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作者: ハルハル


「人は、夢と現実の区別がつかないくらい曖昧で弱い生き物なんだ」

「今度は何の話なの?」

「『胡蝶の夢』って言う、ずっと昔のあるおじいさんの話」


 彼女は黒々しくて透き通るような柔らかなショートカットの髪を揺らして、手に持つ文庫本に目を落としていた。

 清楚なイメージを持たせる外見ではあるが、机の上に腰を掛け、右足だけを体育座りのようにして両手で抱え、その手の先には本を開き、左足はだらしなく揺らしている。そんな姿では怠惰をイメージせざるをえない。


「その本に載ってるの?」


 私がそう言うと、彼女は少しばかりこちらを振り向いて、また本に目を落とす。こちらを向いた、黒く大きな瞳は人も、視線も、文字も、何でも飲み込んでしまいそうで、まるでブラックホールのようだった。私がそんな事を考え、口に出すと、彼女は決まってそうなら面白いね、と言った。


「これは『人間失格』だよ。『胡蝶の夢』は中国の古い思想家の話。少し話してみようか。

 むかしむかし、あるとき一人のおじいさんがいました。おじいさんは旅の途中、どうにも眠くなってしまって、ついつい道端にある岩にもたれて眠ってしまいました。そして、おじいさんは夢を見たのです。

 ひらりひらりと優雅に宙を舞う一匹の蝶。風に揺られながらも自由に舞い、なんとも楽しい夢だったそうです。

 しばらくして、目を覚ましたおじいさんには、一つの懸念ごとが出来ました。それは、自分は、本当は蝶で今見ていた夢こそが現実だったのではないか。今の老人の自分は夢の中ではないのか。

 つまり、あまりにもリアルな夢を見たおじいさんは夢と現実の区別がつかなくなってしまった、ってこと。ユカも夢を見てそんなふうに思ったことは無い?」

「夢と現実が分からなくなることかぁ。本当にそんなことがあるのかな?」

「どうだろう。今の話だって逸話だし、そもそも夢なんてすぐに忘れちゃうようなものだからね」


 彼女の左足から落ちかかっていた上履きがようやく落ちた。踵のところに書かれたツバキの名前が逆様になって見える。

 私は席から立って、そのまま窓の方に歩んでいった。窓を開けると入ってきた秋風が冷たくて、冬の到来を感じ始めた。

 風が私の髪を撫でる。少しウェーブのある栗色の髪がふわふわ浮き始める。私のシャンプーの匂いが教室の中に充満していくようだった。このたった二人の教室に。


「空気が冷たいね。」

「うん、でもユカの髪のいい匂いも薫って、この風を名づけるなら、なんてつけるのがいいのかな」

「なによそれ。ただの風じゃない」

「違うよ。もう違う。ユカの匂いを感じられる風は特別だよ」


 二人で微笑みあう中に、また一陣の風がふいた。


「さっきの話だけど、ツバキはリアルな夢を見たことはあるの?」

「多分、無い。在ったとしてもとうの昔に忘れちゃってるだろうからね」


 でも、と彼女は続ける。


「もし今のこの世界が夢の世界だったとしたら、私はこの夢から早く目覚める事を願うだろうね」


 彼女の言いたいことは分かる。以前、聞かせてくれたから。

 彼女はこの世界に飽きているのだ。

 つまらない、と言った彼女は私に、繰り返しの中に生きると言う事は、無駄と言う意味を孕んでいる、と分からせたのだ。






 彼女は机からおり、上履きに足を入れると、私の背後にまで来た。そして横から手を延ばし、開けてある窓を閉めた。


「風邪、引いちゃうよ」

「うん、ありがとう」


 少し、空気が止まった。留まった。時間が止まった気がしていた。実際、止まっていたのは私達二人で、時間は進んでいた。


「うん。この教室、いい匂いがするね」

「マキちゃん」

「やあっ、ユカ。ツバキもね。そろそろ部活が始まるよ」


 教室の扉を勢いよく開けはなして私たちに言葉をかける。この時間になっても彼女は元気そのものだった。


「後の部員もみんな揃っているからね」


 レッツゴーと言い、彼女は私達の手を握って、教室の外に連れ出す。廊下は暗く、時刻を私に思い出させた。

 時刻は夜九時。向かう先は私達天文部の部室がある、屋上。



 廊下の窓から入る月光は弱弱しく私達の足元を照らすばかりだった。


「ねえねぇ、ユカたちは教室で何を話してたの?」


 私が話そうと、少し言葉をためている間に、ツバキが

「他愛も無い話だよ」と言った。


 そして、話をぶった切った。まさに一蹴した感じ。


「ぐあぁー。一刀両断されちゃった」


 マキは180度ターンで私達のほうを向いて、時代劇の脇役者みたいに大げさに苦しむ。見ていて面白い。


「ふふっ。やるな、ツバキよ。だが私が倒れようとも第二、第三のマキが必ずやってくる」

「…………」


 ツバキは無視する。それはもう、耳を塞ぐが如く、外部をシャットアウトするが如く、見事に眼中に無かった。


「第二、第三のマキって一体誰よ」


 と、此処で私がつっこみを入れる。


「それは、…………。

えーっと。そう、私には双子の姉と妹がいるのだ」

「それ三つ子じゃない?」


 ぼけたのはいいけど、続きが無かったようだ。


「ぐはぁっ。またしても一刀両断。やるなユカよ」

「どうも」


 よろよろと後ずさって、口を拭う真似をする。


「油断するな、ツバキよ。第二、第三のマキは私より二倍、三倍と強いぞ」

「…………」


 はい、無視。


「さぁ、行こう。ミキとチセをあまり待たせすぎてもいけないね」

「切り替え、早いね」

「ん、何?ユカ?」

「何でも無いよ。ほら、行こう」


 ぼそっと言った私の一言は、ぼそっとでしか言えなかった。他人に聞かせるものでもない。





「二人の好きなものは何?私はねぇ、やっぱり星。星空」


 マキは小柄な体を揺らし、大きく歩みだしていく。


「だから天文部に?」

「うん。えへへ、単純だよね。よく考えもせずにとりあえず天文部に入っちゃった。ほとんど廃部状態だったなんて知らなかったよ。」


 それから彼女はミキとチセを誘って、私達を誘ったのだ。


「部活の活動条件の一つに部員が五人以上ってあるからね。ユカとツバキには感謝してるよ。おかげでようやくまともな活動が出来る様になった」


 そう、今日が記念すべき天文部の最初の活動になるのだ。


「ほら、見えるかな。あそこだよ」


 彼女はぺたぺたと窓枠によって、窓の向こうに見える屋上、天文部の部室を指差した。

 窓に手を当てて、眼をきらきらさせているその顔を見て、

 ふにん。

 なんとなくそのほっぺを触ってみたくなった。そう、ただの興味本位で。


「え?」

「え?あ、うん」

「えっと、何で、かな?」

「なんていうかその、何でかな?」

「え?何?判らないの?」

「いやいや、えーっと。やわらかそう、だったから?」

「やわらか、そう?」

「うん。その、…ごめんなさい」

「ううん。謝らなくていいよ。でもちょっと聞いていい?やわらかそうって事は、私のほっぺがふにふにしているって事だよね。それって童顔って事だよね?それって私が子供っぽいって事だよね!?」


 …怒った。


「子供っぽい?私、子供っぽいかな?この童顔のせいかな?背が小さいからかな?幼く見えちゃうかなぁ?」

「ああ…、ごめんね。泣かないで?」


 泣きそうだった彼女をつい、あやしてしまう。


「うわーん」


 止めだった。

 子供っぽいマキを何気なく子ども扱いすると、泣いてしまうようだ。






 切り替えが早いのは、自分の気持ちに関しても同じようだった。

 マキは数十秒もすれば泣きやんで、また屋上へ向かっていた。


「この階段を上ってる感じがね、何だか空に近づいている感じでわくわくするんだよね。これで、天上が無くて空が丸見えだったら、どれだけ胸が高鳴っただろうね」

「天上がなかったら、夜空に上っていく感じだったのかな」

「んふふ。残念がらなくても、この先には自然のプラネタリウムが待ってるからね。

 あっ、先に言っておかなきゃ。此処から先は、くれぐれも上は見ないでね。お楽しみは取っておきましょーってね」


 そう言って、マキは屋上への扉を開けた。


「ミキ、チセー。つれてきたよー」

「こっちこっち、上だよ。上がってきてー」

「上みたいだね。準備始めてるのかな?ほら、こっちだよ」


 目の前に見えるコンクリートの部室の横を抜けて裏についている梯子。そこでも私は上を見ないようにと言われ、不安になりながらもわくわくしながら梯子に足をかけた。

 ツバキは依然と本に眼を落としていた。


「わぁ、大きい」


 自然と声の出た私の目線の先には、とても立派な天体望遠鏡があった。


「やぁ、ユカ。ツバキ。

 ようこそ、天文部へ。…なんてね。ずいぶんと待たせちゃったみたいでごめんね。マキから聞いてると思うけど、上は見ないように、そのままそこに横になって待っててくれるかな」

「うん。わかった」


 それを聞いて、私とツバキが、ついでマキ、ミキ、チセの順にコンクリートの床に背を預けた。

五人が大の字になって寝ても全然広い此処で、なのに私はツバキの横で仰向けになって彼女の手を握っていた。彼女は嫌がらずにそっと握り返してくれた。

眼を閉じていた私は、ミキの合図で眼を開ける。そして、瞳に移りこんだのはまさしく、星の絨毯だった。それは、星雲と呼ばれるもの。


「ほら、見て。冬の大三角形が見えるわよ」


 ミキが星座の講義を始めて、私達はそれを聞きながら、自然のプラネタリウムを眺めた。


「こいぬ座のプロキオン、おおいぬ座のシリウス、オリオン座のベテルギウスの三つの星で三角形が出来てる。この中でもシリウスは地球から見える星で一番輝いて見えるの。和名では『青星』と呼ばれるほど、青く見えるわ。

 三角形の右上に位置するベテルギウスはオリオン座の右肩になるわね。その右下に見えるリゲルがあるから、あのあたりがオリオン座の全体になるのかしら」

「ミキは星座が好きなんだな。嬉しそうだ」

「ツバキが本を愛しているように、私も星座を愛しているのよ」


 ミキは微笑みながら言った。

 ツバキの目は星を追って動き、黒い瞳が輝いていた。彼女の手からは脈がどんどんと速く感じられた。


「あっちの星がいっぱい固まっているやつ、あれはプレアデス散開星団と言って、おうし座の東側にある星団なの。だから…、あのあたりがおうし座になるのかな」


 今度はチセが空に指を指し始めた。まるで宙にお絵かきしているかのように、楽しそうに動いていた。


「おうし座は十二星座のひとつだからユカもツバキも知ってるよね。他にも、プロキオンが作るこいぬ座の上には、ふたご座が見えるよ。ちなみにふたご座は私の誕生月の星座なんだ。私、六月四日生まれなの」


 マキは両手を空に伸ばして楽しそうに笑って言った。そして、立ち上がって私の足元の方まで来た。それを見て、私とツバキは体を起こす。


「これが、私達天文部だよ。ようこそ、天文部へ。と言ってもこれが初めての活動だから、私もあんまり威張った事はいえないんだけどね」


 私達は差し出された手を取って、マキに引っ張り起こされた。

 私は彼女に連れられ、望遠鏡を覗き、宇宙の中に飛び込んだ。ツバキは地べたに座って、文庫本を開いていた。時々顔を上げて、空を見上げる様子を見ると彼女を天文部へ誘ってよかったと思えた。チセとミキはまだ寝転がって、互いに星座の知識を言い合っていた。






「『恥の多い生涯を送って来ました。自分には、人間の生活と言うものが、見当つかないのです』これは『人間失格』の主人公である、葉蔵の言葉。私はこの言葉を知り、私の世界を変えてしまった。一言で言うとそう、つまらなくなった。多分私は、『人間失格』に飲み込まれた人の一人になったんだと思う。

 以前から、私はどこか、他の人とは違った考えをしていると思ってた。どこかで皆に合わせようとして、自分が少し狂っていることが分かったいた。

 歯車がかみ合わなくて、皆とセンが引かれているように感じた。そのセンがどんなものか、どれほど離れているのか、そんなことを考えているときに、この本に出会った。

 葉蔵と同じだ。私は道化を演じていた」

「それで、ツバキは結局、どう思ったの?」

「道化を演じ続けていた私の生涯は、繰り返しだった。プログラムされたように他人に合わせて、仮面を付け替えて、まるでビデオをリピート再生するかのように繰り返していて、それはつまらないものだと思った。…でも、」


 彼女はそこで言葉を切って、顔を上げ、星空を見上げて言った。


「本当は、つまらなくなんか、無かった。繰り返しなんかじゃなかった。この星空を見て、私はそう思った。だって、世界は廻る。決して止まりなどしないで廻る。だからきっと、この星空と同じ星空なんて、見ることは無いんだと思う。そしてそれは、私の世界も同じじゃないかって、思ってきた。繰り返しなんか無い。リピートなんかじゃない。どれもこれも、全てが唯一無二のものなんだ」


 彼女が言い終わったの待って、チセは彼女の背に飛び掛って、後ろからほっぺをもみ始めた。


「さっきから、難しいことを言って、用は星が綺麗で、そしてそんな星が見れて嬉しいんだろう?だったら、そう言いなさいよ」


 ほっぺをつままれたツバキは、眼に涙を浮かべていたが、その歪んだ顔は、笑っている風に見えた。


「ツバキの言葉を借りて言うなら、仮面が取れたみたいだね」


 ミキが私に自分のカーディガンをかけて、そういった。その間に、マキはじゃれ合っている二人の間に飛び込んで行った。


「ツバキがあんな風にじゃれているのって初めてみた。何だか重石が取れたみたい」

「重石が取れたのは、ユカも同じなんじゃない?前よりもすがすがしい顔をしてるよ?」


 そういわれて、考えてみると、確かにそうかも知れない。ツバキが感じていたように、私もツバキとの間にセンがあるように感じていた。それが今は…。


「そろそろ止めてあげないと、マキが子供扱いされたみたいで、大泣きしちゃってるよ」




 この日、高感度カメラで、星空と一緒に撮った私達五人の写真は、初めての部活動として、全てが唯一無二の証明として、私達の大切な宝物になった。そして、その、ちょっぴりほっぺの赤くなったツバキの顔がどうにも可笑しくて、私達はまた、笑いあっていたんだ。


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