夫から名を授かったが、、、
今日も妾の隣には、かつて助けた人間の少年……今は、妾の伴侶となった男がいる。
妾の横で、あやつは書類に目を通していた。
元々、人も魔物も寄り付かない魔王城に政務などあるわけがなかった。
だが、妾の伴侶となった男は「まずは、この国をある程度復興させて豊かにします!」と宣言し、国の政務から取り掛かり始めた。
そして、それを妾も止めていない。
「……魔王。」
ふいに、あやつが書類の山から顔を上げた。
「なんだ。」
「ひとつ、聞いていい?」
妙に真面目な顔をしている。
何事かと思い、妾は頷いた。
「あなたの名前、聞いたことない。」
――暫しの沈黙。
「……は?
妾の名前だと?」
「うん。」
あまりにも自然に言われたので、一瞬意味が分からなかった。
「……妾に名などないぞ。」
「え?」
当然のように答えると、あやつはぽかんと口を開けた。
「それに、妾は『魔王』と呼ばれているからな。
それで事足りるではないか。」
妾は当然のように答える。
それ以上でも、それ以下でもない。
……少なくとも、妾はずっとそう思っていた。
「それは称号とか肩書きみたいなもんでしょ。」
あやつは心底不思議そうな顔をして首を傾げた。
「そもそも魔族には、人間のように個人を識別する名など持たぬ。
称号があれば十分だ。」
魔王に個人名など必要ない。
群れない。
支配しない。
誰とも深く関わらない。
それが妾の生き方だった。
だから、名を名乗る必要性すら感じたことなど今まで一度もなかった。
それに……。
妾に『魔王』という称号以外で与えられた名などなかったから。
だが。
「……名前、ないの?」
そう言われると、妙に引っかかる。
「ない。」
「そっかぁ……。」
あやつは驚くでもなく、少し考える顔をした。
そして、さらりと真顔で言った。
「じゃあ、俺がつけてもいい?」
「なっ!!」
思わず立ち上がる。
「妾の名をかッ!?」
「うん。
俺、自分の奥さんを『魔王』という称号ではなく、ちゃんと名前で呼びたいです。」
名とは、軽々しく授けるものではない。
特に魔族にとっては名を授かるということは、とても意味を持つものだから。
そもそも魔族が名を持たぬ理由は、魔族にとって最上位の契約を結ぶ際に、契約相手から授かるものが名だからだ。
契約を結んだ者と、生涯生死をともにすることになる契約……。
つまり、あやつが妾に名を授けるという行為は最上位の契約を結んでしまうことになる。
魔族に名を授けた人間は、魔族と同様に寿命が延び、魔族の寿命が尽きるまで死ぬことが出来なくなる。
確かに以前、あやつに人間を捨てる覚悟はあるかと問うたのは妾だが……。
「嫌?」
それなのに、こやつは。
真っ直ぐに聞いてくる。
「……。」
一瞬、言葉に詰まる。
名など、必要ない。
そう思っていたはずなのに。
――名前で呼びたい。
その一言が、妙に胸の奥に引っかかった。
嫌かと言われれば――。
嫌では、ない。
むしろ……。
(妾の名を……あやつが……?)
胸の奥が妙に落ち着かない。
「……くだらん。
人間を捨て、妾と共に生きる覚悟が本当にあるのなら……好きにせよ。」
すると、あやつは嬉しそうに笑い、少し考え込むように顎に手を当てた。
「うーん……。」
その視線と妾の視線が重なったとき。
「……そうだ。」
ぽつりと呟いた。
「ルベリア」
「……?」
「ルベリアってどうです?」
あまりにも唐突だった。
「旅をしている時に、ルベリアっていう深紅色の石を見せてもらったことがあって……。
魔王の眼の色みたいで、綺麗だなって思ったんですよね!」
そう言って、あやつは照れたように笑う。
胸の奥が、ほんの少しだけ騒ぐ。
名など必要ない。
そう思っていたはずなのに。
たった一人の人間に与えられたその名前が――。
「……ふん。」
顔を逸らし、腕を組む。
だが……。
悪くない。
少なくとも。
誰かに名を呼ばれるというのは、こんなにも妙な気分になるものなのか。
「よい。
その名、妾が使ってやろう。」
ちらりとあやつを見る。
「本当ですか!?」
一瞬、あやつの顔がぱっと明るくなる。
「勘違いするな。」
そっぽを向いたまま言う。
「気に入ったわけではないぞ。
ただ、貴様がそこまで言うなら仕方なく――。」
そこで、あやつが笑いながら近づいてきて、妾を抱きしめて言った。
「ありがとう、ルベリア。」
そして、妾は気付いてしまった。
妾の伴侶となった男の名を――知らぬことに。
……いや。
正確には、聞こうとすらしていなかったことに。
「――ルベリア・グラディス・フローディア。
これが、貴方の名です。」




