第十五羽
翌朝。
ばっちりと、目が覚めた。
時刻は午前4時。今日の予定表では、起床時間は6時だった筈。
低血圧の最高値、低血圧の王者などの数々の称号を持つ俺がこんなに早く起きる日は、大抵、というか絶対嫌なことが起きる。
そういうジンクスを越えた法則が、俺には存在する。
的中率は、100%、絶対必中である。
「――何も修学旅行中じゃなくてもいいじゃないか」
そうぼやきつつも、ここまでばっちり覚めるともう二度寝は無理だ。
若干の肌寒さを感じつつ、布団から這い出る。
幾多のテディベアに包まれて熟睡してる藤宮マサルを横目に見つつ、洗面台に向かう。
鏡に映った自分は、嫌いだ。母さんに似ているこの顔がとても嫌いだ。
――せめて父さんに似たかった。
だから俺は極力鏡を見ないように努めつつも、身支度を整える。
歯を磨き、顔を洗い、寝癖を直す。
ルームメイトを起こすと申し訳ないので、音を立てないように……と。
「……早起きは三文の得……って言うけど修学旅行中じゃ暇なだけだよな」
勿論ゲーム機など持って来てないし、携帯電話は完全連絡用主義な俺である。
何か嫌なことがあると分かってても、何時来るかは分からない。
まあ、クラスメイトとかに迷惑が掛ることは無いだろう。
その辺は母さんの圧倒的で超越的な能力で『制限』されている。
つまり、若草高校関係者は絶対安全ということである。
というか、俺もその庇護下にあるわけで、別段俺は何もしなくても、全ては最後の最後には解決する問題なのだ。
例えその過程で拉致されようと、手足をもがれようと、死んだとしても、『事件』自体は最終的には母さんか弟が力ずくで解決してしまう。
解決されてしまう。
なのに――何かしようと、事件に首を突っ込み、痛い目を見る俺は、相当の馬鹿だろう。
兄だから――などというふざけた理由でボロクソにされる俺は――多分、あの角刈り中年の言うとおり最も狂ってるのかも知れない。
マゾヒストにも程がある。案外、伊藤詩織辺りと相性がいいのかも知れない。
や、まあ、俺が選んだ道なんだけどさぁ……。
…………。
…………。
……あれ?
「俺が――選んだんだっけ?」
「何が?」
「うほう!?」
突然話しかけられて、思わず変な声が出てしまった。
俺を驚かせた元凶――青井秀は、人差し指を唇にあてる、所謂静かにしろのポーズを取った。
手に持ってる本は――ピンクい表紙の……なんだ?
「ああ、エロ本だよ、読む?」
「え、エロ本?」
「うん、官能小説ってやつさ」
あまりにも平然と言いやがるので、本を覗いてみると、そこに書いてある文章はまさしく官能的であった。
「……驚いた、こういうのも読むんだな」
「そりゃあ、健全な男子高校生だからね、僕も。あ、君のそのカバンに入ってるエロ本は何て本だい? 気配的に新しく学校近くに出来た本屋のものっぽいけど」
「おいおいここに来てキャラ立てかよ青井秀」
「別に、ただ披露する場面が無かっただけさ。長年読書中毒者なんてものをやってたら、後天的に発揮されたどうでもいい特技だよ」
本の気配が理解できて、尚且つその気配から本の種類やどこで売ってたかが分かる特技ってか?
何気に凄いな。
「ページ数と章数も分かるよ」
「凄いなお前」
いやー、びっくりした。
テレビ出れるんじゃないかな、コイツ。
「ところでまだ4時だぜ? なんで起きてるの?」
と、俺はカバンから昨日の夜読む暇がなかったエロ本を取りだしながら言った。
「それはこっちのセリフだな、羽切は低血圧って聞いてたから起こすのもっと苦労すると思ってたよ」
ページを本当に読んでるか疑問に思えるほどのスピードで捲りながら、青井秀は言う。
「そんな日もあるんだよ、て、言うかそれホントに読んでるのか?」
「読んでるよ、速読なんて要らないんだけど、自然と会得しちゃった癖だね」
「ふーん」
そこで、パタっと青井秀は本を閉じた。
その際本のタイトルがちらりと見えた。
『女王とマゾ男~奴隷志願編~』
「……青井秀って……マゾなの?」
「ん? まー、どっちかと言うとマゾかな、此処だけの話、伊藤のこと好きだし、僕」
へ、へー。
意外だなぁ……。
「でも伊藤って僕のこと虐めたこと無いんだよね……眼中に無いっぽい」
はぁ……、と溜め息を吐く青井秀。
うーん、それってどっちなんだろう。
「――まあ、恋愛経験ほぼ皆無の俺から出来るアドバイスなど無い、頑張れ――とだけ言っとこう」
「そうだな――ありがとう、とだけ言っておこう」
ふむ、それはそうとやっぱ良いなこのエロ本、俺のドツボを射てる。
それから、青井秀と話しながらエロ本を読んでると、あっという間に6時になり、皆を起こした。
今日は奈良に行き、自由時間だ。
*****
不条理とは得てして全て唐突に起こるものである。
それは例えば地震であり、落雷であり、火事であり、我が母親であり、積み上げてきたもの全てを一切の道理無く、情け容赦無く、後悔の暇無く命を、全てを奪っていく。
まるで人間など嘲笑うかのように、
まるで人生など嘲笑うかのように、
不条理は全てを奪っていく。
それに比べたらまだマシなのだろうか、この状況は。
おそらくマシなのだろう、何故なら俺には選択肢が与えられていて、その選択次第では逃げられるのだから。
でも! でもでもでも! だからと言ってこれは無いだろ! あんまりにもあんまりだ!
修学旅行だってのにコイツと会うなんて……死んだほうがマシだった!
「あれ、兄者じゃん」
「……よ、よう、羽切勇大」
こんがり焼けた肌に、それ以上黒い短く刈りあげた黒髪。
小学校高学年程度の年齢に見合わない筋肉。身長。
白いランニングシャツと半ズボンは、肌寒いこの季節には似合わないほど浮いていた。
「……何で奈良に居んの?」
「朝のランニングコースの一環だよ、大体フルマラソンの2倍くらいは走るかな」
約84kmか、思ってたより少なかった。
現在地、奈良公園。
カワッテルンジャーのメンバーはタイミング良く(悪く?)全員トイレに行ってて居ない。
「……ふぅん、じゃあま、頑張れよ、ランニング」
「おう、兄者も修学旅行楽しんでな」
ふぅ、よかった。特に何事もなく済んだ……。
全く、兄にとって修学旅行先で弟に会うとかめっちゃ嫌なんだよ……。
「あ、そうだ」
と、走り出しかけた羽切勇大は立ち止まり、再びこっちを向いた。
嫌な予感しか、しない。
「大丈夫かとは思うけど、一応言っておこう。最近この辺りで一人で居る修学旅行生の男を狙った誘拐事件が多発してるからな、気をつけろ」
「……はいフラグ立ったー」
「ん?」
「なんでもない。で、何で男ばっかなんだ?」
「さあ……? あ、その誘拐事件を起こしてる組織の名前は『薔薇の園』らしい、兄者なら大丈夫だとは思うけど……条件は満たしてるからな、一応注意しときん」
「忠告ありがとう、ついでに情報もありがとう。それじゃあな」
「ああ、また明後日だったか? 家で会おう」
そして羽切勇大は駆けて行った。
目にもとまらぬスピードってああいうのを言うんだろうな……。
しかし……『薔薇の園』か……男ばっか狙ってる、でこの名前か……。
藤宮マサルと青井秀が心配になってきた。ちょっとトイレに様子見に行こう。
そう思い、俺はトイレへと駆けだした。




