時忘人
森を抜けると、町を見下ろす丘に出た。あの町が次の目的地だ。
「もし、そこな旅のお方」
声を掛けられ振り返ると、そこには天広がるようなに大樹があった。桜の木だろうか。今は青々とした葉が、空を覆わんと茂っている。齢も相当なものだろう。
しかし僕に話し掛けたのは木などではない。
木の下に若い男が立っていた。廃れた革鎧を纏い、古びた小剣を手にしている。格好は土に塗れて汚れているが、瞳の綺麗な男だ、と思った。
「町に入られるのですか?」
「はい。……なにか?」
「ただいま戦時下により、町への立ち入りは危険を伴いますが」
「戦争、ですか?」
この町が戦争中などと耳にしたことなどない。この付近で戦が起きたという話も聞かない。もしかしたら、最近のうちに勃発したのだろうか。だったら困ったものだ。
「この戦いは長く続いております。私は、負傷し、町で治療を受けている仲間の兵士達を待っているのです」
男は、遠い目で戦友のいるという町を眺めている。
「しまったな……たびの食糧を仕入れようと思ったんですが」
「旅人さんにならきっと分けてくれますよ。みな優しい方達ですから」
「それなら嬉しいです。あの、あなたは負傷兵さん達を迎えに行かないのですか?」
男は桜の木を見上げた。つられて僕も空を仰ぐ。
「私にはこの桜の木を守るという使命もありますから。私が子供のころはまだ小さかった木なのですが、いつの間にかこんな大樹に育って。この木が燃えないように守っているんです」
そう語る口の端には柔らかな笑みが浮かんでいた。
「そうなんですか」
「はい。誇りがありますし。あ、もしよろしければ、町で兵士達の具合を見て私に教えてくれませんか?」
「はい、かまいませんよ」
「お願いします。くれぐれも気をつけてくださいね」
男は頭を下げた。僕も会釈を返す。
そして僕は町へと丘を下っていった。
「ようこそ、旅人さん。何もない町だけど楽しんでいってねー」
何もない町と謙遜するわりには、市場は賑わっており、人々は活気に満ちていた。どこにでもある、普通の光景が広がっていた。
あの男が言っていたような、戦争の影など全くない。だが彼が嘘をついているようには見えなかった。
八百屋の店主が屋台から身を乗り出して言う。
「旅人さん、何をお探しだい?」
「あの……つかぬことを伺いますが、負傷兵たちはどちらに収容されていますか?」
「負傷兵?」
隣の反物屋の女性がある建物を指差した。塔のような外見をしている。
「だったらあそこに行ってみなよ」
僕はふたりに礼を言い、教えられた所へと向かった。
塔から出てきた足でそのまま丘を登ってゆくと、あの桜の大樹が見えてきた。
「こんにちは」
「おお、先程の。食糧の調達はうまくいきましたか?」
「はい。やっぱりあの町の人々は優しい人ばかりですね」
男は笑みをこぼした。故郷の仲間たちが褒められるのが嬉しいのだろう。
「それで、私の仲間たちの様子はどうでしたか?」
「それが……」
言いづらい。とくに、彼には。
教えられた建物は、歴史資料館だった。
そこには、この町の歴史が刻まれていた。もちろん、戦争に関しても色々な内容が記載されていた。
そう、例えば、一番最近に起こった戦でさえ、今から百年も前の出来事であるということ。
そして、そこに展示されていた剣は、今彼が持っているそれと同じ型のものであった。
先程の笑みは消え、今や冷たくも感じられる視線が僕に向けられる。
「百年前……だと。そんなわけはない。そんなはずは……」
目を逸らしてはいけない。僕はこの人に伝えねばならない。
「戦いは終わったんです。百年も前に。あなたの戦友という方々はもう」
そしてあなたも。
「言うな。言わないでくれ……」
男は顔を伏せた。そして小さく、わかっていたんだ、と呟いた。
「あなたの居場所はここではないはず。あなたを待っている人がいるのだから」
「……もう、帰ってくれないか」
男は顔を背けたまま唸るように言った。彼を見るのが辛かった。僕もまた、町へと続く丘を下っていった。
彼が幼かった時はあの桜の木も小さかっただろう。いつしか、百年も経っていたのだから、この木も大きく成長して当然だ。
その晩、予期せぬ嵐が町を襲った。叫び声のような、唸り声のような風雨が町を包んだ。その悲しい悲鳴は、一晩中続いた。
翌朝、明け方まで続いた荒れ模様が嘘のように、空は晴れ渡っていた。
僕は再びあの桜の木のもとを訪れた。
「…………」
あの若い兵士の姿は無かった。その場所には、彼の手に握られていた剣だけがただ、桜の幹に立て掛けてあった。
待ち人には、会えたのだろうか。
僕は、彼と苦楽をともにしたであろう剣に祈りを捧げ、その場を立ち去った。