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砂漠転生  作者: たまりん
第4章 オルデ編 ― 迷宮都市への旅路 ―
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第79話 絶対公理の書②


 第79話です。


 炉の残り火がかそけく闇に揺れた。

 読めてしまった者は退行の内側にいる。

 タクミは本を閉じて誰にも告げない。

 潮騒だけが遠くで夜を満たしていた。



(……これを書いたのは、亜神のひとりだ)


 胸の裡で、確信がかたちを成した。岩のドゥラガンの名を証言者として記し、碑石を読み、これを写し取る——そのすべてを為せる者が、七人の亜神以外にいるはずがない。だが、どの亜神なのか。その名までは、この文面は語らない。


 頁を繰る。指が紙の上を滑り、文字の連なりを追っていく。


『三法の繋がり


ここに、三つの禁則術式を繋ぎ記す。


冥法の対価は、心の死への隷従、殺しの義務、感じ方の逆転。随伴は消去——その進み方は三法中最速。実利的効果は六百年の「動く死肉」としての延命。本質は「永遠に飢え、内側から消され続ける囚われの者」。退行へはあえて抗わず、加速する流れに身を任せる。


神法の対価は、第一から第四階梯までの魂の燃焼——その量は術者の意思により量りうる。第五階梯以上はもはや対価の範疇を離れ、不可逆的燃焼という随伴の性質を帯びる破滅へと転ずる。随伴は退行。実利的効果は約千年の寿命——ただし神言語を第四階梯までに留め、かつ極力抑えた場合に限る。本質は「抜けば死ぬ刃を持ち、千年を独り生きる長命の者」。退行へは無視に等しい。


輪法に対価はない。随伴は拡散の必然、孤独、消去、空白の時そのもの。輪根に触れ第六階梯魔法「遅延の理」を会得した者には、覚醒期間における退行の遅延が自然随伴として加わる。実利的効果は「事実上の終わりなき生」と遅延。本質は「永遠に誰でもなくなり、誰にも覚えられず、消えゆくばかりの放浪者」。だが、輪法のみが退行に抗い、深みへ潜り輪根に触れ遅延の理を会得することで浮上を僅かに遅らせる——その抵抗は同一性の曖昧化と孤独の深化を伴う。


ここに三法の差異は明白である。冥法と神法は「対価」と「随伴」の両方を有し、術者は対価の秤を意思で量りにかけることができる——ただし神法の第五階梯以上は、その使用という一点にのみ意思が介在し、その後の破滅は術者の制御を完全に離れた不可避の随伴となる。一方、輪法のみは「対価」を持たない。拡散も孤独も、退行の遅延も——すべては輪を渡るという行為、輪根に触れ遅延の理を会得するという事象に自然随伴する現象であり、術者の意思で支払いを調節することはできない。術者はただ、輪を渡れば拡散し、孤独となり、輪根に触れ遅延の理を会得すれば遅延が生ずる——それだけのこと。ゆえに輪法においては、「どれだけの代償を払うか」という選択の余地そのものが存在しない。これが輪法の最も静かで、最も残酷な真実である。


かくして三法は退行に対し三つの道を示す。冥法は加速し、神法は無視し、輪法は遅延する。いずれの道を選ぼうとも終着は変わらない』


 どの道を選んでも最後は同じ——その事実が、ひどく冷たく胸に落ちた。


 頁を繰る。


『結び


以上の五箇条及び補遺、ならびに前文の定め——「退行する世界」と「三つの根の理を根本的に書き換えることの不可能」——これこそが、この世界の絶対公理である。


第一条は冥根帰結の不可逆性を、第二条は過程可変・終点固定の二重構造を定める。第三条は魂理三禁の共通骨格と輪法の特異性——輪根への到達と第六階梯魔法「遅延の理」、そして「対価なき随伴」の構造——を記す。第四条は冥法の肉体変質を、第五条は神法の対価と随伴の境界を具体に示す。補遺は輪法における時間的拡散と、遅延の理がもたらす退行遅延の機構を定める。すべては互いに足りぬところを補い、一つの閉じた理の組み立てを成している。


退行の極致たる超越の儀——そのただ中になお立ち上がった者がいた。その理由も名も霞んでいるが、立ち上がった。その一事だけは公理の行間から決して消えぬ、かそけき傷跡として残り続ける。


ゆえに、これを完全に破ることは誰にもかなわない。逆らう者はその代償をもって、あるいは代償なき随伴によって、公理の正しさを自ら示すのみ。輪法の術者のみが遅延の理により猶予の時を得るが、それは拡散と孤独の極みを伴う。


退行する世界にあって、最も深く退行した者とは——知りすぎたことさえもはや覚えていない、ただ消され残っただけの者のことである。最も深く抗った者とは——輪根に触れ遅延の理を会得し、退行を遅延させながら、己が誰であるかを最も多く失った者のことである。


輪法に対価はない。ないがゆえに、術者はその随伴から逃れるすべを持たない。これこそが輪法の最も深い皮肉であり、最も静かなる残酷である。


超越の儀は知りすぎた人類を消そうとする、起こるべくして起こされる因果なのである』


 知りすぎた文明は消される。それは罰ではなく、意志でもなく、この世界に組み込まれた構造だ。抗う術はある。だが、その術もまた術者を削り取っていく。


 指が、最後の頁を開く。


『——追記——


この文面を碑石より写し取り、ここに「追記」を加えた者は、輪法の術者である。私の名はエルナンド——輪法の果てに得た仮初の札。


私は千年を生きるよりも前、カルディア王家に復讐を果たした。王都は灰燼に帰した。なぜ復讐を為したのか、その理由すら今は憶えていない。ただ何かを奪われた——それが何であったかさえ遠い。


その千年を生き、果てに輪へと潜った。かつて我が魂がその始源において帯びた真の名を、私は永劫に口にしていない。いや、もはや一音節すら憶えてはいない。公理に従い、私という輪郭は悠久のうちに薄れ、内なる「誰か」はかくも静かに拡散して——今はただ灰のごとくにある。


誰を救おうとしていたのか。すべては遠い。永き夜を越え幾つもの輪を渡り、そのことごとくを置き忘れてきた。救おうとした相手の名も顔も声も、とうに失せた。私が味わった最大の空白は百八十年——碑石が「無に帰る」と記す域には届かなかったが、その長き漂いの中で私は輪根に触れ、第六階梯魔法「遅延の理」を会得した。遅延を得たその随伴として、拡散は深く、孤独は骨の髄まで沁みた。


しかし——これだけは、うっすらと、しかし何よりも確かに消え残っている。


誰かを、救おうとしていた。


この一事だけは、灼き尽くされてもなお消えない。


だが——公理は変えられない。公理には逆らえない。公理は覆らない。


この身を灼き、名を失い、幾つもの輪を渡り、すべてを賭してもなお、公理は一片の揺らぎも見せない。


その動かざる真実の前で、救おうとしたというこの想いすら、あまりに無力であった。


これこそが——私に課せられた、神罰である。


私はこの文面を碑石より写し取ることで公理を後世に伝えようとした。しかし碑石を読める者がすでに退行の渦中にあるならば、この写しを読みうる者もまた等しく退行の渦中にある。公理を知ることは公理に縛られることに等しい。


すなわち——この文面を読んでいる者よ。其方もまた、すでにして退行の内側にいるのだ』


 最後の一片が、静かにはまった。


 マグナルだ。碑石を読み、これを写し、追記を遺した者。神法の亜神として千年を生き、輪法へと潜り、エルナンドへと転生した。名を失い、それでもただ一つだけ——誰かを救おうとしていたという想いを、灰の底に抱えたまま。


 頁を閉じようとした、そのとき。


「読めるんですか?」


 ザイードの声が、背後から静かに落ちた。タクミは顔を上げず、かぶりを振る。


「……いや。これはただの、教会の古い教典だ」


 声は、自分でも驚くほど平坦だった。ザイードが小さく息を呑む気配がして、「そうですか」とだけ返ってくる。


 読めてしまった。

 意味として受け取ってしまった。

 それだけで、退行の条件は満たされるのか。


 ——分からない。


 分からないものに、思考を費やしても仕方がない。


 退行の理は変わらない。公理も揺らがない。


 ならば今は、考えるのをやめる。


 なるようにしか、ならない。


 閉じた本を、そっと脇に置く。


 炉の残り火が揺れた。


 壁に影が長く伸びている。


 潮騒が、遠くで途切れずに続いていた。


 夜はまだ深い。


 誰も口を開かない。


 ただ、頁を繰る音の記憶だけが、残っていた。



 砂漠転生をお読みいただきありがとうございます。


 第79話 「絶対公理の書②」でした。


 知りすぎた者から順に消されてゆく。

 それでも人は深みへと潜り続ける。

 誰かを救おうとした記憶だけが灰に残り、

 炉の火がかそけく壁に影を落とす。

 

 次回、第80話「遺物と理屈と営業力」


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リシェルとガウル
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