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無駄を羅列、などとおっしゃって、望夏先生は私を追い出されてしまった。
自叙伝なるもの、こりゃ不可解なものを創れと言われたもんよと思っていた私だが、その創り方すらまた意味のわからぬものとは。
確かに無駄の多い人生を送ってきたというこれまた無駄な自負はあるが、それを思い出して書き留めてみよと言われると何とも気が進まない。
無駄なものがなければ自叙伝は面白くない、とは確かに望夏大先生の言だが、かえって無駄ばかりでもそれまた読んでいて、平坦な道をただひたすら蛇行している気分にでもなるのではなかろうか。
そんな物語が、所謂抱腹絶倒の面白小噺になるとは、到底思えないのだ。
「ふむぅ……でもまぁ、一筆」
まあ、どれだけ不可解が並べども、望夏大先生のお言葉とあらば自らの身に鞭打つのも厭わぬのがこの私。
望夏大先生への変に固執するような信仰なら、誰にだって負けるつもりはない。
〝
私の人生は、ひどく無駄ばかりだった
初にそれを自覚したのが齢十四の頃
学舎にてニシンスウなる、零と壱だけの数を教えられた時のこと
ニシンスウだけでなく、サンやらヨンやらもシンスウになれると聞き、ふと思い立って、サンシンスウを自作してみた
零、壱、弐、壱零、壱壱、壱弐、弐零……
ひたすらに書き続け、鐘のなって、起立の礼に手を止めざるを得なくなるまで、五拾壱までのサンシンスウを書いていた
「これまた、不思議なことをやりだしたなぁ、深喜は」と先生殿にも言われ、こりゃ大発見だったりするのでは、と自慢気だったのだが、ふと言われた言葉に絶望することになった
「ま、二進数や十進数は使うが、三はあんまり、聞かねぇなぁ」
詰まる所、五拾壱まで書いたサンシンスウは、ただただ無駄だったわけである
とんでもない発見でもなければ、便利に使えるわけでもない
もらえて頑張ったで賞くらいのもの。のぉべるやら、ふぃいるずなどには到底、及ばぬ
何とも、不思議で意味のないことをしていたのだな、と改めて自覚したときだった
〟
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