言いたいこと
私は私という意識を持っている。これは明確なことである。意識がなければ周りを知覚することもできないし、家族を思い出すこともできないし、未来に思いを馳せる事もできない。
私には人間のような心を持ったロボットを作りたいという夢がある。それはドラえもんのような、やさしくて、時々いたずらしたり怒ったりするようなロボットである。人間のような意識を持ったロボットである。
そのようなロボットを作るためにはまず人間の意識を理解せねばならない。これが意識について学ぼうと思った動機の半分であり、もう半分は自分の存在意義を確かめたかったということがある。
私は現在20歳であるが、記憶があるのは6歳からあたりのことである。といってもその頃の記憶はなんともあやふやなもので、その後に見た当時の写真の影響を色濃く受けている。また記憶を思い出すときは、不思議なことに三人称視点からの映像が蘇るのである。昨日食べた食事を思い出すときは自身の視点からの像が思い出されるのに、小学校の先生から怒られている像はまるで横にいた人がカメラで撮影した像のように蘇るのだ!
一節によると、これは当時の自身の像が現在と一致していないために起こる現象だという。そうだとしたらとても不思議なことである。どうして記憶を改変してまで、人は当時のことを思い出そうとするのだろう?
「意識」という言葉を多用しているが、私のいう意識とは、この文章を入力していることを自覚している私のことである。
なんだかわかりにくいが、要は魂みたいなものである。意識である私はここに書く文章を考えていて、手を動かすことを命令している。実際に手が動くときにいちいち筋肉の司令をしているわけではないがこれは無意識が頑張ってくれているおかげであると考えている。多くの人がそう思っているであろう。
しかしこの考えはどうやら正しくないようである。実際には人間の動作の大半は無意識により処理されていて、その一角、片隅に意識があるに過ぎないらしい。
ここまで意識の話をしていて違和感を感じる方がいるかもしれない。そもそも意識とは何なのか?物質として存在するのか?構成要素は??理系諸君ならばこのように考えるのが普通だろう。私もその一人である。
結論から言うと、よくわかっていない。もっというと、どうやらこの世にはないらしいのである。
は?
いやほんと は? としか言いようがないですわ
現在の科学では、生物がしている動作はすべて外部からの入力・内部処理・実行により説明されている。
例えば線虫と呼ばれるちいさな虫は神経細胞の数も少なく、それ故にどの細胞がどの細胞と接合しているのかが明快に調査されている。そしてこれはコンピュータシミュレート可能であるのだ。こうしてシミュレートされた人工生命は同じような振る舞いをする。
これはアタリマエのことである。進化は環境に適応したものだけが生き残り、その形跡はDNAに保存されまた発現される。ようは数十億年分の洗練された記憶が物質としてDNAに保存されていて、それをコンピュータでシミュレーションしたのだからそりゃきちんと動くわな、ということだ。
現在、脳全体の神経細胞(神経細胞で1000億個、グリア細胞のシミュレーションはおそらくしないだろう)のコネクションをすべてスキャンして、コンピュータ上で再現してしまうといった計画が立ち上がっている。このままいけば近いうちに実現すると信じている。しかしこのままではまだ人間のように振る舞うには足りないのだ。体がない。
体は脳と同じくらい重要なものである。体は外界に影響を与える装置であり、また影響を感知する装置でもある。
脳は体を動かし、体の感覚を受け取ることによって初めて、この世界のあり方、つまり世界モデルを脳内に構築する。
人間の面白いところは、生まれた段階で世界モデルが十分に発達してない点である。
例えば人間の赤ちゃんには世界はちゃんと見えてない。もちろん視覚情報は網膜に入り、大脳基底核を通って第一視覚野まで伝達されるのだが、神経配列が未発達のためその情報をうまく処理できないのだ。
逆に言うと人間は未熟なだんかいでうまれて、外界の影響を受けてその後一気に脳を作ることで全然違うような環境に適応してきたとも言える。クロマニョン人や周口店上洞人の赤ちゃんを現代につれてきても、現代人と同様に育っただろう。
世界モデルを作れていない段階、または作っている最中の記憶は極めてあやふやなものである。子供に対して行った実験では、子供に言い聞かせた嘘の情報をその子供に聞くと、あたかもそれが本当にあったように話すのである。それは聞かされた話であるのに。世界モデルをが未熟な段階では、記憶はやがて消えてしまう。あなたは3歳時あたりのことを覚えているだろうか?覚えてはいまい。覚えていると答えた人はおそらく、その後見たアルバムの写真なんかでかってに想起しただけであろう。
世界モデルだの記憶だのと、意識のように実在するのかよくわからないものについて喋っているが、これらは物質的に脳内に保存されている。それはシナプス伝達の修飾という形で保存される。
ただ問題であるのはやはり意識である。生物の動作はすべて内部処理による結果であることは述べたが、そうだとすると意識の介入する余地がないのである。人間は超並列コンピュータであると表される事があるが、そうだとすると意識がなくても人間と同じふるまいを実現可能なのである。私はこの考えに概ね同意なのであるが、意識は一体何をしてるんだ?という疑問が生まれてくる。脳内では物理法則に従った処理が行われているだけであるのに、なぜかそこに意識が芽生えるのである。
統合情報理論という考え方があるが、これは情報が統合されるときに意識が芽生える、このことを自然法則としようという考えである。自然法則とは、例えば物理でのF=maのような、それ以上証明不可能な法則である。なぜそれが成り立つのかと言われても、そう世界が作られているから、としかいえないような法則のことである。
この考え方を脳に当てはめると、単純明快に問題は解決する。結局脳はただ処理を行っているだけである。しかし自然法則により、情報が交差している脳内に勝手に意識が芽生えるのである。そしてその意識はあたかも自分が体を動かしていると考えるのである。けっきょく、意識が動作に関与することは全く無く、完全な傍観者なのである。
と、情報統合理論について述べてみたがやはりまだ気持ち悪さがのこる。脳に魂が宿ると言っていることとそんなに変わらないのである。(意識が動作に無介入という点は大きく違うが)