言いたいこと(2)
友達あてに送った文章を貼っておきます
簡単に言うと、意識とは何かがわかっていないので、科学的には他人の意識の証明は不可能。
科学は実現可能性を重んじた哲学だと言えるように、誰が測定をやっても同じ結果が得られる、そういったことを重視する学問だと言える。また測定するものは明確に定義されていて、比較できるものであることが普通。
それに対して意識(この場合は自由意志)というものは定量的に観測できるものではなく、こうだからこの人には意識があるよね、ということは出来ない。
例えば実際の実験として、事故で植物人間状態に陥った人を対象にした実験がある。(エードリアン・オーウェンによる)
この実験では植物人間状態で体が動かず、言葉もしゃべれない人に、例えば「テニスをしているところを想像してください」、「自分の部屋の中を移動することを想像してください」などと声で伝達した。同時に脳の活動をfMRIを用いて観測した。その結果、テニスのような運動を想像しているときには運動計画を司る脳領域が、自分の部屋を想像しているときには空間認識や場所の記憶を司る領域が活性化した!すなわち被験者の脳は体は動かせないが、聞いた情報を正しく脳内で処理していたのである。
しかし、これで被験者には意識がある!と言っていいのかというと、疑問が残る。
例えば寝ているときは意識がないけど寝言を言ったり、寝返りをしたりする。昏睡状態の人でも目の瞳孔反射を起こす。
植物人間状態の人の脳の反応も、高度ではあるけどこういった反射反応に過ぎないのかもしれない、とも言えてしまう。もっと言えば、人間の活動はすべて反射反応に過ぎないのかもしれない。
哲学では、人間と物理的、行動的には全く同様であるにもかかわらず、主観的な意識やクオリアを一切持たない、反射反応で動く存在を「哲学的ゾンビ」と呼ぶ。(クオリアっていうのは、例えば赤色を見たときに想像する赤色のようなもの、本人が想像するもの)
科学では意識をもった人間と、哲学的ゾンビを見分けることは出来ない。
じゃあ意識って何だ!ってなると思うんだけど、統合情報理論(または受動意識仮説)という面白い考え方がある。
情報統合理論とは、情報がある秩序をもって統合された場合に、意識が宿るということを自然法則にしてしまおう、という考え方。自然法則ってのは物理のF =Maみたいにそれ以上還元できない、経験から得られた法則のこと(F=Maの証明なんてしてないでしょ?)
この考え方が正しいとすると、哲学的ゾンビなんてものは誕生しなくなる。なぜなら哲学的ゾンビの脳は人間と全く同じだから、哲学的ゾンビにも意識が宿ってしまう。
じゃあどんな秩序をもった物だったら意識が宿るのか?というと、これは脳を考えたらわかりやすい。
脳ってのはニューロンっていう計算に特化した細胞の集合体で、体を構成する数十兆個の細胞から絶えず情報を受け取って、処理して、一人の人間として振る舞うための筋肉に適切な動作命令を送っている。もし脳がなかったら人間はただの細胞の塊になってしまって、個を保てなくなる。
こう考えてみると脳ってのは超高度な秩序をもって構成されていると思わん?
統合情報理論ではこんな風に情報が処理される部分に意識が宿ると考えているわけ。
でもまぁ、どの程度の秩序があったらちゃんとした意識が宿るかなんてわかってないし、進化を考えると意識ってのは次第に出来てきたと思うから、他の動物とか植物にも原始的な意識は宿ってるんだと思う。
もっといえば、石とか水とか、もっと言えば地球とか宇宙とかにも、人間とは全く異なる意識が宿ってるのかもしれない。
ここまでくるとSFだけどね
あと、受動意識仮説では自由意志を認めてないんだよね。
(自由意志ってのは無意識とは別の、自分で体を動かそう!として動かす意思のこと。反射的な動作とはちがうもの)
考えてほしいんだけど、君のしている動作って君自身が考えたわけじゃないよね?
例えば、〜しないといけない!みたいな考えって無意識的に起こるものだし、数学の問題解いてる時の、この問題はこうすればいい〜みたいな思考も無意識的に起こらない?
この文章を読んでるときも、書かれてる文字は1つ1つただのピクセルドットの集合体だけど、君の意識には文字、熟語、文章として読み取れてるよね?そして書かれてることについて色々思考が浮かんでくると思うけど、これって君が意識してるものじゃなくない?
結局、僕らの動作や思考はすべて無意識的なもので、自由意志っていうのはただそれを眺めてるだけで自由な行動は何もできないのに、あたかも自分が動作をしているように思わせられてるだけなんじゃないの?