第四話
朝九時過ぎ、私服に着替えた後家を出た。
学校には病欠の連絡を入れた。もちろん具合が悪いことなどない。だが昨日、路上で倒れて病院に運ばれたのだから、完全に嘘と呼べる程ではないのかも知れない。別にずる休みだとばれようが、ばれなかろうが、今は学校に行って授業を受ける気分ではない。
一刻も早く知らなければならなかった。
昨日、自分に何があったのか。
自分はどうなってしまったのか。
問いに対する明確な答えが必要だった。例え納得できるものでも、理解できるものでもなかったとしても、ある種の心の整理的なものが必要だったのだ。
別に精神のバランスが崩れているわけではない。
僕は大抵のことに無関心なのだ。他人にもそれほど興味を持てないし、自分にも同じこと。直樹や絵美のような友人達の存在を有り難いとは思うが、なければ困ると思う事はない。だからこそ、僕は孤立してきたし、これからも孤立していくのだろうと思う。あの二人が例外なだけだ。僕の人間に対する価値観を告げられてもなお、彼らはそれで構わないと言ったのだから。
今ではそう、あの二人は少し特別である。
いなくなっても困らないが、寂しいとは思う。
相変わらず、自分自身については何の興味も抱けないのだが。
珍しく考え事をしていたせいか、危うく目的地を通り過ぎるところだった。
住宅地の入り口である。
昨日あれから、自分の倒れた場所について考えてみたのだ。僕は下校時に寄り道をするタイプではないし、するにしても食料品の買い出し程度だ。それも大抵は土日の間にやっているから、平日にはほとんどしない。買い物袋もレシートも持っていなかったので、おそらく僕は学校から真っ直ぐ家に帰ったはずだった。
道で倒れていたあなたを見つけた人が救急車を呼んだ、と。
昨日看護師はそう話していた。
倒れたあなたではなく、倒れていたあなたである。ただの言い違いの可能性もあるが、その言葉から考えるなら、僕は倒れた後、一定の時間をおいて発見されたことになる。となれば人通りが多い場所は除外できる。
学校の近辺。
駅の前。
スーパー周辺。
車通りの多い道路。
その辺りはまずないと考えて良い。となれば住宅地くらいしかあり得ないことになる。
出勤時間帯を過ぎた今。
人通りはない。
住宅地というのは間違いなく人がいるはずなのに、こういう事がよく起きる。それはそこにいる人々が動き回ることを目的としていないためだ。買い物や、何かの外出などがない限り、家の中にいる。
夕方、僕がこの辺りを通る時間帯は、人通りは皆無ではない。犬の散歩や、遊びに出た子供と手をつないだ母親などは少なくない。だがそれらも恒常的に通りを歩いているわけではない。いつかは通るが、いますぐではないのだ。
もし道で倒れた人間がいた場合。
その発見は早過ぎることもなければ、遅すぎることもない。例外はもちろんあるだろうが、この近辺で倒れたと考えれば一応筋は通る。
いつも通るその道を歩いていく。
至る所を探しながら、ゆっくりと歩いていく。
しかし。
「……やっぱり何もないか」
あっさりと自宅に辿り着いてしまう。
当然の話ではある。
貧血と疲労で倒れただけで、何かの事件に巻き込まれたわけではないのだから。
さて、どうしたものか。
今一番望んでいるのは、救急車を呼んでくれた人との邂逅なのだが。名前も連絡先も解らない以上、見つけようがない。
まあ、そうだな。
近くの家の人たちに話を聞こうか。
何も見なかったとしても、救急車が来たんだ、その騒ぎくらいは気づいているはずだった。
手始めに顔見知りの家へと向かう。
ピンポーン。
「はーい。どちら様……って、司君。どうしたの?」
「こんにちは、おばさん。ちょっと聞きたいことがありまして」
「良いけど……今日学校じゃないの?」
「あー……病院に行かなきゃならないので、昼から行くんですよ」
適当に誤魔化す。
が、おばさんの顔から不審の色は消えない。なので続ける。
「昨日の夕方、救急車が来たの知ってます?」
「ええ。うるさかったから……」
「あれ、運ばれたの僕なんですよ」
「え!? そうだったの!? だ、大丈夫?」
「はい。何でも貧血と疲労で倒れたらしくて。病院で点滴受けて帰りました」
「そうだったの……無事で良かったわね」
「はい、ありがとうございます。それで、聞きたいことがあるんですが」
「良いわよ。何かしら?」
「倒れていた僕を見つけて、救急車を呼んでくれた方がいるんですが、その人見かけたりはしませんでした? お礼が言いたいので探しているんですが」
「ああ……ごめんね。私も何事かと思って見に行ったんだけど、いたのは近所の人たちくらいで、誰も状況が良く解っていなかったみたいだから……」
通報したのは近所の人間ではないのか。
だとしたら通りすがりか?
救急車を呼んで、それが来たのを見届けてすぐに立ち去ったのか。あるいは通報してすぐに立ち去ったのか。
「救急車が来たのは何時頃でしたか? あと、どこら辺に止まっていたか解ります?」
「六時近かったはずよ。吉井さん家の前辺りだったわ」
「そうですか……ありがとうございました。自分がどうなったか全然解っていなかったので、助かりました」
「気をつけてね。司君、お父さん達は海外だから今一人よね? しっかり食べてる?」
「ええ。ご飯美味しいですよ」
「……おかずは食べてるの?」
「中華などを多々。麻婆が一番ですかね、やっぱり」
「それって……スーパーの総菜屋さんの?」
「あそこは大したもんです。安くて多くて美味い。消費者笑わせですね」
「笑わせ……そ、そうね。んー、やっぱり夕飯だけでも家で食べていったらどう? 人数多い方が美味しいし、梨花も喜ぶし」
「いえいえ。ご厚意だけ有り難くちょうだいいたします。自分でもそろそろ料理でも始めなければと思っているところですし」
もちろん嘘だ。
いや、理想と呼んでおこう。
「そう……? うちはちっとも迷惑じゃないから、いつでも言ってちょうだいね?」
「はい。ありがとうございます。では、そろそろ病院に行きますので、失礼します」
「またね。気をつけていくのよ」
頭を下げて歩き始める。
向かうのは病院ではない。
吉井さん家の前だ。
さっき通り過ぎた時は何も見つけられなかったが、もう一度見ておこうと思ったのだ。
三分ほどで到着。
もう少し頑張れば家に帰れていたのに、何とふがいない。
まあ、意識を失ったのだから頑張るとかそう言う話ではないのだろうけど。
何も見つけられないまま、きょろきょろと道路を見回していると、背中から声をかけられた。
「家に何か用?」
振り返ると吉井のおばさんだった。
向こうもこっちに気づいたようで、開会していた表情が和らいだ。
「司君。どうかしたの? 学校は?」
「ああ……実はですね……」
そりゃそうだよなと思いつつ、数分前にした話を繰り返した。
おばさんは得心いった風に何度も頷いた。
「私も通報した人は見てないわね。救急車って当たり前だけど、あっという間に来てあっという間に帰って行っちゃったから」
「そうですか……」
手がかりはつかめず。
しかしここで会話を切り上げるのも失礼かと思った僕は、慣れない世間話を始めることにした。
「おばさんはお変わりはありませんか?」
「ええ。うちは皆元気よ。ああでも、旦那は最近太り気味ね。メタボよメタボ」
「ああ。普通に会社に通っていると、運動する時間なんてありませんものね」
「まあ平日はね? でもあの人、土日もトドみたいにごろごろして、時々蹴っ飛ばしてやりたくなるわ」
「お疲れなんですよ……ああ、裕也君は元気ですか?」
小学生の男の子だ。
今時の子供にしては珍しいほどに元気はつらつで、いつも外を走り回っている。時々暴走しておばさんに良く怒られているが、説教が終わればまた走り出すのが彼だった。ご近所では有名な腕白ボーイだったのだが、
「……裕也? 誰のことかしら?」
首を傾げられる。
また悪戯でもして怒られているのかと、苦笑いを返した。
「今度は何をしたんですか、裕也君」
僕の予想ではため息とか、怒りの声だとかが返ってくるはずだったのだが。
目の前の顔には不審の色しかなかった。
「だから誰のこと? 親戚にはそんな名前の人、いないけど?」
「え……?」
「あ。いけないけない。そろそろ見たいドラマが始まっちゃうわ。それじゃ司君、気をつけてね」
「はい……」
呆然とその後ろ姿を見送る。
今のは冗談、なのか?
それにしては笑えない反応だった。
本当に知らないように見えた。
自分の子供を。
忘れてしまったような、そんな顔をしていた。
あの顔。
ひどく奇妙な感じがした。
意見が食い違ったからではない、ただ何となく、感覚的にそう思ったのだ。
虚ろに見えたわけではない。
薄く。
色が薄いように見えたのだ。
何だろう。
切り出された木の板を無理矢理組み合わされて作られた、一本の大樹のようなイメージ。
ありのままのものに、人工的な着色が施されたような違和感。
それはあるいは、今の僕の状態と似たものが有るのかも知れなかった。
胸に手を当てる。
伝わってくる鼓動は力強く、疑いようのない確かさを持っている。
僕自体が歪んだわけじゃない。
こいつによって歪まされたわけじゃない。
だけど。
決して認めて良いものではなかった。