雨音
雨が降っている。
外を見たわけではない。しとしとと湿った音が壁の向こうから聞こえる。スマホで確認すると今日は一日中雨ということらしい。
森田春彦は小説家である。本名ではない。デビューするにあたり、好きな二人の作家の名前を拝借し、更に捩ったものである。
過去二作単行本を出した。まだ駆け出しである。デビューする前から好き勝手に小説のようなものを書いてはきたのだが、いざプロになってみると「売れる小説」というのを意識してしまう。
仕事なのでこれは当たり前なのかもしれないのだが、これを意識してしまうと森田の文章としての良さがなくなってしまうのではないかと恐れている。
過去の作品はどうだったのか。
デビュー作はただがむしゃらに書いた記憶がある。改めて読むと稚拙な部分もあるし、終わり方も有耶無耶している。しかしそれは森田の好む終わり方であった事だった。明確な線引きのできる結末を好まないのだ。結果この作品は新人賞を受賞して晴れてデビューとなった。
二作目は熟考に熟考を重ね、入念な下調べをし、何度も推敲し書き上げた。デビュー作よりかなり時間がかかったが自分でも満足できる作品になったと思う。しかし評価はいまいちで次の作品への課題が山積みとなった。
そして今森田はパソコンの前で思考を停止している。指はキーボードの上に載せているのだが、頭には何も思いついていない。
スランプなのだ。適当に書いたものが評価され、念には念を入れたものが評価されない。さてこれはどうしたものか。そう森田は考えている。
外は雨が降っている。音は聞こえるがそれがどの程度の雨なのかわからない。豪雨ではないみたいだが、小雨なのか本降りなのかは部屋の中では判然としない。
森田はキーボードに乗せていた手をだらりと垂らす。「雨はいいよな」とひとり呟いた。雨は空から自然と降ってくる。こちらの都合などお構いなしに。森田はそれがふと羨ましく思ったのだ。
今森田は小説のアイデアを渇望している。それなのに雨は望む望まざるに関わらず降っている。アイデアもそんなふうに降ってきたらと森田は雨に嫉妬しているのだ。
しかし自然現象に不平を持ってもしょうがない事というのも森田は承知している。しかし現に嫉妬心は森田の中にある。このモヤモヤが今の森田は少々感に触る。
「チクショウ」
ボソッと呟いてみる。それをしたところで何か変わるわけではない。無音の部屋の中でその呟きは響くこともなく、空間の中に溶けた。
すこし雨音が激しくなった気がする。部屋に窓はあるのだがそれでも一向に外を見る気はない。景色が見えるならまだしも、どうせ窓を開けたところで隣の家の壁が見えるだけだ。雨の様子などはっきりとわからないだろう。
森田は夢想する。勢いついた雨音の正体がもし小説のアイデアであったらと。
これだけの激しい音だ。空から降ってくるアイデアも膨大なものに違いない。
そう思うと森田はいてもたってもいられなくなった。立ち上がり、玄関へと急ぐ。
雨を浴びたい。
雨を浴びたい。
雨を浴びたい。
森田はドアを開ける。眼前にはアスファルトで舗装された道路。そして叩きつけるような激しい雨。
時刻は昼に近くなっている。朝起きて数時間。森田は朝から雨音を聞いて初めてその日、雨を直接見た。森田にはその雨が、雨粒の全てがアイデアの雫のように見えたかというとそうでもない。
あれだけアイデアに渇望していた森田だったが、いざドアを開けると現実を知った。雨は雨であった。しかも激しい。濡れたくない。
森田はドアを閉めて、鍵をかけ、自室に戻った。パソコンの前に座り、何も進捗していないディスプレイを何の気なしにに見つめる。
「あー」
何の意味も持たない言葉を吐いた。それが今の森田の全てを表していた。