第六話
鞄片手に席を立つと、直樹が声をかけてきた。
「司、俺これから相田達とゲーセン行くんだけど、お前も付き合わね?」
ゲーセン。
人が多い。
うるさい。
金を使う。
「お断りします」
「……そう言うと思ったけどよ。相変わらずはっきりしてんな、お前」
「ん? 気に障ったなら謝るけど?」
「違うよーだ。気になんか障ってやらないもんねーだ。またあしたー」
小学生のような言い方で別れを告げられる。
ふむ。
僕にもああいう余裕が必要なのだろうか。
いや、どうだろう。
直樹化すると、絵美にバイオレンスな扱いを受けてしまいそうだ。直樹のように頑丈な男ならともかく、僕のような華奢な身体ではきっとあれは死を孕んだ行為だ。
メメントモリ。
深く頷き、教室を後にする。
と、廊下をしばらく歩いたところで、ここ数日部活に顔を出してないことに気づく。いくら休んでも何も言われないし、除籍もされないのだが、久しぶりに筆を握りたいのもあるので顔を出すことにする。
再び歩き出し、目的地へと向かう。
数分ほど足を動かせば、放課後だというのに冗談のように静かな廊下に着いた。
ここも相変わらずだと思いながら、教室の扉を開く。
「こんにちはー」
入りざまに挨拶を口にする。
するとイーゼルに向かっていた者の一人が、手を止めてこちらを向いた。
「はいこんにちは……っと、池上君か」
「池上司です、部長」
「大丈夫。他の誰を忘れても君のことは忘れないから」
「お、池上。久しぶりだなー」
「ホントだ。池君だ」
何だろう。みんな、まるで何ヶ月も顔を出さなかったような口ぶりだ。
五日ほどしか休んでいないんだけど。
苦笑いを浮かべていると、部長がうんうんと頷いた。
「君は地味な癖に、絵を描いている時は妙に存在感あるからね」
「そうですか?」
「ああ、そうだとも。しかしほっとした。もう来ないのかと思ったぞ」
「本当だよー」
「そうですか? 別に僕、ずっと毎日来てたわけじゃないでしょう?」
「いやいや。この前ほら、君の同期が一人止めたじゃない? だから、よ」
「ああ。なるほど」
「部長。同期じゃなくて一年生って言いましょうよ。何でそうおっさん臭いんですか」
「黙れ眼鏡女」
「ちょ! 何です、その言い方! 大体私もうコンタクトですよ!? いくら同性だからって言って良いことと悪いことがあるでしょう!?」
「本当にまた来てくれて嬉しいよ、池上君。君がもし退部でもしたら、二年後には眼鏡が部長をやる羽目になったからね」
「ま、また!? しかも何ですそれ、私には絶対部長をやらせないつもりですか!?」
「コンタクト、合ってないんじゃないの?」
「くそっ! 泣いてやる! 中島先輩、その大きな胸を貸してください!」
「え、ええ!? きょ、今日はもう売り切れちゃったの……長谷川君お願い」
「加藤はほら、あっちの石像にでも抱きついてろよ。俺も前やってみたけど、結構冷たくて気持ちいいぜ?」
「うわああああああん!」
相変わらず激しい。
僕の美術部に対するイメージが、ここに入ってガラリと変わったのは誰もが納得してくれることだろう。個性的と言うか、毒のある人々ばかりで構成される部活。職員室から一番離れており、顧問の教師も滅多に来ないのを良いことに騒ぎ放題だ。彼らが相手では、僕程度の個性では地味と呼ばれても仕方なかった。
泣きながらファイティングポーズを取っている加藤さんの肩を叩く。
涙のにじむ瞳と目が合う。
「頑張って」
出来るだけ優しく声をかける。
だが。
「…………う」
ファイティングポーズが崩れ、だらんと腕が垂れ下がった。
「池上よ。お前は人を打ちのめすのが上手だな」
「え? 僕はただ、励ましの言葉をかけただけですが」
「池上君。あのね、よく考えて欲しいんだけどね」
「何です、中島先輩」
「もし君がマーちゃんなら、その言葉をもらって嬉しいかな?」
「マーちゃんって、ひょっとして長谷川先輩の事ですか?」
「……違うぞ。俺じゃなくて、加藤だ加藤。加藤真希で、マーちゃんだ」
「なるほど。失礼しました中島先輩。続きをどうぞ」
「………ううん。やっぱり良いわ。私は、そうね……やっぱりイカロスにはなれないわ」
遠い目をして窓の外を見る中島先輩。
僕が何かしたんだろうか。
「ふふ。中島よ、池上君の中では加藤は既に、眼鏡女で固定されているのだ。それを見誤ったお前の負けだ」
「部長。勝ち負けの話じゃないと思うんですが」
「ほう? なら長谷川に聞くが」
「何です?」
「君にとって加藤は眼鏡女か、それともマーちゃんか?」
はっとした顔をした長谷川先輩。眉間に皺を寄せて考え込んだ。が、すぐに顔を上げ、凛と言い放った。
「コンタクト女です。部長」
「……さすが、長谷川。縛られるよりも踏まれたいと豪語しているだけの事はあるな。次の部長は長谷川、君に決まりだ」
「豪語した覚えはないんですが……それに次の部長は俺じゃなくて……」
「またその話か。やれやれ、この時期、普通三年はもう引退しているんだがな……」
「推薦取れたからここにいるんでしょうが」
「はあ。仕方ない。中島、ちょっとこっちに来てくれ。三人で何回目かの話し合いだ」
「え、あ、はい。解りました」
「加藤と池上君は絵でも描いててくれ。ちょっと席を外すぞ」
「はい。いってらっしゃい」
「………あい」
「うむ」
教室から出て行く三人を見送る。
部長を決めるというのも中々に大変だ。部員が学年に二人ほどしかいないので、二者択一にならざるを得ないのだ。五人に一人とか、せめて三人に一人ならまだ良いのだが、二人だと選ばれなかった方にも選ばれた方にも微妙な感覚が残ってしまう。今の部長の場合は一人だったから、それはなかったらしいが。
と言うのを加藤さんが教えてくれた。
ああ、まずい。
加藤さんにフォローを入れておかないと。
振り返ると、真っ白に燃え尽きたボクサー風の姿がそこにあった。
投げ込むタオルを一瞬探し、ここが美術室であることを慌てて思い出した。
「あー、加藤さん」
「……私は眼鏡女かマーちゃんかコンタクト女のどれかです。加藤ではありません」
「ええ? ヒントがないと解らないんだけど」
「………」
あ、失敗した。
ついつい考えずに喋ってしまった。
少しは考えろよ、僕の頭。そんなんじゃ、五十歳を過ぎた頃には自分の名前すら思い出せなくなるぞ。
さあ、考えよう。
一度言ってしまった言葉は戻らない。
新しいものが必要だ。
元気づけるようなやつが良い。
……良いんだけど、ちっとも出てこない。
そう言えば人を元気づけようとした事など、昼休みに教室でエロ本を読んでいた直樹が、それを間違えて次の授業の時に机に出して先生に見られてしまった時くらいしかない。
あれは大変だったなあ。
逆にハイテンションになってしまった直樹を元に戻すのは、結局僕には出来なかった。絵美の手刀に救われた。
違う違う。
あれは元気づけてないし、あの時思い知ったではないか。
他人の気分を意図的に変えるのは僕には無理だと。
……では、仕方ない。得意分野で責めよう。
「これは向日葵?」
加藤さんに描いていた絵を見つめる。
「……違う。タンポポ」
ふむ。
ふむ……ふむ。
なんだかちょっと緊張してきたぞ。
必死でその黄色いのを見つめる。
「そっか。キク科の植物はよく似てるよね」
「……そうね。レタスだってキク科だしね」
「へえ」
そうだったんだ。
とてもそう見えないけど、あの緑色もキク科の植物だったんだ。
凄いな、加藤さん。
よく知ってるなあ。
「何でタンポポを描こうと思ったの?」
「別に……ただ、何となく」
「そう。感覚は大事だよね」
駄目だ。
この路線はまずい。
中身だ、中身。僕の得意分野はそっちだろう。
「青空を背景にしてるけど、加藤さんの主題はタンポポ? それとも景色全て?」
「一応、タンポポのつもり」
「じゃあ、もっと色を重ねないと。タンポポの花は黄色系だけじゃ駄目だよ」
「……え? そうなの?」
「うん。一系統の色だけじゃ、あれほど鮮やかにはならないよ。目につく色と真逆の色を探した方が良い。見えにくいけど、確かにあるから」
「そうなんだ」
「でもこの辺りは凄く良いね。ちゃんと咲いてるって感じがする」
「ああ、そこ! 結構時間かけたんだ。最初だったってのもあるけど」
「全てを濃くすると、逆に潰れちゃうからね。生き物には全て芯があるから、そこを強くして、後は柔らかく……」
色に対するイメージを口にしているうちに、どうやら加藤さんの機嫌は直ったらしかった。
ほっと息を吐きながら、今度は逆に加藤さんの持つタンポポのイメージを聞き出していった。
描きたいものについて話すと言うのは、割と重要なことである。
如何にものを描くのが感性的なものとは言え、人間は感覚だけの生き物ではないのだから。線と色だけで表現するにしても、描くべき対象は二次元ではない。
目で見て、耳で聞き、鼻で匂い、手で触る。可能なら口に入れた方が良い。本当ならそうして得られた情報を心に焼き付け、一気に描き始めるのが理想なのだが、人間はそこまで記憶力が良くない。
と言うよりも、対象もまた変化するのだ。
土の上でも自分の心の中でも。変わらないものなんてないのだ。
だから描き始める時は、自分がかつて捉えたもののイメージを口に出し、再確認していく。
そうしてやっと、自分の中で像が結べるのだ。
生まれると言っても良いかもしれない。
「うん、うん。何となく見えてきたよ。ありがとう、池君」
「いやいや。僕は話を聞いただけだし」
「そんなことないよ。やっぱり自分の中にあるものでも、一回外に出さないと見えないもんなんだね」
「哲学みたいだね、それ」
「へへ。これでも元眼鏡ですから。そーゆーことも言うさ」
「頭良いイメージあるもんね、眼鏡かけた人。何でだろ」
「きっと眼鏡をかけない人の方が多かったからだよ。少数派に妙な理想を抱いたんじゃないかな?」
「おお。本当に頭良さそうだ」
「どんなもんよ!」
「んー、まあでも、加藤さんはコンタクト似合ってるね」
「え!? そ、そうっすか!?」
「うん。良い感じ」
「っしゃあ! そういう言葉を待っていたんだ私は!」
念願のタイトルを手にしたボクサーのように、天高く拳を振り上げた。
やっぱりコンタクトが似合ってる。
もし眼鏡だったら、彼女の激しい動きはそれを振り落としてしまっているだろうから。
やっぱり活動的な人には眼鏡は危ないよね。
跳ね回る加藤さんを見てそう思いながら、僕は自分が絵を描く準備を始めた。