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Outsiders  作者: 砂握
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第七話

 さて、どうしたものか。

 見上げる空は黒く、そこから落ちる雨粒は太い。耳に入ってくるのは、それが大地に叩きつけられる音ばかり。

 騒々しい。

 昔から日本人は雨を美の一つと捉えてきたが、ここまで激しければ風流も何もあったものではない。平安時代の貴族であろうと、歌を詠む気にもなれないだろう。

 現代人である僕はどうか。

「……濡れたくない」

 それだけである。

 だがその願いも叶わない。

 簡単な話だ、今日は傘を持ってきていないからだ。

 天気予報のお兄さんめ。

 今日はあれだけ晴れると言ったじゃないか。

「………」

 はあ。

 恨もうにも顔も名前も思い出せない。このままでは天気予報のお兄さん全てを呪わなければならなくなる。それは何だかまずいので、ひとまず恨みは忘れることにした。

 ああ。

 みんなと一緒に帰れば良かった。

 部活が終わった時は雨はちっとも降っていなかった。それこそお兄さんの言うとおりに、空は綺麗な夕焼けに染まっていた。久しぶりだからと、皆が帰宅した後も筆を振るっている間に、気づけば空は真っ黒。学校は既に人気がなく、途中まででも傘に入れてくれそうな者を探すのは不可能だった。

 五分程か。

 こうして空を見上げているが、ちっとも止む気配はない。風も強くないので、きっとしばらくはこのままに違いなかった。

「よし……」

 覚悟を決める。

 じっとしていても無駄なだけだ。若さとなけなしの体力を武器に、雨の中を走り抜けよう。

 大丈夫だ。

 きっと馬鹿は風邪引かない。

「……よし?」

 ふむ。

 良くはないが、考えると悲しくなりそうなので止めよう。今の僕に必要なのは絶望ではなく、己を顧みない勇気だった。

 いや、まあ。

 普通に欲しいのは傘なんだけどね。

「……さて。行くか」

 頷き、下駄箱から一歩飛び出した。

 しかし。

「……あれ?」

 冷たくない。

 と言うか、濡れていない。

 雨が止んだのかと思って顔を上に上げると、そこには水色の空があった。

 いや。

 それはただの傘だった。

「風邪引いちゃいますよ」

 すぐ近くから声が聞こえる。

 後方。

 慌てて振り返れば、微笑みを浮かべた女子生徒が一人そこにいた。その手に傘の柄を握っている。

 なるほど、僕の蛮行を見かねたらしい。

 何とも心優しい人間だった。当然、礼を尽くさねばならない。

 左手で右手の拳を包み、頭を下げる。

「有り難き幸せ」

「どういたしまして。でも、どうして中国風の礼法なんですか?」

「日本式だと膝から下がびっしょり濡れますので」

「池上君の中の日本のお礼って、土下座だけなんですね……」

 何やら複雑な目で見られる。

 ひょっとして僕は、呆れられているのでも馬鹿にされているのでもなく、実は哀れまれているんじゃないか……?

 何てことだ。

 またもや礼を尽くさねばならない。

 しかし左手が右手の拳を包む前に、先ほどの会話の違和感を思い出す。

 傘を持つ女子生徒を見つめる。

 見覚えがない。

 僕の浅い交友関係における女子生徒は、部活とクラスメートくらいしかいない。目の前の彼女は、そのどちらにも含まれていなかった。

「失礼ですが、チーカはなぜ僕の名前をご存じなのですか?」

「チーカって……確かスペイン語でお嬢さんでしたよね……えっと、以前全校集会で表彰されてるのを見たからですが。ほら、九月の最初。絵画コンクールの賞状を貰われていたじゃないですか」

「ああ。そんなこともありましたね」

 何を書いたんだったか。

 良く覚えていないが、確かに賞状はもらった。

 しかし全然いらなかったので、部室に飾りたいと言った部長にあげた。今は美術室のどこかに画鋲で押してあるはずだけど。

「あ、ごめんなさい。私は二年三組の笹川梓です」

 丁寧に頭を下げられる。

 ふむ。

 日本人らしい、しとやかなお辞儀である。

 僕にはとうてい真似できないと思いながら、左の拳を胸に当てる。

「これはどうも。僕は二年……二組の池上司です」

「今、迷いませんでしたか。自分のクラス」

「まさか。間髪入れずに答えましたよ、僕は。何なら法廷で証言しましょうか? 僕は二年……二組だと」

「また迷った……それは法廷では命取りになるんじゃないですか?」

「射殺ですか」

「軍事法廷だってんですね、そこ」

「戦争は嫌いです」

「私もですよ」

 意気投合した。

「あの、それより」

「何ですか、佐川さん」

「違います笹川です。お話は帰りながらにしませんか? 身体が冷えちゃいますし」

「ああ、これは失礼しました。では……」

 気配りか。

 自分には色々と足りないものがあるらしいと嘆きながら、すいっと身体をずらす。しかし思いの外強い力で腕を捕まれ、それは未遂に終わる。

「ちょ、ちょっと。どこに行くんですか? 濡れるじゃないですか」

「傘は一つ。人間は二人。一人はあぶれる。解りますか、さ……さん」

「笹川です。その可哀想な者を見るような目をやめてください。二人で入れば良いじゃないですか」

「それは世に言うあれですか」

「あ……え、ええっと」

「ソウゴウガサ」

「何ですかその毒キノコっぽい名前。ちっとも甘酸っぱくないじゃないですか」

「ソウゴウガサストロベリー」

「あ、甘酸っぱい……わけないでしょう! 相合い傘です、相合い傘――――――う」

 力強く主張したかと思えば、突然顔を赤くして下を向いてしまった。

 ふむ。

「照れてるんですか、フロイライン」

「……どうぞ傘を差し上げます。お気をつけてお帰りください。では」

 傘の柄を押しつけ、雨の中に飛び出そうとするその腕を慌てて掴む。

「ごめんなさい。僕が馬鹿でした。そして今も馬鹿です。これからも馬鹿だと思います。許してください」

「……何でしょうね。謝られているはずなのに、私が鬼畜のような人間に思われる発言です、それ」

「どういたしまして」

「……はあ」

 盛大なため息をつかれる。

 何かまた失敗したかと戦々恐々としていると、行きましょうと促され、結局僕たちは歩き始めた。

 相合い傘。

 もっと甘酸っぱいものだったはずだ。

 こんな。

 こんな、倦怠期の夫婦のような空気を漂わせるものではなかったはずだ。

 まあ、倦怠期の夫婦にあったことはないんだけど。

「大丈夫ですか? 肩は濡れてません?」

「はい。僕、時々女の子と間違われるくらい華奢なんで」

「……それはひょっとして、身長が百六十後半もある私に対する当てつけですか」

「いやいや。ひょっとして気にしていらっしゃる?」

「それはそうでしょう。例えばほら、池上君くらいの男の子と並ぶと私の方が勝っちゃうし」

「僕は割と小さい方だからなあ。普通は同じくらいか、相手の方が高いんじゃないの?」

「かも知れませんね。でもやっぱり、背の高い女は嫌煙されがちなんですよ。男の人って、小さい女の子が好きみたいだし」

「なんだっけ、ロリコン? 僕には良く解らないなあ」

「身長の話をしてましたよね!?」

「ああ、そうだったそうだった」

「大丈夫ですか……色々と」

「諦めてるよ」

「頑張ってください」

「きっと他の誰かがやってくれるさ」

「あなたの中身を誰がどう弄ると言うんですか!」

「はは、笹川さんは元気だなあ」

「言っておきますけど私、普段はこんな感じじゃありませんからね。ボケまくるあなたのせいですからね」

「何を言ってるんだ。僕はツッコミだよ」

「それが既にボケだと言ってるんです……」

 雨音が強いため、この距離でも簡単に声がかき消されてしまう。

 だからほとんど怒鳴り合うようにしながら、僕たちは会話を行う。

 なるほど。

 遠目に見ればお笑いコンビにも見えるだろう。

「しかし笹川さん優しいよね」

「何がですか?」

「初対面の男を傘に入れるところとか」

「でも、名前と顔は知ってましたし。あと、絵とかも」

「へえ。僕はいつの間にか絵になってたんだ」

「違うでしょう。普通に池上君が描いた絵って事ですよ」

「ああ、そうか。美術室で?」

「はい。職員室の前も。凄いですよね。私あれを見たときは本当に感動しちゃいましたよ」

「そうなの?」

「ええ、それはもう。飲み込まれるような感覚でした。絵のはずなのに、中の景色が動いているような気さえしました」

「はあ。凄い感性だね」

「凄いのはあなたの方でしょう? ひょっとして照れてるんですか?」

「まさか。興味がないだけだよ」

「……自分が描いた絵に、ですか?」

「うん。描くのは好きだけど、描いてしまったものはどうでも良いんだよね」

「ああ………だから賞賛にも感想にも興味ないんですね、あなたは」

 ふと。

 笹川さんの気配が消えた気がして隣を見れば、しかしそこには変わらずに歩くその姿があった。

 前を向いていた顔がこちらを向く。

 その瞳は、果たして何色だったのだろうか。

「―――ひょっとして、自分にも興味なかったりします?」

「まあね」

 黒いが、それだけではない。

 青も赤も黄色も紫も。

 覗き込めば様々な色が見える。

「ふふ。池上君らしいですね。でもそんな池上君だからこそ、あんな絵が描けるんでしょうね」

「良く解らないよ」

「まあ、そうでしょうね」

 無邪気に笑う。

 きらきらと輝くその瞳は、まるで回転する万華鏡のように捉えようがなかった。

「あ、私電車通学なのでここまでです」

 言われて辺りを見回せば駅の前まで来ていた。

 珍しいことだ。

 自分がどこにいるか解らなくなるなんて。

 ああそうだ、と。

 握っていた傘の柄を差し出す。

「そっか。はい、傘をどうも有り難うございました」

「明日まで貸しといてあげます。どうせ私、駅に着いたら車で迎えに来てもらいますから、傘は必要ないんですよ」

「いや、でも」

 悪いから返すよ――と、そう続けようとしたのだが。

 ばしゃばしゃと。

 笹川さんは一瞬で傘から出て、あっという間に駅のホームまで走っていってしまった。

 こちらを振り返り、手を振った。

「また明日ねー!」

 それだけ告げた後、踵を返して姿を消してしまった。

 一瞬の早業。

 こちらに手を振り返す暇さえ与えない。

 呆気にとられながら、ざあざあと響く雨音を聞き続けた。

 吐息を一つ。

「帰るとするか」

 やれやれと首を振り、僕は歩き始めた。

 騒々しい雨音をBGMに、ただ一人家路を急ぐ。

 相変わらず歌の一つも詠む気にもなからかったが、それでもまあ、鼻歌くらいは歌えそうだった。

 中々のものだ。

 この空。

 僕だけの空。


 この美しい、水色の空は。

 

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