが作るグラスは、どの国に行っても人気なんです。一つ一つ丁寧に手作りされていますからね。特に、この美しいカッティングは唯一無二です。他にはありません。リジーお嬢様が目をつけられるのは当然のことです。でも、私もお嬢様に負けないように、買わせていただきますね」
そう言うと、ジャルジさんは私が指さしたグラスを除いて、棚に並べてあった全てのガラス製品を買ってしまった。
商品を見ていないのに、即決だった。
「え?ジャルジさん、そんなに買っちゃうんですか?」
まさか、ジャルジさんが一瞬で買い占めるとは思いもよらなかった。
私ももっと買いたかったのに……。
恨めしく思いながら、ジャルジさんを見た。
ジャルジさんは私の気も知らずさっさと精算を済ませると、ガラスが割れないように手慣れた様子で一つ一つ梱包していく。
さすがの兄もジャルジさんの豪快な買い方には驚いたようだ。
「凄いな……」
呆然と立ち尽くしてジャルジさんの様子を見ていたが、そのうちに兄は私の恨めしそうな顔に気づいたようだ。
「リジー、お前はさっきのグラスを2個買えたから、それでいいだろ? また買いにくればいいんだから」
「うん。わかってる」
そう答えつつも、本音ではもう少し買いたかった、と悔しい気持ちでいっぱいだった。
だって、グラスを2個しか買っていない。
ジャルジさんがあんな買い方をする人だと知っていたら、もっといっぱい先に買ったのに。
悔しがる私の様子を見て、サラさんが声をかけた。
「リジーお嬢様。もしよければ、お嬢様のためにお作りしましょうか?」
「いいのですか? ぜひお願いしたいです!」
私は思わず、サラさんの手を両手で握ってしまった。
サラさんは前のめりな私の様子に少し驚いていたが、すぐにっこりと微笑んでくれた。
「買っていただいたようなグラスでよければ、今すぐお作りしますね。少しお時間がかかりますけれど」
「ありがとうございます」
よかった。サラさんのグラスは2個では足りない。
しかも作る過程も見られるなんて、一石二鳥だ。
そのとき、ちょうど梱包を終えたジャルジさんが、私に声をかけた。
「サラさんがお嬢様のグラスを作っている間に、我々は別の工房へ行きましょうか。次は陶磁器を見に行きたいのですが」
ジャルジさんの言葉を聞いて、私はサラさんに尋ねる。
「サラさん。私は、サラさんがグラスを作るところを見たいのですが、見せていただくことはできますか?」
「ええ、もちろん。それは大丈夫ですが、ガラスを溶かす炉が非常に高温で暑いですよ。それでもご覧になりますか?」
「それは平気です。お邪魔にならなければ、グラスを作るところを是非見せていただきたいです」
「そうですか。それなら、どうぞ」
サラさんの承諾を得たので、私はジャルジさんに向かって言った。
「ジャルジさん、私はサラさんにグラスを作るところを見せていただきますので、その間に陶磁器を買いに行ってきていただけますか? 勝手なことを言って、すみません。陶磁器工房も行きたかったのですが、今はグラスを作るところがどうしても見てみたくて」
「分かりました。それでは行ってきます。終わったら、ここに戻ってきますので」
ジャルジさんはそう言い残して、あっさりと工房を出て行った。
先ほどの買い付けの様子から、きっとジャルジさんは次の工房でも、碌に商品を見ずに大人買いをしてくるに違いない。
ただし、買い物には時間がかからないものの、買った後、一つ一つ丁寧に自分で梱包していたので、それなりに時間はかかりそうだ。
兄はジャルジさんについていかず、私と一緒にサラさんの工房に残った。
サラさんはジャルジさんが出て行ったのを見届けると、私と兄に「どうぞこちらへ」と言って、工房の奥へと案内してくれた。
ありがとうございました。