ダバオ 日本人学校
5 転校 フィリピン ミンダナオ島ダバオ
清洲橋通り沿いにある都立白河小学校の終業式が終り 2階の2-6組の教室に戻ったみんなは 明日からの春休みにテンションが上がりきって大騒ぎで走りまわっている。
「は~~みなさん 席について~~これから通知表を配ります~~」
担任の酒井みなこ先生の声もどこか華やかで みんなそわそわドキドキしながら 一人一人呼ばれる名前を頭で追いかけていた。
「高杉英樹く~ん」 「はい」 子犬のようにつまずきながら受け取った 2年生終了の通知表 勉強など何もしなくても いつも成績はクラスでもトップなのだが 成績はともあれ これを持って帰ると この日だけは必ずパパが居て 通知表を見ながらあれこれとぼくを凄く褒めてくれて 成績に見合ったおこずかいがもらえる。
家の場合 日々や月々のおこずかいはなしで その代わりに1学期ごとの成績でおこずかいがアップする。。
例えば 5-500円 4-300円 3は無し 2は取った事もないけど一応マエナス500円 1は これもあるはずがないけど 全額没収
それと 表彰状類は 掃除頑張り賞でもなんでも1枚500円 これで結構な金額になるのだ。。
トータルすると4000円~5000円 友達と日々駄菓子やに行っても 1学期間お金に不自由したことがないくらいだ。。
2年生最後の掃除を済ませて 担任の酒井先生から春休みの過ごし方や交通事故の注意点などの話が終り、「さようなら」「さようなら」 が終るとダッシュで家まで翔けて帰った。
「ただいま~~~」 「おかえり~~」っと言ういつものママの返事がないのに
なにか違和感を感じながらリビングに入り かばんを置いて 通知表だけをを出し
「ママ~~」と叫ぶと 「ウッウッ、、、」と2階からままの声が、、
2階へ上がってドアを開けると ベッドに寄りかかったママが泣いていた。。
「パパが、、パパが、、、死んだの 死んだの、、英樹、、、、、」
それからの数日間は 慌しさと母の泣き声 初めて体験する父の死の空白感
そして葬儀 そこで初めて見る 父の本当の奥さんや叔父さん おばあさん
父の友人が気を使って 僕と母の席を開けてくれたり 色んな事を忘れたけれど
お経の音頭と お寺の木々の隙間から見える 春の薄い空と葉ずれのざわめきが 不思議な世界のようにぽかんとして時間が流れていた。
それからの数日間 母は度々父の親族に呼ばれて居なくなり その隙間を埋めるように
春休みのはずの酒井先生が毎日家に来て あれこれと話をしたり公園に行ったりして過ごした。
そしてその春1番驚いたのが 母とフィリピンのミンダナオ島に帰ると言うことだ。
どうやらそれが ママと 父の兄弟やおばあさんとの話し合いの結末らしい事
そのために 酒井先生が春休みも返上して転校の準備に張り切っていた事がわかった。。
日本での最後のサクラの開花を見る間もなく 羽田空港からマニラへ そしてダバオ行きフィリピン航空に乗り継ぎ1時間も過ぎた頃 眼下に広がる色鮮やかなマリンブルーの海に白いさんご礁が透けて見えた
間もなく 飛行機はミンダナオ島の表玄関 ダバオ国際空港に静かに着陸した。
飛行機を降りてターミナルビルに入ると「はい これはお母さん はい これは英樹君、、、胸を張って堂々と入国しましょう 貴方の国よ」 と まるでツアーコンダクターのように酒井先生がそれぞれのパスポートを手渡してくれ 入国審査を通り抜けた。。
そう 酒井先生は春休みだと言うことで 頼りない母をほろうして わざわざここまで付いて来てくれたのだ。
そして母も まるで修学旅行の生徒のように 先生に続いてゲートを抜けてきた。。
ダバオ国際空港のターミナルを1歩外に出ると そこは南の楽園と言うにふさわしく 刺すような日差しの中 空気には土の匂いに混じって甘い果物の香りが漂っている。。
そしてそこに止まっている黒い車 トヨタ クラウンを見たとき 思わず『パパ、、』と口ずさんでしまった。。
しかし後部ドアから出てきたのはおじいちゃん 畏まったバロンタガログに黒いパンツを着て降りてきた。
「パパ~」と言って飛びついて行ったのはママで、おじいちゃんはママを抱き上げながら
「ヨハン・・・英樹 よく来た」と 優しい目でニコニコとしていた。
クラウンに酒井先生も乗り込んで さっそくダバオ郊外の高級住宅街の真っ白の家に着くと 大勢の人たちが待ち構えていて 僕たちのためのウエルカム、パーティがはじまった。。
おじいちゃんはママと僕の手を引っ張って ダバオ市長や国会議員 貿易商などに 自慢げに僕たちを紹介してまわった。。そして僕は いつの間にか日本で1番優秀な学校で成績も1番だと言う事になってしまって こっそりおじいちゃんに苦情をいうと おじいちゃんは大笑いしながら「それでいいんだ よはん お前はまさにその通りなんだから」と 上機嫌だ。。
酒井先生も上機嫌で 日本ではあまり受けなかった得意の英語を駆使して あちこちのテーブルを蝶のように移動して話している。。
おじいちゃんもそうだが フィリピンの知識階級の年配者は 英語はもちろんタガログ語や 日本語もかなりできる人が少なくないのだ。。
次の日 4月4日 ミンタル日本人学校への転校手続きに酒井先生と共に行った。
フィリピンの学校は本来4月~5月は春休みに入っていて 学校には誰も居ないのだが
酒井先生のたっての頼みと おじいちゃんが手を回したようで この日に校長より転校の受け付けをしてもらうようになっていた。。
日本人学校とは言っても この頃にはすでに地元の生徒がほとんどで 日本からの転校と言えば強制退去の子供や ジャパユキさんの産み落とした子供などで 僕の場合も似たようなもんだと 訳知り顔の校長は終止にこやかに手続きを追え 明日教科書をそろえておくから取りに来るようにといいおき笑顔でわかれた。。
そして次の日 酒井先生は僕の転校を見届けて安心し「沢山勉強するのよ 英樹君はお勉強は出来るからこっちの学校でも大丈夫 日本の教科書も先生が毎年送るから それも勉強して日本の大学でも入れるようにしておきなさいね」と言ってくれて にこやかにダバオ国際空港から日本に帰国の旅についた。。
酒井先生を見送った空港からの帰り道 新しい教科書を貰うためにミンタル日本人学校の前で車を降ろしてもらい 校門をくぐった時に 僕に取っては大きな事件に遭遇した。。
ビ~ビ~と泣く声が右手から聞こえたので見ると 小学1年生ほどの小さな女の子が砂場の角で泣いている。。 どうやら転んで怪我をしてるようだ 「Are you all right ? 」と声をかけて近づいて行くと 後ろからいきなり蹴飛ばされて砂の中に顔から倒れてしまった 驚いて振り返るとそこには靴底が見えて 再び砂の中に頭がめり込んだ
そして瞬間的に3度目が来ると予想し足で相手の足を払うと それが見事に決まりドドっと相手も砂場に倒れこんだ、、 今だ っと起き上がって相手の上に乗り思いっきり拳を振るった。。 その時 パパの死からの ママに対する親戚の冷たい仕打ち お葬式での叔父さんや叔母さん達が僕を見る冷たい目 突然の転校とダバオ行きの飛行機
これまで我慢していた感情のリミッターがガチャリと外れる音が聞こえた。。
よく見ると相手も自分と同じ歳頃の男の子だ しかしその目は獣のように見開き暴れ狂う野獣だった。。ウオ~~~~と叫びながら僕も渾身の力で 上になったり下になったり
絶対こいつだけは殺してやる と想った。。
疲れはて は~~は~~いいながら ミンタルの南国の空を眩しくみていた
隣でも同じようにぜ~~ぜ~~言う声だけが規則正しく聴こえている
次に目に飛び込んできたのは 真っ赤なハイビスカスの花と小さな手、、「はいこれ、、、大丈夫?」 「、、、、、」 そして隣の男の子に「お兄ちゃん 大丈夫? はい これ」 と 同じように真っ赤な花を手渡した。。
驚いた 「日本人か?」 起き上がって見ると 男の子もまた驚いたようすで 「お前は、、?」
それが同じ歳のライアンと 2こ歳下のライアンの妹カレンとの出会いだった。。
ライアン兄弟はお父さんもお母さんもここダバオ生まれで 日本に出稼ぎに行ってたがこの春強制退去で帰ってきたのだったが お父さんとお母さんはマニラで働くようになって
兄妹でダバオのおじいちゃんの家に預けられた
そして ライアンのおじいちゃんは 僕のおじいちゃんの幼馴染で一緒に農園で働いているということだ
始めての友達が出来ておじいちゃんやママはとても喜んでくれた そして事ある毎にライアンとカレンをよんで 食事や寝るのも一緒と言う 春休みの2ヶ月を送った。。
そしてもう1つこの休みに僕達が夢中になったのが狩りだった。。
おじいちゃんは 農園作業の時間を割いて僕とライアンを狩りに連れて行ってくれた
1泊や2泊のキャンプで 猪や鹿を撃ってジャングルの中で焼いて食べた
そして僕にもライフルの撃ち方やピストルの整備 猪の足跡や鹿の糞の見方
そしてジャングルを回り込み 追い込んで撃つ方法や 撃った獲物の解体の仕方など ジャングルでの生活の仕方を まるで学校の先生のように僕とライアンに教えていった。。
新学期 小学校3年生からのミンタル日本人学校での学校生活が始まった。。
元々覚えのいい僕は 初めから学年で1番をとった。。そしてそれは 地元の子供たちのかっこうの虐めの対象となったようだ。。
ジャングルと同じように 学校も戦いの場になって 同級生と喧嘩すれば次の日にはその兄貴達にやられると言う 当たり前の学園生活がはじまった。
ただ ボロボロに叩かれながらも それは一人ではなかったのが僕の唯一の支えだった
いつも僕の側にはライアンが何も言わずに戦いに参加して 同じようにボロクズのように
僕の隣に仲良く並んで転がっているのだった。。
学校の勉強と 酒井先生から送られてくる日本の教科書の勉強は おじいちゃんとの約束だから真面目にやった。。 そして学校では いつも1番だったが 授業と寝る時間意外は
僕とライアン 時にはカレンも ほとんどの時間アポ山麓のジャングルで遊んだ。
基地を作り 罠をしかけ 時には倉庫のロッカーから おじいちゃんのライフルやピストルを盗み出して キジやコモンジャコ うずらなどを撃って食べた。
そしてライアンと競って身体を鍛えた これもおじいちゃんの命令で バゴボ族の男は 誰にも何にも負けてはいけない と言うのが口癖で ジャングルは最適なフィットネスクラブだった。。
そしてジャングルには 果物がそこらじゅうに年中豊富にあるし カレンの趣味で基地は南国の花に囲まれてそこはまるで南国の楽園 このままこの基地で一生暮らしても困らないと想っていた。。
小学校時代は そんな平和な楽しい時間で終るんだと 何も不安も抱かずに過ごしていた。。。
小学校の卒業式が終わり 中学校入学までの 待ちに待った春休みに入って間もなく おじいちゃんが「ヨハン 今度は1週間から10日山にはいるぞ」 嬉しかった 鍛えた身体は細身ではあるが鋼のように硬くしなやかで 自分でもまるで山猫のようだと想っている。そしてこっそり練習した銃の腕は 猪を100パーセント1発で倒すようになっていて いつおじいちゃんに見せて褒めてもらえるのか 待ちに待っていたチャンスだった。。
「じゃライアンとカレンに言って来る」と駆け出そうとしたときに「 今回はお前とわし2人だけじゃ」 初めてだった おじいちゃんと2人だけのキャンプは そしてそれはすごく嬉しいことだった。。その時は、、、




