嘘という概念が存在しない世界で俺だけが嘘をつけたら
――――この物語はフィクションである。
この世界で意識的に吐かれた原初の『ウソ』は『ちゆりのおっぱいを見れば、俺の痛みは治る』という筆舌に尽くし難いほど、くだらないものだった。
というのも何を隠そう、そんな事実とは異なることを口にしたのは俺こと藤田霞である。
全ての始まりは思春期の入り口。まだ俺が、小学五年生だった頃の話だ。
休み時間のドッジボールをしている最中に190センチ・80キロオーバーという規格外の同級生から放たれた剛速球の直撃を顔面に受けた俺は、何気なくこう言ったのである。
『死ぬほど痛い……』
すると周囲の友人たちは途端に慌ただしくなり、ドッジボールどころの騒ぎではなくなった。
この一件の後で俺が勝手に命名した概念だが『ヒユ』がこの世界には存在しておらず、つまり『死ぬほど痛い』は自動的に「この痛みで死ぬ」という断定系にすり替わってしまうのだ。
そうして病院へ緊急搬送され、高度な精密検査を受け、特に異常が見られなかった俺は担当医から深刻な表情でこう告げられた。
「本人が死ぬ痛みだと言っている以上、現代の医療では手の施しようがありません……」
それを聞いた家族は大号泣し、父も母も姉も俺を優しく抱きしめてくれた。
この時、俺は『死ぬほど痛い』という自分が言った事実すら忘れて不安になり、後どれくらい生きていられるのだろうという絶望で胸がいっぱいになって泣き崩れたのをよく覚えている。
そう、俺にはまだ『ヒユ』という『ウソ』を吐いた自覚が持てなかった。
だからこそ幼馴染のちゆりが病室にお見舞いに来てくれて、悲しんでくれて、泣いてくれた時。心から思ったのだ。
俺は、彼女に好きだって伝えられもせずにこのまま死ぬのだろうか、と。
(い、いやだ……っ! まだ死にたくない! ち、ちゆりのおっぱいも見たい!)
二つの願望が混ざり合った心で俺は、普段ならば絶対に言うはずのない……というよりも、言おうとすら考えられない言葉を口にしたのだ。
『ち、ちゆりのおっぱいを見れば……お、俺の痛みは治るっ!』
瞬間。誰もが言葉を失い、お互いを見合っていた。
肌がひりつくような空気が病室に漂う。
当たり前だろう。そんなことは常識で考えてあり得るはずがないのだから。だが――
「な、なんてことだ……! こ、こうしちゃいられない! ちゆりっ、早く脱ぎなさい!」
「う、うん……っ」
「し、下着のままじゃダメなのよね? 霞くん」
『は、はい……っ!』
彼女のパパとママは躊躇いなく娘を脱がさせ、ちゆり本人も自らの意志で状況を完全に受け入れていた。
瞳は真剣そのものであり、必死な想いが俺にちゃんと伝わってくる。
やがて子供っぽい下着がしゅるりと床に舞い、可愛らしい桜色が俺の眼前に露わになった。
「ど、どう? 治った……?」
『さ、触った方が効果あるのかもしれない』
「……こ、これでいい?」
ちゆりが大人たちの前で俺の手を取り、自分の胸へと運ぶ。
手のひらからはちゆりの熱と鼓動が直に感じられた。
俺は反射的に揉み、その柔らかさに感動を覚えながら雄たけびをあげる。
『あ、あぁ……あぁっ! な、治った……治ったぁああっ!!』
「よ、よがったぁ˝……よがったよぉ˝、かーぐん˝……っ!」
俺とちゆりは涙を流しながら抱き合った。
その様子を見ていた大人たちも感極まってはいても、誰一人として決して俺を『ウタガウ』ことはしない。
これも当然のことだ。『ウソ』がないのであれば『ウタガウ』者などいるはずもなかった。
「奇跡だ……長年医者をやってきたが、私はかつてこんな奇跡を見たことがない……」
「ありがとう……ありがとうっ、本当に、ありがとうねぇえ……ちゆりちゃん……」
「う、ぅう……う、うっ」
担当医は感激し、母と姉はその場で泣き崩れ、父は黙って目頭を押さえている。
ちゆりのパパとママも、我が子が人の命を救ったことに打ち震えているようだった。
まぁ、何はともあれこうして俺は、小五の夏。たぶん人類史上初となる『ウソ』の概念を手に入れたのだ。
*
あの日から三年。中学二年となった俺の人生は激変していた。
そりゃそうだよな、誰も俺が正しいことを言っていないなんて考えすらしないのだから。
むしろ俺の言ったことが『正しいこと』になるんだからもう、止められるわけがなかった。
学校で遅刻を咎められれば『拾った財布を交番へ届けていた』と言い、やっていない宿題も『やったけど家に忘れた』と言えば問題なし。
買い物も『お金は払いましたよ』と言えば機械の故障ということになって、手ぶらでも何とかなる。
お互い嫌っているクラスメイトには『いきなり後ろから殴られて骨折した』と担任に伝えて、保護者同伴で謝らせたりもした。
あとはまぁ、男ならば一度は思ってしまうようなことも大抵やった。
例えば『女湯に入らないと死ぬ』だとか『俺に触られると健康にいい』だとか。
しかも『○○ちゃんは俺が好き』と本人に向かって言えば、その子は「そうだったんだ!」と驚いて俺を好きになるものだから大人な関係になるのも簡単だ。
「初めまして。こんにちは」
「こ、こんにちは?」
学校帰りの放課後。ひとり街中をぶらついていた俺はすれ違った女性に気安く声をかける。
向こうは明らかに驚いており、足を止めて返事もくれたのは優しいとしか言いようがない。
『俺、この前あなたに二万貸したんだけど今返してもらえます?』
「え? そ、そうだったの。ごめんなさい、返すね」
女性は鞄から財布を取り出すと、素直にお金を渡してくれた。
俺は「ありがとう、お姉さん」と告げて名前も知らない彼女と別れる。
ぶっちゃけ金はなくてもいいのだが、たまにはウソではないことに触れないと『ウソであること』が俺の中で、まるで元々そうだったかのように感じられてくるため必要なことだった。
(だからって現地調達する必要もないけどな。ま、誰か傷ついてるわけじゃないし、別にいいだろ)
そんなことを内心でひとりごちていれば、前方から甲高い悲鳴が響いてくる。
「きゃああっ! 誰かっ、お願い誰かその人を捕まえてぇーっ!」
どうやら引ったくりらしい。古臭いバッグを抱えた中年が走ってきていた。
自慢じゃないが、俺は身体的にはひ弱な方だ。生まれてこの方、筋トレなんて体育の授業以外でやったことがないし、運動にもまるで取り組んできていない。
だが、そんなことは最早。俺にとっては些細な欠点に過ぎないだろう。
「おら邪魔だ邪魔だッ、どけ! 死にたくなければなぁっ!」
中年男はナイフを振り回し、周囲の人間を捌けさせている。
たかが老婆のバッグ一つでここまでするのだから、ある意味で感心せざるを得ない。
「どけやぁ、このガキがぁ!」
『おじさん。そのナイフ、百均の玩具だよ』
「そうなのかっ!? チッ、使えねぇ!」
舌打ちをしながらおじさんはナイフを道端に勢いよく投げ捨てる。
『おじさん、おじさんの周りに透明な落とし穴が!』
「なにっ!?」
おじさんが足を止め、あたふたと困った様子で俺を見ていた。
もちろんそこには何もないが、『ウタガウ』を知らないおじさんにとってはさぞ絶望的な状況だろう。
「おじさん、周りに落とし穴なんてないよ」
「ないのかっ!?」
驚いたおじさんは走り出そうとするが、もう遅い。
元から追いかけてきていた人たちが後ろから跳びつき、おじさんは程なくして逮捕となった。
あとこれは俺に『ウソ』があるから気付けるのだが、この盗みという行為は実に可笑しい。
結局のところ犯人は俺のように『事実ではないこと』を言えない以上、どんなに物を盗もうとも誰かに「盗んだ?」と訊ねられたが最後。
必ず「はい、盗みました」と答えるのだから笑い話にもほどがあるだろう。
ひとり苦笑し、俺はふと目にとまった商業ビルを目指す。
しかし今日は不運なのか、立て続けに事件と出くわすことになった。
「――どうか早まらないでー! そんなことをしたら親御さんもお友達もきっと悲しむわよー!」
商業ビルの屋上。地上から百メートル近くあるフェンスの反対側にいる少女へ向け、正義感が強そうな顔立ちのおばさんが無神経な声を掛ける。
案の定。儚げな少女は激情を露わにし、涙を浮かべながら叫んだ。
「悲しむような親がいるなら、友達がいるなら、彼氏がいるなら! 死のうだなんて思うわけないじゃないっ! もう私のことなんか放っておいてよ、勝手に決心して勝手に死ぬからっ!」
まぁ、だろうなという感じだった。
人の事情を慮る能力が低いらしいおばさんは、彼女の反論に面食らって言葉を失っている。
他の野次馬たちもどうしたものかと互いを見合いながら慌てふためいていた。
(男だったら放って置いてるかもだけど、女子高生だしな……死ぬにはまだ早ぇだろ)
俺は野次馬の群れから一歩飛び出す。
すると彼女は、金切り声で「来ないで!」と言った。
『怖がらなくていい! 君が知らない君のことを、俺が教えてやる!』
「私が知らない、私のこと……?」
『あぁ、そうだ! いつかは分からないけれど、生きていれば君には必ず良いことがある』
「そうなのっ?!」
薄幸少女は目をギラギラに輝かせ、それこそ自殺しようとしていたのが『ウソ』のようにフェンスの網目を握っていた。思った通りの反応で助かる。
「いつか家族が優しくしてくれる? 大切なお友達もできる?」
『彼氏もいいぞ!』
見知らぬ少女の顔に笑顔がどんどん咲いていった。楽しい未来でも思い描いているのだろうな。
決めた。こういうの、今度から『優しいウソ』って呼ぶことにしよう。
『何故そんなことを知っているかはどうしても説明できないんだ……「どう、まだ死にたい?」』
「ううん。生きたい!」
なら良かった。応えた彼女はフェンスをよじ登り、こっち側へと戻ってくる。
そして転がるように駆け出すと、俺を力いっぱい抱き締めて疑問を口にした。
「ねぇ。あなたが私の彼氏になってくれる人なんじゃないっ?」
「い、いや俺ではないけど(正直、タイプの顔ではないしな)……『自殺を止めてくれたお礼にキスをすればもっと幸せな気持ちになれるよ』」
「やった」
――ちゅっ。
和らい唇が俺の口を塞いだ。今さら特別なことを感じたりはしないけど、感謝されて嬉しくない人間もそうはいないだろう。
一応、命の恩人ってカテゴリーなわけだし。これくらいの役得はあっても許されるはずだ。
「色々と教えてくれてありがとね。またどこかで会えたら嬉しいな、ばいばい!」
そう言って彼女は、保証された(されてない)未来の幸せに向かって走り去っていった。
*
翌日。
満足というほどではないがそれなりに充実していた前日と比べ、今日の出来事は俺の人生において最も最低な一日の一つだと言わざるを得なかった。
「――ごめんなさい。霞くん、私……今、零士と付き合ってるんだ……」
「ぱへ?」
俺は意を決し、隣同士の家からすぐ近所の公園にちゆり呼び出して告白した。
気持ちを伝えたのだ。
しかしその結果はすでに彼氏がいるという、ウソみたいに衝撃的な返答だった。
(れ、零士……? な、なんでよりによって零士なんだよ……?)
零士は俺たちのもう一人の幼馴染で、昔からよく一緒に遊んでいたヤツだ。
まぁ……最近はそうでもなかったけど……それこそ、ちゆりが俺を「かーくん」って呼ばなくなった頃から何となく疎遠になっていった気がする。
(そっか。ちゆりがいつからか「霞くん」って呼ぶようになったのは、そういうことだったんだな……)
こんな俺でもちゆりに『ウソらしいウソ』を吐いたのは、病室でのことが最初で最後だった。
ちゆり以外の女子や女性にはまぁ……色々と経験させてもらったけど、それも全部ちゆりと上手くやっていくための予行練習のつもりだったからちっとも本気なんかじゃなかった。
そういうところがダメだったんだろうな、と今さら理解してももう遅いのだろう。
「傷つけちゃうと思って言わなかったの……黙っててごめんね。私も……昔はかーくんのことが好きだったんだよ。でも……今は、好きじゃない」
この世界に『ウソ』の概念は存在していない。
そもそも黙っていること自体は『ウソ』でも何でもないのだ。
もしもちゆりに「俺が好きかどうか」を聞いていたら、たぶん「傷つけるから言いたくない」と答えたはずだろう。
だから彼女の言葉はマギレモなくホンシンだと理解る。理解ってしまう。
「ウソ……だったりしないんだよな」
「……言ってる意味が分からないよ」
息苦しい静寂が二人きりの公園を包み込んでいく。
俺の胸は今すぐにでも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。それこそ自殺したいくらいだ。
「気持ちはすごく嬉しい……けど、ごめんね」
「あっ……」
やがてちゆりはそれだけ言うと、俺に背を向けて歩き出す。
見送ったらもうこれっきりだという確信があって、俺は咄嗟に呼び止めていた。
『ち、違う。間違ってる! 間違ってるだろ、ちゆり。何もかも……っ! ち、ちゆりは今も俺のことが大好きだし、零士のことは……あいつのことは、嫌いなんだよ。それに俺と付き合った方が、ちゆりは幸せになれるって決まってるんだ』
「わ、私はまだ……かーくんのことが好き、なの?」
『だから零士は……あんなヤツはもうこっぴどく振って乗り換えるって前に言ってただろ。お、俺と一緒に幸せになろうって約束したんだよちゆりは!』
「……そう、なんだ。うん、分かった。私、かーくんのこと大好きなんだねっ! うん、ちょっと待ってて。今、零士に電話して別れてくるからっ」
ちゆりが無邪気に笑い、零士との通話を始めた。
直前までのやり取りなど、まるで存在していなかったかのように。
その微笑みが苦しくて、痛くて。なのにそれを手放したくないと思っている俺がいる。
やっぱり俺は、どうしようもないほどに……ウソイツワリなく最低のクソ野郎だった。
*
高校一年の冬。ちゆりと付き合い始めてそろそろ三年が経とうかという頃になると、俺の頭の中から零士という人間は最初からいなかったことになっていた。
もう顔も見たくなかったから零士の父親の仕事先にまで出向き、いくつかウソをつくことで転勤させ、一家丸ごと引っ越しをさせることに成功したからだ。
そんなことよりも、この時。俺には……いや、俺たち家族には大事なことが起こっていた。
「う、ぅう……うぅ」
「…………」
「そんな、わたしより泣かないでよママ……」
病室のベッドに力なく横たわる姉が、信じられないほどにか細い声でそう囁いた。
そう、姉が事故に遭ったのである。飲酒運転の居眠りトラックによる追突事故だ。
すでに結婚して子供もいたが、旦那さんと子供は即死だったと聞かされた。
姉も一時は完全に意識不明の重体で、今は奇跡的に意識が回復しているものの、体内器官の損傷があまりにも酷いらしく。術中に死ぬ可能性が高いため、それなら、と姉は家族との会話を選んだのである。
「…………」
すすり泣く母と父を前に、俺は何を言えばいいのか分からなくなった。
どれだけ『ウソ』を積み重ねようとも、現実の前には無力だということを痛感させられる。
たとえ『治った』と言ったところで状況を混乱させるだけで何の意味もない。
「……なんて、顔してんのよ。霞」
「姉ちゃん……」
姉は優しく微笑んでいた。もうすぐ死ぬかもしれないのに。死んだら何もなくなるのに――
(本当に……本当に、そうなのか? 死んだら何もなくなって……それで、おしまいなのか?)
いや……そうだ、そうだよ! 俺には『ウソ』がある、『ウソ』しかない!
世界中で俺だけがしてあげられることが、たった一つだけある。
人生の最期が……せめて穏やかに終われるように。俺は、俺のできることをしなければいけないんだ。
「姉ちゃん、今……怖い?」
「ばかね……怖いに決まってるでしょ。でも、いつか死ぬんだもの……それが今日なだけ」
姉の残っている方の手は震えていた。無神経な問いかけに両親も言葉を失っている。
けど気にせず俺はそっと手を取り、瞳を逸らさずに話し始める。
『ううん、姉ちゃん。怖がる必要なんてないんだよ。空のずっとずっと上の方にはさ……死んだひとの行く場所があって、一生懸命頑張って生きてきたひとは死んだらそこへ行くだけなんだ……』
「空の、上……」
『そう、空の上。そこはさ、辛いことなんて何ひとつない誰もが幸福にいられる場所……国があるんだ』
「また、皆で一緒に暮らせる……?」
『もちろん。今頃、二人とも一足先について姉ちゃんが来るのを待ってるよ。だから姉ちゃんはいつもみたいに笑って、ただいまって言うだけでいいんだ』
「あぁ……あぁっ」
俺の言葉を聞いて、姉は先程までの緊張がウソのように安堵の涙を流す。
『あとはそうだな……父さんや母さん、俺がいつか来るのを家族三人でのんびり楽しく過ごしながら待っててよ。空の上に行ったら直接話すことはできないからさ。その時が来たら、お互い過ごした何十年分の思い出話を皆でしよう。きっと楽しいよ』
「うん。うん……そうね……それはぜっ、たい……たの、し――――……」
その直後。姉は最後まで言い切ることなく、安らかに息を引き取った。
力が抜けきった手のひらを強く握りしめると、胸の奥からこみ上げてくる熱が頬を伝うのを感じる。
姉はちゃんと苦しまずに逝けたのだろうか……いや、逝けたと思いたい。そう思わずにはいられなかった。
「霞……あ、あの子はちゃんと空の上にある国についたの……?」
『あぁ……うん、ついたと思う』
「もう辛い思いはしてないのか。笑ってるか?」
『心配いらないよ、父さん』
両親もホッとしたのか、家族が死んだにしては少し落ち着いた様子だった。
俺の『空の上の国』というウソは、少なくとも二人の悲しみを減らすことはできたのだろう。
けど、人類が知らないだけで空の国の存在はウソなんかじゃないかもしれない。
それは死ぬまで俺にも、誰にも分からないことだ。
「――――なぁ、君。ふ、不謹慎なのは承知している。け、けど今の話……も、もう少し詳しく聞かせてはくれないか」
声に呼ばれて振り返ると、そこには医師や看護師だけでなく他の病室の患者たちまでもが『俺のウソ』に目を丸くしている姿があった。
そうしてこの日から、俺の『ウソにウソを塗り重ねる日々』は始まったのである。
*
「ウソだろ……」
姉の死から数日後。久し振りに高校へ登校すると、そこには尋常ではない数のひとだかりがあった。
一瞬、高校で殺人事件でも起きたのかと思ったが、どうやら俺を待っていたらしい。
俺を見つけた途端、大勢のマスメディアと野次馬たちが荒波のように押し寄せてくる。
けれど、口にする言葉は皆同じだ。
「藤田霞くん――死後の世界について何か知っていることがあるのなら、教えてください!」
今さらそんなものはないなんて言えるはずもなかった。
ないということを知れば、母や父は間違いなく悲しむ。
そもそもの話。死後の世界が幸福だとして、果たして誰か損をするのだろうか。
俺は校長や教職員、友達とちゆりの勧めもあって、校庭で話す場を設けてもらうことにした。
『――空には……いえ、天には国が存在しており、死後。人間はそこへ至ります』
「衛星写真ではそのようなものが映ったという報告は見られませんが!」
『テンゴクは人の目に見えるものではありません。メガミがそういう仕掛けを施しているからです』
集まった人々は口々に「メガミ、メガミ?」とお互いを見合っている。
当然の反応だ。なにせこれらは姉が死んでから、何となく考えていた『設定』なのだから。
『メガミはこの宇宙を創造した女性です』
その一言で聴衆のざわめきはより一層、激しくなってゆく。
『彼女はある日、私に言いました。人の子よ、汝らは善を行ないなさい。さらば死後、ラクエンへと至るであろうと! ラクエンとはテンゴクを言い換えたもので、同じ場所を指しているそうです』
「ゼン? ゼンとは一体っ!」
『より良い行いのことです。主には自己中心的ではない、他者への献身を意味するとメガミは仰っておりました』
この『ウソ』は今も死にゆく誰かの救いとなるはずだと、俺は確信していた。
それでも今日一日で考えたこと全てを話し切るのは困難なうえ、十分な精査を行ってはいないためどこかで致命的な矛盾が生じている可能性もある。
よって程々のところで切り上げるのが、今は得策であると考えられた。
この一時間後。世界を震撼させる爆心地のど真ん中で、俺は堂々と『メガミよりシンタクが下った、この時はひとりでないと彼女の機嫌を損ねてしまう』と言い張り、状況を乗り切ったのだった。
*
高校の校庭で俺が『死後の世界』について話をしてから五年。
俺の生活だけでなく世界も大きな変革の只中にあった。
いくつかあるが、最も影響を及ぼしているのは『死後の世界は何不自由なく暮らせる』という言葉を信じた結果。自殺者が爆増したことだろう。
生きづらさを抱えてる大人はともかく。小学生までもが気軽に飛び下り始めたと聞いた当時は、俺も気が気ではなかった
「俺が言い始めたことだ……俺が、責任を取らねぇと」
まず俺が必要だと考えたのは、そういう社会的弱者を一か所に集める動機と場所を用意することだ。
政治家や資産家を『ダマシテ』資金と土地を確保してもよかったが、同じ『ウソ』ならばもっと良心的な方がいいと思い、シンプルに募金を募ることにした。
もちろん、ただの募金ではない。
五万円を募金する毎に『一ヶ月間、運が良くなる赤い羽根』がもらえる募金である。
予想通り『ウタガウ』ことを知らない人々はこぞって募金をするようになり、俺は世界中からかき集めたその莫大な資金を使い、正攻法(?)で人を雇い、土地を買って、世界各地に施設を作り上げた。
――その名を『空のメガミシンコウ』
この世界唯一にして、全人類が信じる『シュウキョウ』である。
「今月の入所希望は3000人か……一時期よりマシだが、まだ多い」
俺は今『メガミの使い』として、『メガミキョウ』の『キョウソ』として施設運営に奔走……と言ってもやっていることはただの『ウソつき』なのだが、毎日を忙しく過ごしていた。
死にたくなるほど不幸だと感じている人間だけを『ここで暮らせば幸せに近づく』という甘言で集め、共同生活をさせる。
多くの弱者というものは、大なり小なり社会で形成されるコミュニティから弾き出された存在のため、弱者だけの空間を過ごせば少なくとも居心地の良さは与えることができる。
とはいえ数がある以上、その中でもさらに優劣が生まれるのも必然だ。
今度は弱者の中の弱者を集め、居住スペースを分断する。後はその繰り返しだった。
その上でグループごとの優劣をつけ始めないよう、『セイショ』の教えで縛ることによって誰もが不満を漏らさないような空間を日々心掛けているのである。
――『汝の隣人を愛せよ。さらば空への階開かれん』という具合だ。
何というか、俺には適性があったのだろう。
こういう『作り話』……海外向けに言うと『フィクション』に出てくる造語や設定を考えるのは、それなりに楽しいものだった。
秩序と自由は正反対の意味合いを持ちながら、双方共に一定の規律の上でしか成り立つものではない。
まぁ、あとぶっちゃけ皆が俺のことを霞様と呼んで『アガメ、タテマツル』のが気持ちよかった。
ちゆりとも結婚し、今は妊娠三ヶ月といったところ。小学生並みの感想だが、すごく幸せだった。
そう、幸せだったのだ――――この一年後。あいつが俺の前に現れるまでは。
「霞様、どうか。哀れなわたくしめをお救いください……どうか、どうか……」
「……………………」
俺の目の前で縋りつくように懇願しているのは、ひどくやせ細った自殺志願者のひとりだ。
入所したてでまだ精神が不安定な時期の『シンジャ』によく見られる光景。
だから別に、特別気にするようなことではないはずだった。
その男のプロフィールが記された調書を確認するまでは。
「お前……零士か?」
「は、はい……覚えていてくださいましたか。昔、霞様と同じ時間を過ごしたこともあります」
幼馴染の零士。ちゆりの元々の彼氏。俺が『ウソ』で遠くに追いやった、友達だった同級生。
零士の妙にお気持ちが書かれた経歴に目を通すと、彼は過去。いきなりの転校と失恋のストレスで受験に失敗した後、両親が殺人事件に巻き込まれて私立の高校を中退しているようだった。
そこからはいくつもの職を短期間で転々とし、空白期間は鬱で療養していたらしい。
なんだかんだ、善行を積まないことを選択する人間もいるのである。
(キモチワルイ……)
調書に目を通し終えた時。「俺がウソを吐かなければ、彼はこんな風になっていなかったのではないか」という、単純かつ明快なウソイツワリない現実が俺を襲った。
ずっと目を逸らしてきた「俺のウソで確実に不幸となった人間」を初めて突き付けられ、失恋した時よりも、子供が生まれた時よりも遥かに取り乱し、嘔吐して――気を失ったのである。
そして、その日から徐々に俺はどんな些細なウソでも口にするのが苦痛になっていった。
*
「――霞の言ってる意味が分からないよ……う、ウソってなに?」
ある日。いきなり、これまでのウソについて聞かされたちゆりの反応は当然戸惑いだった。
断定や確定であるかのような言い回しをさけ、あくまで可能性やあくまで俺の気持ちという体裁で根気よく何度も繰り返したかたちである。
「事実じゃないってことなんだよ。あの時。別に零士と別れなくても君は幸せになれたと俺は思う」
「なんで? あの時と比べて私、今とっても幸せだよ。その、ウソ? とかそういうのじゃないよ。霞と付き合って得られた幸福もこの気持ちも、どっちも事実だよ」
ちゆりは胸を自信をもってそう答えてくれる。
その幸福は……絶対に零士のものだったというわけではかもしれないけれど、少なくとも俺が得られなかったであろうものだから。
彼女の真剣さが、俺にはあまりにも眩しくて。自分がどうしようもなくみじめな気持ちになった。
「だから痛いんだ、胸の奥が……すごく、すごく」
「む、胸が痛いの?」
彼女はためらうことなく着ていた服をめくり、胸を見せてくれた。
それは、俺が吐いた一番最初の『ウソ』。
けれど、彼女にとっては真実なのだからこうなるのも当然だ。
「ごめん。ごめんな、ちゆり。ごめんなさい……」
俺はもう、謝ることしかできなかった。
*
やがて三十の歳の超えた頃。
胸の中で積もり続けて肥大化したした罪悪感は限界を迎え、俺はひとりで全ての『ウソ』を吐きだす決意をした。全世界への同時中継である。
「私はウソをつきました。ウソとは、事実ではないことを事実であるかのように言うことです。メガミなど世界のどこにもいません、テンゴクも存在しません。人は死後、幸福にはなれないのです」
この告白に対する反響は想定上に大きなものであり、同時に現地のシンジャたちの反応も想像を絶するほどに異様であった。
「メガミはいない? テンゴクがない? 事実ではない……?」
「メガミはいるだろ。テンゴクもある。だってセイショにそう書いてある」
「それもそうか」
「メガミはいないと霞様は仰られた。メガミはこの世にいないのだ」
「メガミはいないのか?」
「いないのか」
始めのうちは確かに大半が絶望に打ちひしがれていた。
だが、しばらくするとあちこちから「俺のウソ」は事実だと主張する声が大きくなっていったのである。
俺自身、試していなかったこともあってこうなるとは思ってもみなかった。
――短時間のうちに、正反対の事実を何度も突き付ける。
これにより、人々の中で無自覚ながらも確かな変化が起こり始めてしまったのだ。
それを見た時、俺はこれはもはや収束できない事態なのだと悟った。
(俺のミスだ……ウソを認めるなら、これまでついてきた全てのウソについて。同時かつ一斉に事実ではないと伝える必要があったのだ)
けれど、考えるまでもなく分かる。そんなことは――
(現実的じゃない……)
最終的には俺の話を聞いている者と、他の者と話しながら「いる」「いない」という認識の間を行き来している者で分断されてしまった。
つまり、俺がどれだけ話そうとも誰か一人が「メガミはいる」などと言ってしまえばまたそれが事実になってしまう。全てが手遅れだった。あげく、
「――霞様はウソを吐いていらっしゃる」
そう、誰かが言った。
水面に放られた石は波紋となり、一気に広まっていった。
「そうだ、メガミはいる。テンゴクもある! 霞様はウソをついている!」
たちまち声は大きくなり、彼らは叫んだ。
「ウソつきを殺せ!」
「そうだ、殺すべきだ!」
「殺せ、殺せ、殺せ……っ!」
一度そうなってしまえばあっという間だった。
仮に俺の声が届く範囲で『俺はウソをついていない』と言ったところで、声が届かない人間は必ず存在してしまう。つまりどのみち、待っているのは確実な死。
俺は逃げも隠れもせず、現実を受け入れる。
(あぁ……ウソなんてものに出会わなければ……俺は)
そんな後悔が俺の想いであった。
女神教の教祖、藤田霞の死後。皮肉にもウソは一躍、爆発的な流行となった。
だが、ウソをつくことは死罪に当たる行為と彼が彼自身の死をもって証明したことにより、事前にウソだと伝えていない作り話は彼同様、極刑に処されるという一文が全世界各国の法律へと付け加えられたのがせめてもの救いだろう。
結果、それら全ての虚構から生まれた物語の書き出しはいつも同じ造語となっていった。
――――この物語はフィクションである、と。
ここまで読んで下さり、本当にありがとうございます。
(こんなに長くなる予定はなかったので、後半がだいぶダイジェスト気味なのは反省しています)
私利私欲で嘘をつき続けた人間がハッピーエンドを迎えていいかは疑問だったのでこういうオチになりました。
(読者の皆様に果たして望まれているかは諸説あり)
それとどうやら同じようなネタかつ似たような方向性のアメリカ映画がすでに存在していると、書き終えた後に何か被ってないかと調べて知り、私はがっかりしてしまいました。
まぁ、書いてしまったのでしぶしぶ投稿した次第です。
そんなわけで、よろしければ★★★★★やリアクションで応援して頂けると喜びます。
本作の他には現在、『無感の花嫁』という異世界恋愛ものと
『昔から何でも話してくれた幼馴染にある日突然「昨日、彼氏ができたんだよね」と言われ、クラスの女子に泣く泣く相談したら幼馴染の彼氏の幼馴染と付き合うことになった。』
という現代ラブコメをメインに書いていますので、よろしければぜひそちらも一読頂けると!
重ねてお礼申し上げます。ありがとうございました。