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帰還


初めての戦い。


そして迷宮での探検。


安全で快適な冒険者ライフ――外の世界へと繋がる階段をのぼりがら、彼はギルドで聞いた、受付嬢の言葉を思い出した――しかしダンジョンに入ってからも心躍るような胸の鳴りは決してなく、むしろ彼の心の底に深い影を落とすこととなった。


もちろん、新人が初めての冒険で自身の無力さと、理想と現実の違いに絶望し首を地面に垂らすことは珍しくない。彼もそうであった。もっとも彼が抱いていた理想は、大多数のそれとは大きく違っていたが。


少なくともこれは自分の中での天職でないことははっきりとしていた。

しかし趣味もなく、やりたい仕事もなく、未来への希望も向上心もない自分が生きていくには、この仕事しかない事も分かっていた。


そして彼は考えることを止めた。

考えれば考える程に自分の首が下に垂れ、前を見ることが出来なくなったからだ。


そして彼は気づく。


いつしか外の光が自身の足元に影を作っている事に。


だから彼は前を向いて歩く。

それがただの現実逃避であったとしても、今はただ、その残酷な現実を直視する意味を見いだせなかったから。


なによりも生きなくてはならない。


死んだ母の分もだ。


絶対に生きなくてはならないのだ。


絶望と後悔、胸の苦しみに打ち負けて何が残るのか。


自分のような人間でも見つけられた食い扶持を、むげに手放す訳にはいかない。



だから彼は階段を強く踏みしめた。

地面を見つめていた瞳は、気付けば自分を外へと導くように差し込む日の光を、命一杯に捉えていた。


そして彼を飲み込んでいたその影は、次第に置いて行かれるように彼の後ろへと下がっていく。


階段をのぼりながら彼は不意に気付いた。

日の光だと思っていたいたその光源が、太陽ではなく、外の世界と迷宮を隔てる時空の狭間であることを。


銀色に輝くその壁は、時頼に歪み、まるで荒れた鉛色の大海原のようにも思えた。

彼は一瞬だけ脚を止めたのち、すぐさま時空の狭間を通り抜ける。


視界が数秒歪み、光に包まれる。


と思えば一瞬の内に彼は外にいた。


しかし視界に映る外の様子は入る前と少しだけ違っていた。

訓練所で聞いていた通り、一枚の狭間には表と裏で入り口と出口が分かれている様だ。


すると声が聞こえた。


「冒険者様、お怪我や体調不良はございませんか?」


横を向けばこの迷宮の狭間を覆うように建てらてた、ギルドの施設の職員であった。


この施設は迷宮に入る冒険者のデータの記録や管理。民間人の不法侵入および、再び起こる可能性のある、モンスター侵略を阻止するための監視・防衛施設である。


そのためこの施設は4つの監視塔と、防衛省直属の対モンスターを主軸とした30人の警備隊。そして高さ10mの厚いコンクリート壁で囲われている。


「ああ大丈夫だ」


「畏まりました。えー鯉川青龍様ですね…人数はお一人と…それではこちらの退出アイコンを押してください」


白色の壁に覆われた廊下を抜けた彼は外の景色を眺める。

なんの変哲もなかった。


自分が迷宮に入る前も後も、何一つ変わりはなかった。

なぜだかは分からなかったが、彼は見当が外れたような思いをさせられていた。


自分はあれだけ奇声を上げながら、ゴブリンをめった刺しにしていたというのに。

そんなこと知りもしない都市の住民たちはゆっくりと談笑しながら、歩道を歩いていた。


いや、例え自分の行いが周囲の人に知れ渡った所でも、大した差はあるまい。ダンジョンが生まれて10数年――この世界ではゴブリンを人間が殺すことなど、まして迷宮に潜る冒険者の中に彼のような存在がいることも「当たり前」なのだから。


そう答えを纏めた彼は、今だ嗅ぎなれない街の臭いに鼻を鳴らしながら、また灼熱のアスファルトの上を歩いて行った。



「黙とう――」


旧東京市の中心にそびえ立つ慰霊碑の前で、幹事の声がそよ風だけがゆったりと聞こえる公園に響き渡ったのは献花を終えた後であった。

今年で8回目となる特殊災害死没者慰霊式典の参加者はここだけでも4000人を超えている。午後の1時間だけ交通封鎖されたここら一画には、記念公園に入りきらなかった遺族や追悼者がずらりと立ち並んだでいた。

黙とうの合図と同時に鳴り始めた平和の鐘の音が、なんども参加者の胸に重く沈んでいく中で、彼ら彼女ら、年齢とわない幾つもの両手が合されていく。


一分間の黙とう、8回の鐘の音が公園とその一帯に響き渡ったあと、参加者の最前列、その中央から一人の男性が一歩前に出た。彼はこの国の行政における最高権力者であった。彼による三守宣言と平和の誓いが述べられると、国歌斉唱、そして閉会となった。

慰霊式典が一段落し、首相を始め各省庁の長や政治家、官僚が順番に席を外していくなか、遺族たちの多くは慰霊碑に刻まれた活字に向かって、思い思いの言葉を一言だけ添えると、次の遺族と立ち代わり入れ替わりに去っていく。しかしその中でも一部の者たちはただ黙って慰霊碑の活字を見続けていた。

例にもれず、鯉川青龍もその空気の読めない一団の一人であった。


鯉川は座りながら四つの活字を見つめていた。ただ黙って、息もときどきに忘れるほどに眺めていた。

鯉川ゆい。その総数に対して限りなく少ない判明している死傷者の――母の名前であった。


すると突然、彼の隣に老人が座った。

自分がずっと同じ場所に居座っていることを注意しに来たのだろうか、そんな事が一瞬だけ脳裏によぎるなか、老人はボソッと喋り出した。


「おにぎりを一個多く買い過ぎてしまった。本当はここにある妻のためと思って買って来たのだけどね…あなたは少し立て込んで…思い病んでるようだから、かわりにいかがかね?」


老人はそう言いながら、武骨でシワまみれな、彼よりも一回り大きい右手を目の前に差し出した。その巨大な右手に乗っかった、やや物足りなく思う小さなコンビニのおにぎりを見た時、その老人の後ろに広がるオレンジ色の背景に彼は気が付いた。


はっとしたように両目と口を半分開ける彼に、老人はにこやかに微笑んだ。


「はは…やっと気が付いたかね青年。もうこんな時間だ。きっと式典に参加した者の多くは、今頃、仕事か夕飯の準備に忙しいだろうね」


老人の言葉に彼は視線を慰霊碑の方へ戻すと、また母の名前を見つめ続けた。


「少し…嫌味だったかね?」


「いえ…そんな……私は冒険者なので…」


「おおっ…そうかい…それは……」


そこで二人の会話は途絶えた。しかしあのコンビニのおにぎりを握る右手は今だそのままであった。


「おにぎり…良いんですか?奥さんの…」


「ああ、正直な所、私は食が細くてね…毎回手に余っていたんだ。君が食べてくれるなら無駄にならずに済むから、妻もきっと喜んでくれる」


「そうですか。じゃあ……頂きます」


「ああ、よく噛んで食べなさい」


数分後、結局おにぎりを食べるのも飽きたのか、彼は半分残ったおにぎりを握りしめながら、なにも喋らずにまた母の名前を眺め始めた。。すると横に座っていた老人も、一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべたのち、彼と同じ慰霊碑に刻まれた、彼が見つめるものとは別の活字を眺め始めた。


「じつの所…私も君と似た者同士だ。いやね…君の小さな背中を見た時、妙に不安に駆られたと言うか…ただ君の瞳を見て確信したよ」


「…私の眼になにか?」


「私は医者だ」


「…は?」


「とうぜん、10年前のあの日には多くの重傷者や、それと見分けがつかないような既に息絶えた死体を何度も見た…余りにも多くの悲惨な死体を見過ぎて、自衛隊がついに妻の死体を持ってきた時には、すぐにそれが妻だとは分からなかったよ。頭を半分食われていた…最後はとても苦しそうな表情だったよ…」


「……それと…私の瞳になんの関係が?」


「いつの時にも死者の瞳は何度だって見たものだが、それと同じくらい遺族の瞳も目にしてきた」


「……」


「君は…家族に先立たれた遺族の顔を見たことがあるかい?」


「ええ、嫌ほど」


「うん…それは愚問だったか」


「それで…遺族の方は…」


「ああ…案の定怒っていたさ。あの瞳を忘れるわけがない……」


「…でも…今さらに分かった事がある…あの瞳は単に医師に家族を見殺しにされただけの怒りじゃない。家族に何もしてやれなかった、命を救えなかった、守れなかった自分の無力さに怒っていたんだ――」


老人がそう話し終えると、彼はおもむろに立ち上がった。


「もう腹は膨れました…失礼します」


そうして彼は老人に背を向けて矢継ぎ早に歩き出す。


「ああ…まだおにぎりが半分残ってるっ…」


老人が振り向き、彼の方へ除いた時には、彼の姿はすでに公園の出口に差し掛かっていた。老人の鯉川を責め立てるような最後の言葉が、鯉川に聞こえていたかは分からなかった。


「……老人の話はちと詰まらなかったか…」


老人は少し寂しそうにうなだれた。しかし、鯉川が矢継ぎ早に腰を上げ、老人から逃げる様に背を向けたのは、老人の「瞳」の話しが単純に耐えられなかっただけではない。その話をしている老人の瞳が、全てを飲み込んでしまうような、鉛色に沈んだ大海原に写って見えたからだ。


アレは何度だって見たことがある、毎日、何度だって…その瞳を嫌という程に。



アパートに帰った彼は洗面台に手をかけた。電気も付けていない、薄暗い部屋の中で、濡れた顔からポタポタと水滴が底にたまる音を聞きながら、密かに鏡を見つめる。


その瞳は――力強かった。ただ真っ直ぐに見えないなにかを見つめていた。

しかし、その自分の瞳に一瞬だけ、老人の先程の瞳が――先日まで嫌というほど見て来た瞳が重なった。


不意に彼は蛇口の栓をひねって水を止めてしまう。




その瞳は――死を見つめていた。




「……もう…そんなもの終わりだって言ってんだろうがっ……」


洗面台に溜まっていた水が渦を巻いて、荒れ狂った不気味な音を立てながら排水口へ落ちていく。



その音が次第に小さくなっていくのを遠くで聞きながら、男はまたカップラーメンの蓋を開けた。


静かな部屋の中で、麺をすする音だけが彼の耳を優しく包んでいた。






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