愛ではないなにか
もう、死にたい
機械音だけが静かに響く病室。
痩せ細った身体に延命装置をつけられ、何が何だかわからない無数の管に繋がれている彼は、それでもなお苦しみの表情で、そうつぶやいたような気がした。
本来ならばしゃべれるはずもなく、意識があるのかどうかもわからない。
彼の口元を覗き見るが、特に動いているわけでもなく、唇は硬く閉じられたまま無を貫いていた。
けれどきっとそれは気のせいなんかではなく、彼の本音であることは、私にはよくわかっていた。
彼の手を握る。冷たく、細く、血管の浮き出た白い手は、握り返してくれるはずもなく。あまりの弱々しさと儚さにいつもどうしていいかわからなくなる。
延命装置は、私のエゴだ。
これ以上良くなる見込みはない、と、はっきり医者にも告げられている。
子供たちからも、もうお父さん、楽にしてあげたら、と何度遠回しに伝えられただろうか。
お金も時間もかけて、彼自身をも苦しめて、私は何をやっているのだろう。
バカバカしい、可哀想なこの老婆を、みんなが憐れみの目で見つめるのがよくわかる。
けれど、やめる気は毛頭なかった。
私は、どうしても、彼に死んでほしくない。
ずっと、なんなら永久に、生きていて欲しい。
喋れなくてもいい。私のことを忘れていてもいい。人間としての機能なんて、心臓が動いていればそれでいい。この世に存在していてくれればそれでいい。
ただ、本当にただ、いなくならないでほしい。
それだけが私の願いだった。
たとえ彼がどんなに苦しんでも、彼がどれほど死を望んでも、だ。
治療費を稼ぐためにこんな歳になってもまだ体に鞭打って働いているのも、それ以外の時間は病院で付きっきりなのも、決して皆が言うような、お綺麗な『愛』なんてもののためじゃない。
何十年と生きてきた私にも、彼がこうなるまで知らない感情があるとは思わなかった。
この感情の名前を私は知らない。
執着?依存?支配欲?独占欲?
きっと名前をつけるとしたらこの辺りなんだろうと思う。彼を苦しめてまで貫くこの感情を愛などと呼ぶなんて笑い話にもならないだろう。
どれだけ見つめても、話しかけても、手を握っても、彼はピクリとも動かない。動いたこともない。
規則的な機械音がこだまするこの世界では、私だけが暗闇に落ちていくような感覚に溺れる。
もう灯が見えることは永遠にないと知りながらも、まだ足掻こうとする私を、彼はどう思うだろうか。
もはや呪いにも似たこの感情を私は捨てることができず、愛していたはずの彼を苦しめながら、日々を重ねている。そしてそれはこれからも続く。
いつか必ず訪れる、私にとって最悪で恐怖な、しかし彼にとっては幸せな、その日まで。
愛ではないなにかに蝕まれた私を、許さなくていいから。苦しめていること、憎んでもいいから。どうか。
握った手を更に強く握りしめる。
愛おしいあなた。その日まで。どうか。