115.ダンスの先生
家に帰ると、母が私の帰りを待ち侘びていた。
「リジー、遅かったわね」
母は少し不満そうだ。
「何かありましたか?」
私は少し考えたが、特に心当たりはない。
「王宮では何をしてきたの?」
事前にローランの伝令が家に来たから、母も今日はローランに呼ばれていたことは知っているはずなのに、どういう意味なんだろう?
でも、ここで変なことを言って母を怒らせると、後々大変なことになることを私は身をもって知っている。できるだけ、母を怒らせないようにしなくては……。
あ、そうだ。イザベルとステイシーに王宮で会ったことを母は知らないわ。
私は母から漂う不穏な空気を察して、頭をフル回転させて対策を練った。イザベルとステイシーと会ったことを話すのが一番良さそうだ。
「ローラン王子殿下とお話しした後に……、実はイザベルとステイシーと久々に会うことができました。二人ともとても元気でしたし、立派な女官になっていました」
「まあ、そうだったの! 二人と会えたのね!」
さっきまでの不穏な空気が消えて、母の顔がぱっと明るくなった。
よかった。
怒られるのは回避できた!
「リジーは婚約が不成立となってからお友達と疎遠になっていたでしょ。だから、心配していたのだけど、よかったわ」
母が思った以上に喜んでくれるので、びっくりした。
ちょっと挙動不審になってしまう。
「二人とはまた会う約束もしましたから、近いうちにまた会えると思います」
「そう。よかったわ。……リジー。それでね、早速なんですけど、今日はあなたの花嫁修行の一環として、ダンスの先生をお呼びしているのよ」
「お母様、いまなんて?」
「だから、ずっとあなたのことをダンスの先生がお待ちなの。早く着替えてきなさいね」
母の言葉が終わるか終わらないかといううちに、私は側に控えていたアンに連れられて、ダンスの練習着に着替えさせられた。
母が、少し不機嫌だったのは、ダンスの先生をお待たせしていたからのようだ。
でも、そんなこと、知らなかったんだもん。
それならそうと、もっと早く言ってほしかった。
母は、人をお待たせするのが嫌いだ。それは私だってそうだ。
大急ぎで着替えを済ませ、ダンスの先生がお待ちの部屋へと移動した。
部屋に入ると、母とダンスの先生らしき人が談笑していた。
私はダンスシューズに履き替える。
「リジー。こちらがトニー先生。今日からあなたにダンスを教えてもらうわ。ずっと王都から離れていて、社交の場に出ることがなかったから、改めて一から指導をお願いしています。頑張りなさいね」
「はい。トニー先生、よろしくお願いします」
まず、トニー先生と一緒にストレッチを入念に行う。
トニー先生はとても無口だ。真顔で淡々とストレッチを行う。
先ほど着替えの時にアンから聞いたのだが、トニー先生は私のことを30分近く待ってくださったらしい。
初回から30分も待たせる生徒なんて、嫌に決まっている。
うわーん。どうしよう。
もう、お母様のばか。せめて事前に聞いていたら、もっと早く帰って来たのに。
ひととおりストレッチを終えると、トニー先生が言った。
「まずは、リジーの実力を見せてもらいたいので、自由に踊ってもらいますね。最初は、ワルツから」
音楽が流れる。
ダンスを踊るのは約1年ぶりで、まったく上手く踊ることができなかった。
すっかり色んなことを忘れてしまっている。
お母様の言うことは正しかった。
一から教えてもらえるのはよかった。
◇◇◇
ダンスの練習は、2時間行われた。
体中が汗だくだし、全身の疲労感がとてつもない。
足や腕がもう筋肉痛だ。
領地で毎日レオと走ってたから基礎体力が上がったと思っていたが、ダンスで使う筋肉は全く別物だったらしい。
私は肩で息をしてまっすぐ立ってられない状態だ。アンは、そんな私をテキパキと着替えさせてくれる。
練習が終わった後、トニー先生を囲んで母と歓談すると聞いた。
「さ、リジーお嬢様。トニー先生がお待ちですから」
アンはフラフラの私の背中を押して、トニー先生と母が待つ応接室へと急がせる。
「遅くなって申し訳ございません」
扉を開けて私が入ると、トニー先生と母の会話が弾んでいた。
会釈をして母の隣りに座り、二人の会話を聞く。
「先生の着ていらっしゃる服はとても素敵ですけど、どこで誂えたものなんですの?」
母の言葉にトニー先生の服を見てみると、青色の布地にファーや毛皮が効果的に配置された、とてもおしゃれな服だ。先ほどのダンス練習の時は、黒一色の地味な服装だったので、まったくイメージが異なる。
それにしても、この服のデザインは初めて見る。母だけでなく、私もとても気になった。
「ああ、これですか。私も気に入っているんですけどね。少し前に王都へやってきた遍歴商人から買ったものなんですよ」
遍歴商人!
その言葉に思わず、トニー先生の顔を見てしまう。
母は、特に気に掛けることもなく言った。
「まぁ、そうでしたか。そんな素敵な服も扱っているんですね。私も買いに行きたかったわ」
トニー先生は私の視線をスルーして、母に微笑む。
「グラヴィエ国からの遍歴商人だそうで、ここでは買えないものをたくさん取り扱っていましたね。面白い商品が多くて、奥様にも見ていただきたかったですよ。またいつか王都へ戻って来るとは言っていましたが、次がいつになるのかは分からないのが残念です」
私は思わず口を挟んだ。
「トニー先生は、その遍歴商人の方と仲良くなられたのですか?」
「そうですね。私は期間中毎日顔を出しましたから。商人の方たちとも随分仲良くなりましたよ。ジャルジさんという方が仕切っていましたが、私はハミアさんというおばあさんに、商品のことを教えてもらいました。この服をおすすめしてくれたのも、ハミアさんです」
「まぁ、ジャルジさんに、ハミアさん!」
私と母が同時に声をあげた。そして、母と二人で顔を見合わせる。
その様子を見て、トニー先生が笑った。
「なぁんだ。既にお知り合いでしたか?」
母が答えた。
「そうですね。うちの領地から王都までの道のりを息子が護衛しましたので」
ありがとうございました。