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クリスマスイブの逃亡者

作者: 雨音トキ
掲載日:2026/02/14

 試用期間の最終日が、よりによってクリスマスイブだった。


 私——藤崎千絵は、聖マリア総合病院の新人看護師として、三ヶ月間必死に働いてきた。明日、正式採用の通知が来るはずだった。


 でも、すべてが崩れ去ったのは、午後十時のことだった。


「藤崎さん、307号室の田所議員に、この睡眠薬を投与してください」


 婦長の指示で、私は注射器を受け取った。田所議員は、来月の選挙を控えた重要人物だった。過労で入院し、VIP病棟で療養している。


 病室に入ると、議員は穏やかに微笑んだ。


「ああ、君か。いつもありがとう」


「注射、失礼します」


 点滴に薬剤を注入した。議員は「おやすみ」と言って目を閉じた。


 それから十分後、病室から緊急コールが鳴り響いた。


 私が駆けつけると、議員は痙攣を起こして泡を吹いていた。医師が飛んできて、必死の救命処置が始まった。


「何があった!」


 婦長が詰め寄ってきた。


「分かりません。指示通りに睡眠薬を……」


「睡眠薬? 私はそんな指示を出していない!」


 婦長の顔が青ざめた。


「使用済みの注射器を見せなさい!」


 検査の結果、その注射器には睡眠薬ではなく、大量のカリウム製剤が入っていたことが判明した。心臓に致命的なダメージを与える薬物だった。


「これは……殺人未遂です」


 警備主任が、鋭い目で私を見た。


「藤崎さん、事情を聞かせてもらいます」


 私は必死に弁解した。婦長から受け取った注射器を、指示通り使っただけだと。


 でも、婦長は言った。


「私はそんな注射器を渡していません。藤崎さんが勝手に薬剤室から持ち出したのでは?」


 監視カメラの映像が確認された。


 そこには、私が薬剤室に入り、何かを持ち出す姿が映っていた。


「これは……でも、私は婦長に頼まれて……」


「嘘をつかないでください」


 婦長の目は冷たかった。


 試用期間中の新人。何のコネもない、田舎から出てきた若い女。誰も私を信じなかった。


「警察を呼びます」


 警備主任が無線機を手に取った。


 その瞬間、私は走り出していた。


 病院の廊下を全力で走った。背後から「待て!」という叫び声が響く。


 非常階段を駆け上がり、屋上へ。


 クリスマスのイルミネーションが、屋上庭園を飾っていた。でも、それを楽しむ余裕はなかった。


 屋上のドアが開き、警備員が飛び出してきた。


 私は屋上の端まで追い詰められた。柵の向こうは、隣接するオフィスビルまで約三メートルの隙間。その下は、十五階分の高さ。


「観念しろ!」


 警備員が近づいてくる。


 私は柵を乗り越え、必死の思いで隣のビルの屋上へ跳んだ。


 着地した瞬間、膝が崩れそうになったが、何とか耐えた。


 オフィスビルは休日で無人だった。非常階段を駆け下りる。


 でも、下からも警備員が上がってくる気配がした。病院から連絡が入ったのだろう。


 八階で立ち止まった。窓の外を見ると、病院の屋上にヘリコプターが着陸するのが見えた。警察のヘリだった。


 上からも下からも追い詰められている。


 どうする?


 その時、私はあることに気づいた。


 病院から持ち出した、使用済みの注射器。まだポケットに入っている。


 そして、婦長の態度。あまりにも用意周到だった。まるで、最初から私に罪を着せるつもりだったように。


 なぜ?


 私が薬剤室に入る映像があるなら、婦長が私に注射器を渡す映像もあるはずだ。でも、それは提示されなかった。


 ということは——映像が編集されている?


 監視カメラのデータは、病院のサーバーに保存されている。そのサーバー室は、この隣のビルの三階にある。病院とビルは地下で繋がっていて、データセンターを共有しているのだ。


 私は三階へ向かった。


 サーバー室の扉は、職員用のIDカードでしか開かない。でも、クリスマスイブの夜、清掃員が入ったばかりなのか、扉が少し開いていた。


 中に滑り込んだ。


 無数のサーバーが並ぶ部屋。その奥に、監視カメラのシステムがあった。


 私は看護師だが、高校時代は情報処理部だった。基本的な操作なら分かる。


 ログインして、今日の映像を探した。


 そして、見つけた。


 編集前の、オリジナルの映像。


 そこには、はっきりと映っていた。婦長が薬剤室から注射器を持ち出し、私に渡す場面が。


 そして、その後——婦長が監視室に入り、映像を編集している場面まで。


 なぜ、婦長は私に罪を着せようとしたのか?


 さらに調べると、別のファイルが見つかった。


 田所議員の医療記録。そして、病院が過去に行っていた診療報酬の不正請求の証拠。田所議員は厚生労働委員会の委員で、その調査に入ろうとしていた。


 つまり——病院の上層部が、議員を口封じしようとした。そして、試用期間中の私を、完璧なスケープゴートに選んだ。


 データをUSBメモリにコピーした。これが、私の無実を証明する唯一の証拠だ。


 その時、背後でドアが開く音がした。


「そこまでだ、藤崎さん」


 振り返ると、院長と婦長が立っていた。そして、その後ろに警備員たち。


「その証拠を渡してもらおう」


 院長の目は、冷酷だった。


「なぜ、こんなことを……」


 私は問いかけた。


「議員が調査を始めたら、病院は終わりだった。数十億の不正請求がバレる。だから、止めるしかなかった」


 院長は、まるで当然のことのように言った。


「そして、君は完璧な犯人だった。試用期間中で、誰も君を知らない。君が消えても、誰も疑わない」


「消える……って……」


「ここから飛び降りれば、君の『自殺』で事件は終わる。ちょうどいいじゃないか」


 警備員たちが、じりじりと近づいてくる。


 私は窓の方へ後ずさった。


 窓の外は、ビルの裏側。そこには深い崖があった。下を見ると、百メートル以上の断崖絶壁。


 追い詰められた。


 でも——諦めない。


 私はUSBメモリを握りしめ、窓を開けた。


「何をする気だ!」


 院長が叫んだ。


「証拠は、ここにあります」


 私はUSBメモリを掲げた。


「でも、このデータは30分前に、クラウドにアップロードしました。監視カメラの映像、不正請求の記録、田所議員暗殺計画のメール、すべてです」


 院長の顔色が変わった。


「そして、タイマーを設定しました。一時間以内に私がログインして解除しなければ、自動的に警察、検察、そして全国のマスコミに一斉送信されます」


「……お前、まさか」


「あと15分です。私を殺せば、証拠は永遠に消せません。全国に拡散されます。でも、私を生かして警察に引き渡せば、私が送信を止めます。そして、あなたたちは逮捕される。どちらを選びますか?」


 ブラフだった。本当にクラウドにアップロードなどしていない。でも、彼らにはそれが分からない。サーバー室にいた時間は十分あった。技術的には可能だと、院長は考えるはずだ。


 院長の額に、汗が浮かんだ。


 その時、窓の外からヘリコプターの音が近づいてきた。


 警察のヘリが、建物に接近している。


「こちら警察だ。藤崎千絵、投降しなさい」


 スピーカーから声が響いた。


 私は、ヘリに向かって叫んだ。


「私は無実です! 証拠があります! 病院の院長と婦長が、田所議員を殺そうとしました! 監視カメラの映像を編集して、私に罪を着せたんです!」


 USBメモリを掲げた。


「この中に、すべての証拠があります!」


 ヘリの中から、誰かが双眼鏡でこちらを見ている。


 そして、院長たちの方へカメラが向けられた。


「今、院長たちが私を殺そうとしています! 助けてください!」


 院長の顔が真っ青になった。


「待て、これは誤解だ……」


 でも、もう遅かった。


 ヘリから無線が入り、警備員たちが院長と婦長を取り押さえた。


 一時間後、私は警察署にいた。


 USBメモリのデータを検証した結果、すべての真実が明らかになった。


 病院の不正請求。議員暗殺未遂の計画。監視カメラ映像の改ざん。すべてが証拠として揃った。


 田所議員は一命を取り留め、私に感謝の言葉を述べた。


「君がいなければ、私は殺されていた。そして、病院の犯罪も闇に葬られていた」


 院長と婦長は逮捕された。


 そして、私には——


「藤崎さん、本当に申し訳ありませんでした」


 病院の理事長が、深々と頭を下げた。


「正式採用どころか、特別昇進を用意させていただきます。そして、内部告発者保護プログラムの適用も」


 議員も付け加えた。


「君の勇気ある行動を、私は国会で証言する。そして、医療機関の不正を正す法案を提出する」


 クリスマスの朝。


 私は病院の屋上にいた。


 昨夜、必死で跳び越えたあの隙間を、今は穏やかな気持ちで見つめている。


 試用期間の新人看護師。誰にも信じてもらえない、最下層からのスタートだった。


 でも、真実を諦めなかった。知恵を使い、証拠を見つけ、最後まで戦った。


 そして、勝った。


 屋上のクリスマスツリーが、朝日を受けて輝いている。


 下では、新しい院長のもとで、病院の改革が始まろうとしている。


 私は深呼吸をした。


 メリークリスマス。


 新しい人生の、始まりの朝。


 ヘリコプターが、青空を横切っていく。


 昨夜は敵だったあの機械が、今は希望の象徴に見えた。


 私はポケットから、あのUSBメモリを取り出した。


 小さな、小さなメモリ。


 でも、これが巨大な組織を倒し、真実を明らかにした。


 力ではなく、知恵。


 それが、弱い者の武器。


 そして、それは確かに、有効だった。


 病院の窓から、患者たちの笑顔が見える。


 私は、再び看護師として、ここで働く。


 でも、もう誰も私を「試用期間の新人」とは呼ばない。


 私は、「真実を暴いた英雄」として、新しいスタートを切る。


 クリスマスの奇跡。


 それは、サンタクロースではなく、自分自身で掴むものだと、私は学んだ。


 崖っぷちに立たされても。


 逃亡者として追われても。


 真実は、必ず勝つ。


 そう信じて、戦い続ければ。


 空が、どこまでも青い。


 新しい人生が、始まる。


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