8.龍帝・宸柳
それが翁であれば、饕餮は隠れたりしないだろう。
ということは、まったく別の人。
もしかしたらいなくなったシュカを探して、侍女たちがここまでやってきたのだろうか。
どちらにせよ、こんなところで農作業をしていることが知れてしまったら大ごとだ。
龍帝の庭を勝手に私物化しているのだから。
シュカはあたりを見渡してどこか隠れる場所がないかと探した。
その前に、いかにも農作業をしていましたと言わんばかりに地面に突き立てた鍬を隠さなければ。
突然のことに混乱して慌てているうちに、足音が聞こえてきた。
それにドキリと心臓を飛び跳ねさせ、とりあえず鍬を持ったまま小屋の影に隠れた。
本当なら小屋の中に隠れてしまいたかったが、狼狽えているうちに足音の主がすぐそこまで来てしまっていた。
ただ見つからないことを祈りながら、シュカは身体をできるだけ小さくした。
「……何だ、これは」
低い、男性の声が聞こえてきた。
とりあえず侍女でも、秀英の声でもないので安堵はしたものの、また別の誰かとなれば話が違ってくる。
おそらく、ここに畑があることを報告されるだろう。
それが巡り巡って龍帝の耳に入ったら、翁が処罰されるかもしれない。
この畑もきっと取り壊される。
(どうしよう……)
懸命にどうにか誤魔化したり言い含められないかと頭を回転させるも、いい案など思い浮かぶはずもなく、とりあえずそっと侵入者を盗み見る。
男は汗衫の上に盤領袍を重ねた一般的な官吏の服装をしていた。
どこかの官吏が散歩がてらに迷い込んだか、もしくは庭園の管理を担っているのだろうか。
いずれにしも、この土臭い場所には似つかわしくはないなりの男に、シュカは眉を顰めた。
しかし、あの男、どこかで見たことがある。
目を細めて男の横顔をじっくりと見つめた。
宮廷では知り合いは多くない。
こと男性ならばなおさらだ。
会える人は限られている。
そうなると、絶対に過去に会ったことのある人なのだがと、記憶を辿る。
すると、男がこちらを振り返り、正面から顔を臨んだ。
「……っ」
あまりの衝撃に息を呑み、小屋の影に身体をひっこめる。
一気に跳ね上がった心臓はいまだ早鐘を打ち、シュカの動揺を助長させた。
――何故、あの人がここに。
信じがたい光景だった。
現実にはあり得ないと。
この小さな畑に足を踏み入れた男。
それは、この国の龍帝・姜宸柳。
シュカの夫であるはずの人だったからだ。
(どうして陛下がこんなところに……っ)
息すらも殺すように、口を手で覆って気配を消す。
官吏どころか、この宮廷の主である宸柳に畑が見つかってしまうだなんて。
これは絶体絶命の危機というものだ。
龍妃が土いじりをしていたと知れば、きっと彼は激怒するだろう。
田舎臭さが抜けず、龍妃らしからぬ振る舞いをするシュカを罰するかもしれない。
宮廷にいる人間、皆そういう反応をするのだからきっと彼もそうだろう。
貴き血筋の人は、身なりや振る舞いを異様に気にするのだから。
(どうか見つかりませんように!)
畑が見つかったことは不運としか言いようがないが、今はそれだけをひたすら祈るしかなかった。
ここを見つからずに乗り切れさえすれば、あとはどうとでもできる。
翁に見つかってしまったことを謝って、口裏を合わせるなどして、正体不明の誰かが勝手にしたことだとしらを切ればどうにかできるのでは?
そんな淡い希望を持って、シュカは無心になって存在を消し続けた。
「お前か? あの畑を作ったのは」
「ひっ!」
ところが、シュカの切なる願いはあっさりと打ち破られる。
足音を消して近づいて来ていたのか、宸柳がすぐ側までやってきて小屋の影に隠れていたシュカを見下ろしていたのだ。
金色の瞳が鋭く光り、こちらを威圧する。
間近で見てさらに確信した。
一度しか会っていないが、それでも彼が龍帝であることは分かる。
人ならざる瞳を持つ者は、この国では龍帝である宸柳以外にいないだろう。
「何故あそこに畑を?」
「……あの……えっと」
聞きたいことは沢山あったが、まずは額づいて顔を見られないようにした。
自分が瓊妃だということは何があっても隠し通さなくては。
何と答えたら障りがないだろうか。
怒りを買わずに穏便に済ませられるか。
シュカは最適な答えを探し、そして上手く見つからずに言葉を詰まらせた。
「勝手をされては困るな」
「……はい」
それは重々承知の上です。
シュカは頭を垂れながら、心の中で弁解の言葉を述べた。
「あそこは俺の隠れ場所だ」
「…………は?」
「たしかに、忙しくて最近来ていなかったが、俺が先に目をつけた場所だ。断りもなく畑を作られたら困る」
「……え? えぇ?」
「危うくせっかく植えた作物を踏んでしまうところだった」
「……は、はぁ」
どうやらシュカが心配していた展開とは違うものになってきているようだ。
どちらかというと、庭園を荒らしたことに怒っているわけではなく、自分の休憩場所としているところを勝手に使われたことに苦言を呈している様子だった。
それどころか育てている作物を踏むところだったと苦々しい顔をしている。
思ってもみなかった言葉に、シュカは唖然とした。
「ちゃんと周淵の許可は取っているのだろうな?」
「周淵?」
「この庭園を管理している翁だ」
「あ! は、はい! その翁にこの場所を教えていただきました」
「何? 周淵に?」
宸柳は眉を顰めて、ムッとしたような顔をした。
「あやつめ、何を考えている」
不貞腐れるようにぶつくさと言い、大きな溜息を吐いていた。
どうやら烈火のごとく怒られるということはなさそうだと、彼の様子を盗み見ながら安堵する。
できれば畑のことも見逃してくれないだろうかと期待を持つが、それは五分五分だろう。
だが、龍帝自らがこんなところにやってくるとは。
(この人、暇なの?)
そんなはずはないと分かっている。
百年間待ち続けた龍帝だ。
荒れたこの国を立て直すことに奔走しているはずだ。
それでも、不敬ながらもそう思わざるを得ないほどにシュカは動揺していた。
(休憩場所? 何でこんなところに)
そこも腑に落ちない。
龍帝の休憩場所など、臥榻に横たわって、茶点を食べてお茶をすすりながら休めるところにすればいいのに。
いったい、何故こんな人が寄り付かないような場所にわざわざやって来たのか。
「その腰の帯の色、銀鬣宮の者か」
「……さ、左様にございます」
しまった、と息を呑む。
シュカが住まう銀鬣宮の下女に服を借りたので知らなかったが、どうやら帯の色で所属の場所を分けていたらしい。
宸柳はそれを見て判断したのだろう。
あまり瓊妃と繋がりがあるのを知られたくはなかったが、そこはもう誤魔化しようもないだろう。
とりあえずここは下女になり切って、この場を乗り切るしかない。
「ちょうどいい、聞きたいことがあった」
「へ?」
そう言ってしゃがみ込んだ宸柳は、シュカの顔を覗き込もうとした。
「顔を上げろ」
「で、ですが……」
「いい、許す。だから顔を上げろ」
(そっちが許しても、私は困るんですけど!)
顔を見られたくない一心のシュカはどうにかこのままでと粘ろうとした。