第三話
白い壁が見える。
ん……ああ、壁じゃない。あれは天井だ。
首を動かすと、細長いパイプのようなものと、その先につるされた透明のパックが見えた。
「点滴……?」
パックから伸びるチューブを辿れば、自分の左腕につながっていた。それを確認したところで、どうやらここが病室らしいことに気づく。
当然疑問を抱く。
なぜ病院なんかに僕はいるのか、だ。
自分で来た覚えはないし、持病もなければ具合が悪かった記憶もない。突発的に倒れ、病院に運ばれたのであれば、その処置が点滴というのはおかしくはないか。
手足の指を動かしてみるが問題はない。
どこかが痛いとか、苦しいとかいうこともない。自分では悪いところが一つも見つからなかった。
取りあえず上半身を起こす。
自分の身体を見下ろしてみて気づいたが、どうやら僕は制服を着ているらしい。当然切り裂かれているわけでもなく、ごく普通の状態である。これではまるで、学校の帰りにちょっと病院によって「看護師さん、点滴を一つ!」とでも言ったような状況だ。
違うか。
もっとましな推測は出来ないのか、僕は。
何が悲しくて仕事帰りのサラリーマン風点滴ジャンキーにならねばならんのだ。第一僕は病院は好きじゃない。好きな人などいるのだろうか。
ああ。
直樹はナースが好きだったな……。
「――あ、起きましたか?」
声に振り返れば、病室の扉から女性の看護師が一人入ってきているところだった。
咄嗟に答える。
「はい。そのようです」
「ん? 変な言い回しですね、それ」
点滴のチェックをしながら笑う。
首を傾げて返す。
「起きてる人間に、起きてるかどうかを尋ねるのもどうでしょう」
「ああ、それもそうですね。それで、具合はどうですか?」
「悪くないです。あのそれより」
「どうして病院にいるか、ですね?」
「え、ええ。そうです。どうしてですか?」
手渡された体温計を脇に挟みながら、そう尋ねた。
看護師は血圧計の準備をしながら答える。
「道で倒れていたあなたを見つけた人が、救急車を呼んだんですよ」
「……倒れていた? 道で?」
「そうです。病院で検査してみたら、別段どこにも異常はなく、軽い貧血と疲労であると解ったので、こうして点滴をしていたわけです」
「貧血と疲労……」
変な話だ。
僕の身体は頑丈と呼ぶには華奢だが、貧血になったことはない。立ちくらみも未経験だ。そりゃあ、栄養バランスがしっかり考えられた素晴らしい食事を摂っているかと聞かれれば否と答えるしかないが、ちゃんとものを食べている以上血液は作られる。今日もきっちり三食食べ……って、今何時だ?
左腕を見るがそこに腕時計はなかった。
おおかた点滴に邪魔だったから外したのだろう。
「あの、すみません。今何時ですか?」
「ええっと、午後七時過ぎですね。ああ、腕時計はこちらです」
「あ、ありがとうございます」
受け取ったそれを見れば、確かに七時過ぎだった。文字盤の日付と曜日をついでに確認すれば、いつも通り学校のある日だった。道で倒れていたのであれば、僕は登校だか下校だかをしていた事になる。朝倒れてから十八時間近く放置されていた事はないだろうから、下校時に倒れたはずだ。
と、そこまで考えて、自分の記憶がひどく曖昧なのに気づく。
病室で目を覚ます以前の記憶がないのだ。
遠い昔の事なら思い出せるが、昨日とか一週間前とかの事が良く解らない。
睡眠以外で意識が飛んだせいか、記憶に致命的な断絶があるらしかった。
まあ、そのうち元に戻るだろう。
「はい。血圧も体温も異常なしですね。点滴ももう終わりますが……どうします? 帰宅されても良いですし、一晩病院で様子を見ても良いですが」
「帰宅します」
「解りました。では病室を出られて右に真っ直ぐ、受付の方に行ってください。こちらが荷物です。鞄だけですが、他に何かありましたか?」
「いえ。これだけです。ああ……一つ聞きたいんですが、救急車を呼んでくれた方の名前や連絡先は解りますか? お礼が言いたいのですが」
「いいえ。救急車にはのられなかったみたいですので」
「そうですか……ありがとうございました。失礼します」
頭を下げて扉へと向かった。
家に帰り着いた頃には時計は八時を回っていた。
県立病院に運ばれたらしく、家からかなり離れていたのだ。歩いて帰れる距離ではなく、財布を開ければ何とかタクシーが使えたので、少々落ち込みながら運転手に行き先を告げた。
しばらくは散財が出来ないなと、お札の消えた財布を覗いて嘆く。念のための検査があるので、明日も学校が終わったらもう一度病院に行かなければならないし、全く憂鬱な事この上ない。
記憶の断絶よりもお金の減少の方が、よほど大きな問題だった。
ため息を何度も吐きながら食事を終え、風呂へと向かう。
脱衣所で服を脱ぎながらふと鏡を見れば、
見知らぬ男がこちらを見返していた。
誰だ。
いや、これはきっと僕だ。
顔は毎朝歯を磨く度に見てきたものに間違いないし、身長も体つきも同じ。奇妙なところはどこにも見あたらない。
だが。
強い違和感がある。
鏡に映るその左右対称の男は、確かに僕であるのだけども、記憶と無意識に刻み込まれた自画像とは致命的に異なっている。
見かけは同じ。
中身も同じ。
だが、これは違う。
僕が見てきた僕ではない。
どこだ。
どこが違うのだ。
震える手を鏡に伸ばす。
そこに映った自分の姿を指でゆっくりとなぞっていく。
目。
鼻。
口。
耳。
首。
肩。
―――胸。
指が、止まる。
ここだ。
ここがおかしい。
見た目は変わらないが、これは……この奥で動いている心臓は僕じゃない。
全く違う。
ほとんど同じだが、ほとんど違う。
良いか悪いかの話ではない。
これは間違いなく、僕が認識してきた僕の一部ではない。
異物。
それが胸の中に埋め込まれている。
ひどく気味が悪かった。
「――――――この心臓。一体誰のなんだ……?」
鏡の中のそいつがそう尋ねた。