なな
「物語らしい面白さが足りん」
そうは言われましても、望夏先生、私の人生は物語というわけでもなく、何の変哲も無い、強いて言うなら無駄ばかり多い人生なわけです。
であればそれを書き綴ったってそりゃ勿論面白くはならんもんで。泥を丸めていくら綺麗にしたって、それは潰して中を見れば金が入ってるわけでもなんでもない、ただの泥団子なんでございますよ。
「と言いましたってね、望夏先生、自叙伝というのは自分のことを書くもんなんでしょう。そりゃ物語って訳でもないんですから、物語みたいな面白さはないと思いますけどもね」
そう言ってみて、望夏先生が「それもそうか」などとお心変わりされればよろしいんですけども、そんな事は今まで一度たりともあったことなく。望夏大先生のお言葉が間違っていたことなど、過去にも未来にもありゃしないのです。
「自叙伝にせよ、娯楽小説にせよ、その真髄は面白さにある。そも、面白くもないものに人は惹かれんのだから」
「はぁ……まぁ、たしかに面白くもない、つまらない、と言った小説は人気なんて得られたもんではないと思いますけども」
そんな、物語的な面白さがありゃ、私だって今まで物書きとして職を手にしていたはずなのですよ。
そんなことは無いというのはつまり、そういうことで。
自叙伝というのは、本当にまあ厄介な存在なのだと言うことが分かってきた。
過去やら無駄やら恥ずかしい記憶やらだけでは飽き足らず、物語的な面白さまでをも求めるなどとは。
「ですけどもね、望夏先生、無駄を羅列するようにとおっしゃったのは他でもなく貴方ではありませんか、だからまぁ、その結果がこれな訳ですよ」
ですから何だ、とは申しませんけれどもね。
直接言うなんて烏滸がましくて無理ですけど、望夏先生には責任があると思うのです。やはりまぁ、私に自叙伝を書け、などとおっしゃった責任は、最低限果たしていただかねば。
そうでしょう、望夏大先生。
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