第一話
轟音に顔を上げる。
窓の向こう、青い空の中を飛ぶ黒い影が一つ。
「お、ヘリコプターだ」
直樹が窓から身を乗り出しその行方を追う。危ないと注意しようとしたが、絵美が腕を振り下ろす方が早かった。
「こら、食事中。座って行儀良くしろ。解ったか?」
「おう……すまねえ」
はたく、と言うには些か鈍すぎる音。
どうやら直樹の頭に当たる寸前、絵美の手は握りしめられていたらしい。
何というか、まあ。
心の底から行儀良くしようと思う。
「しっかし、珍しいよな。ヘリなんてさ」
後頭部をさすりながら、直樹は僕の正面に腰を下ろした。その瞳は好奇心に輝いている。だが一方で、その隣の机に戻る絵美はあきれ顔。馬鹿な子供を見るような目で直樹を見た。
「どうせ大した事じゃないわよ、きっと。事故の撮影がせいぜいね」
「うわ、夢がないなあ、お前。胸はほどよく詰まってるく―――ガッ」
「その空っぽの頭に校庭の砂でも詰め込んで上げようね、直樹」
「待て。待つんだ絵美……俺はただ、褒め言葉を口にしただけだぞ?」
「おっさん趣味よ、それ。いきなり公衆の面前で胸を褒められても、殴って燃やして埋めたくなるだろうが」
ぐい、と直樹のこめかみを締め付ける絵美の手に力が込められる。拳を握って耐える直樹。
そう言えば、こいつは以前に俺に諭したな。
『いいか、司。男の子が泣いて良いのはな、娘の結婚式と孫が生まれた時だけなんだぜ?』
娘が生まれた時は泣かないんだと、そう思ってしまったが、その時の直樹の顔があまりにも凛々しかったので口をつぐんだのだ。ん、凛々しい直樹……?
ああ、違った。
僕はその時、夕日に見とれていただけだったんだ。
「あ、落ちちゃった」
どさりと重い音を立てて、直樹の頭が机の上に転がった。
その顔は微かに笑っている。
直樹が時々浮かべるそれは、やり遂げた男の顔というやつらしかった。
そうだね。
僕は女性のスタイルを安易に褒める事はこの先ないよ、直樹。
他山の石とする。
「さ、食事の続きしよう」
「そうだね、うん……そうだね」
にこりと可愛らしく微笑み姿に、こくこくと頷く。
何だろう。ひどく喉が渇くよ、直樹……。
「うん? 空なんか見てどうしたの? また何か飛んでる?」
「いや、何でもないよ。ちょっと目が疲れただけだから」
「そう? ……でもやっぱりそれ、良くないんじゃない?」
「え? ああ、そうだね……やっぱり助けた方が良かったよね」
「そうじゃなくて」
僕の机をびしっと指さした。
「お弁当よ、お弁当。毎日コンビニでしょ? 経済的にも栄養的にも良くないってば」
「あー、大丈夫。今のところ問題ないから」
自信に満ちた顔を浮かべる。
が、根拠のないそれを見過ごすほど柏木絵美は甘い人間ではなかった。
右手の中指で机をトントンと叩き始める。
肘をつき、その先の拳に頬を乗っけた彼女は、斜めにこちらを見上げてきた。
「あんさん、それで言い逃れ出来ると本当に思うとんのか? それやったら、こっちもそういう対応せなあかんがなあ」
「……あー、弁護士を呼んでください」
「裁判長異議あり! 検察のそれは恐喝に違いありません!」
「いきなり法廷かっ!」
いつの間にか息を吹き返した直樹が、しかし再び意識を刈り取られた。
無論、絵美のツッコミ―――もとい、手刀である。
残像すら見えなかった。
彼女が本気になれば、きっと世界を取れるに違いない。
「はあ……でもさ、本当にね? 良くないわよ」
眉根を寄せて言ってくる。
敵わないと思い、仕方なく本音で話すことにした。
「どう足掻いても美味しく作れなかったんだよ」
自分の事を器用だとは思った事はない、それほど不器用だとも思っていなかった。しかし、料理に関して言えば、自分はどうやら不器用どころの話ではないらしいことが解ってしまった。
何というか、味覚に対するイメージが湧かないのだ。
「味付けのセンスの問題?」
「うん、そんな感じ。これで良い! ってのがないんだよね。霞を作って霞を食べてるような気分なんだよな」
「変なやつだな、お前。観察力は並外れてる癖にな」
二度目の復活を果たした直樹が、笑いながらそう言った。
肩をすくめて返す。
「観察力が高いんじゃなくて、色の変化が解りやすいだけだよ」
「そうかなあ? まあ、いいや。その手の問題は、彼女でもつくって、家に飯を作りに来てもらえば解決する。お前の場合は一人暮らしなんだし、やりたい放題だろ?」
「うわ、最低。その発想ないわ」
「馬鹿言うなよ。男のロマンの一つなんだよ、こいつは。な、司?」
「どうだろうね……」
家に誰かが来て、食事を作って帰って行く。
対価は愛情だろうか。
解らないが、いつも自分しかいない空間に、誰かが入ってくるのは少し疲れそうだ。
「第一、まず彼女が出来ないと思うよ。僕には」
「ああ? そんな事ないって。な、絵美」
「そうねえ。一友人として言わせてもらえば、本人次第ってとこかな」
「ほう? その心は?」
「恋愛は付加価値じゃなく、その意志が全てを決定する。そう言う事よ。司は彼女欲しいの?」
「どうだろ。あんまり興味ないなあ」
「お前はパーソナルスペース広いもんな」
「欲しくなったら出来るんじゃない? 私は割と良いと思うし」
「お、それは一女としての意見かな?」
「一女として言わせてもらうなら、あんたはもう少し落ち着きを持ちなさい。年上にしか受けないわよ、ガキっぽいの」
「年上か……へへ、悪くねえかもな……」
光明を見つけたアスリートのように、不適な顔で笑う直樹。僕は苦笑を浮かべ、絵美はあきれ顔になった。
直樹が馬鹿な事を言い、絵美がそれをぶった切る。そこに僕が時折言葉を挟みながら、昼休みを過ごしていく。
僕が何かを欲しないのは、きっと満たされているからだろう。
少なくとも友人には恵まれている事は事実だ。
そう思った。