6.龍聆と秀英
「瓊妃様、歴史のお時間でございます」
後宮を取り仕切る宦官・董秀英が臆面もなくシュカに伝えてきた。
そのたびに、自分がどれほどこの人たちにおざなりにされているかを思い知るのだ。
「分かりました」
シュカはおもむろに立ち上がり、部屋を出る支度をする。
薄っすらと顔に笑みを貼り付けた秀英は一揖すると、恭しくシュカをある場所へと案内し始めた。
「本日は引き続き、各地に伝わる龍の逸話についてだそうです。龍聆様が早くお教えしたいと、首を長くしてお待ちです」
「……そうですか」
シュカは憂鬱になった。
秀英が言っていた龍聆というのは、シュカの歴史の老師(先生)だ。
――そして宸柳の兄でもある。
本来なら後宮は、主人である宸柳と宦官しか男性は立ち入ってはならない決まりだ。
それは田舎者のシュカでさえも知っている。
璜呂宮の中には女人だけが住まう、陛下のためだけの女の園があるのだと夢物語のように聞かされていたからだ。
だから、龍聆が龍妃であるシュカを訪ねてここにやってくること自体禁忌のはず。
男女の中で間違いがあってはならないからだ。
万が一、龍帝以外の子を龍妃が孕んだらことだ。
ところが、秀英はそれでも構わないと言うかのように龍聆とシュカを引き合わせる。歴史を学ぶためだと言って。
女性の老師(先生)ならたくさんいるだろうに、何故か彼をあてがうのだ。
宦官であるにも関わらず、禁忌を禁忌とも思っていない所業。
もしも、龍帝にこれが知られれば罰せられる可能性もある。
だが、そうならないのには理由がある。
シュカも薄々この璜呂宮内での力関係が把握できてきたので予測がついた。
宸柳の兄の姜龍聆は、龍が現れなければこの国の皇帝だった人だ。
龍から神通力を賜った者を龍帝と呼ぶが、ここ百年は龍帝と呼ばれるような君主はいなかった。
便宜上、龍聆は皇帝として国を治めるはずだったのだ。
ところが、ある日、側室の子どもである宸柳の前に龍が現れた。
龍帝と認められた弟を差し置いて龍聆が国を治めることはできず、彼はその地位を退いた。
致し方なかった譲位とはいえ、恙なくそれが行われたとは到底思えない。
半分血の繋がった兄弟と言えども、どこかしらに禍根があるだろう。
それを考えると、龍聆が歴史を教えるという名目でシュカに会いに来ることに何かしらの含みを持たせていると見て然るべきだ。
加えて、玉麗を見ても分かるが、宮廷内の一部の人間に蔓延る貴賤意識。
これが顕著な人は、シュカを龍妃と認めたくはない傾向にある。
藩家の令嬢である鈺瑤こそが龍妃であり、卑しい出のシュカは龍妃とは認めない。
宸柳がいまだにシュカの元に通わないのも、ここら辺の考えが関わってくるのだろう。
彼本人がそう思っているかはまだ分からないが。
だが、目の前を歩く秀英は少なからず卑しい者を差別する側の人間だ。
龍聆と引き合わせること自体、シュカの操などどうでもいいと言っていることと同義。
あわよくば、二人が男女の仲になってしまえば、体よく邪魔者二人を追い出せる。
(賢しいもので)
高貴な方々の政治的な駆け引きなどよくは知らない。
これはあくまでシュカの憶測で、本当のところの真意は他にあるのかもしれない。
だが、ここまであからさまにされると、憤りや恐怖ではなく、呆れしか出てこない。
シュカが身持ちの悪い女だったら簡単だったろうに、あいにく男女の仲には興味がない。
ましてや、龍聆という人には微塵も興味を持てないのだ。
むしろ苦手な類と言っていいだろう。
後宮内にある院子(中庭)に降り立ち、真ん中に鎮座している亭へと足を運ぶ。
勉強とはいえ、部屋の中で二人きりになるのは邪推を呼ぶと秀英に言われ外で会っているが、それもまた皆の目に触れていらぬ憶測を呼ぶ結果となっていた。
院子は、四方に囲む後宮の殿舎の真ん中にあるため、どの部屋にいてもこちらの様子が窺える。
まるで見せつけているようだと、薄ら寒い気持ちになってしまう。
そこまでして、二人の仲に疑義を呼びたいかと。
だが、それに苦言を呈したところで秀英は聞く耳を持たない。
ここしかないのだと、こともなげに言ってみせる。
――これを腐敗していると見ていいのか。
禁忌をいとも簡単に破る宦官に、それに協力する侍女。
罰することもなく素知らぬ振りをする龍帝に、厚顔にも龍帝の妃の元に通う兄。
宸柳の権力が思った以上に弱いのか、それとも龍聆が強いのか。
彼がシュカに会いに来るたびに、一抹の不安を覚える。
自分は、龍妃という名の泥船に片足突っ込んでいるのでは? と。
「お待たせしました、龍聆様」
シュカが彼に向って一揖すると、龍聆は立ち上がってこちらへと一歩近づいた。
「いらっしゃい、瓊妃様。さて、今日も歴史の勉強を始めようか」
亭の椅子に腰を下ろし龍聆を対峙すると、彼はその美しい顔で笑んでみせる。
シュカはこの類の笑みは苦手だった。
特に璜呂宮に来てから、腹の内を見せない仮面を貼り付けたような顔をよく見る。
それは薄気味悪く、苦手意識を植え付けた。
「――さて、先日は柏寧州に伝わる龍の逸話をお話したね。本日はその隣の金虔州に移ろうか」
不実な態度ではあるが、歴史の講義は至って真面目にやってくれている。
ただし、教本のようなものはなく、すべて龍聆が口頭でシュカに教える形ではあるが。ここでも文字に触れたりしないようにと、秀英が言い含めたのだろう。
興味がないわけではないので、シュカも訝しみながらもついつい話にのめり込む。
龍聆が話し上手であるのも一因だ。
龍が金虔州のガクレンのある池に、鯉の姿で現れた話や、その鯉がとある村娘に将来、龍妃になることを告げて消えたという話。
旱魃に苦しむ地に、瑠璃色の龍が突如湖から現れて天に向かって駆け上り、太陽を割り、雲を呼び雨を降らせたという話。
聞けば聞くほどに興味深く、また龍という謎の存在を知るいい機会にもなっている。
小一時間の講義はあっという間に過ぎ去った。
玉麗が茶を出し、しばし休憩の時間に入る。
彼女はお茶を淹れてくれるのだが、そのお茶がまた面白いものだった。
シュカが知っているお茶は粉末状のもので、湯呑に入れてそこにお湯を注ぐもの。
ところが、宮廷ではまた違ったお茶が飲まれている。
研膏茶という固形のお茶で、それを火で炙って砕いて急須に入れるのだそうだ。
興味本位で見せてもらうと、固められたお茶の表面には龍が彫られてあって、龍帝と龍妃にはこのお茶しか出さないのだと玉麗は説明してくれた。
香がつけられてもおり、お茶なのに棗や橘皮の香りがまざり、味わったことのないものに最初は戸惑ったが、今では今日はどんな香りがするのか楽しみでもあった。
どうやら、本日は棗のようだ。
「最近はどうだい? 何か変わったことはあったかな?」
「……いいえ、特に変わり映えのない毎日を過ごしております」
お茶は楽しみだが、この時間は苦痛だった。
龍聆と世間話をするにしても、何を話していいか分からない。
彼は積極的に話をかけてくれるが、当たり障りのない返事をするのも一苦労なのだ。
何せ、シュカという人間は畏まった話し方というのが苦手な上に、愛想笑いも好きではなかった。玉麗が見ていると思うとなおさらだ。
肩肘張った会話は、腹の探り合いをしているようで居心地が悪い。
とにかく、龍聆との会話は背中がむず痒くなるので早くここから去りたい。
その一心で、穏便に話を終わらせたかった。
だが、彼は何かとこの場にシュカを留めようと話しかけてくる。
ただの好意からではないということを弁えている身としては、何とも苦痛の時間だ。
「……ところで龍聆様、今年の実りはいかがです? 天候も安定し、ほどよく恵みの雨も降り注いだので、穀倉が溢れるほどになっているのでは?」
「瓊妃様のご興味はいつもそれだね」
「えぇ、知っての通り田畑を耕すことを生業としておりましたから、どうしても気になってしまって。それに、村に育ててきた畑も残しておりますし」
「心配ないよ。今年は昨年よりも豊作であるという見通しだ。それもこれも、すべて龍と龍帝陛下のおかげだね」
「そ、そうですね……」
龍聆の口から宸柳のことが出るたびに警戒してしまう。
いらぬ藪を突いてしまっているのではないかと心配なのだ。
できればそこら辺の面倒くさそうな権力争いとは距離を置きたい。
普通なら、突然弟に地位を奪われ、こうやってやることもなく無聊を慰めるためだけにシュカに会いに来るほどに落ちぶれてしまったのであれば、恨みやつらみの一つでも出てきそうなものだが、龍聆の口からは聞いたことがない。
できた人なのか、それともシュカを懐柔して何かしらを企んでいるのだろうか。
(一見、いい人そうに見えるけれど……)
だが、人の内面は外側だけでは分からないときもあると、シュカは知っていた。
悪人ほど善人の顔をしているともいう。
シュカの実の父親も、そういう人だった。
昔はいい人だと思っていて懐いていたが、真実を知ったときそれを悟った。
この宮廷でシュカが容易に人を信用しないのもそのせいだ。
人は裏切る。
そしてまた、己の欲のために他人を利用するのも厭わない。
だからいくら龍聆が親切にしてくれようとも、心を開こうとは思えなかった。
そもそも、後宮に足を踏み入れている時点で怪しいものだ。
当たり障りのない話をして、義理でお茶を一杯飲み干すと、シュカはおもむろに立ち上がった。
「随分と長話をしてしまいましたね。これで失礼いたします」
口で言うほど話はしていないが、他に言葉が思い浮かばなかった。
引き留められるのも面倒なので、さっさと帰る素振りを見せる。
「……毎回お伝えしておりますが、やはり歴史の講義は他の女性の方にお願いした方がよろしいかと。これが陛下の耳に入ったらどうなることか」
「あの子はこんなことで悋気を起こしはしないよ。大丈夫」
一応毎回のように苦言を呈しているのだが、龍聆は一事が万事この調子で返してくる。
ここの主は一体誰なのか。
それとも龍帝の兄の特権とでも言うのだろうか。
「それに、宸柳の興味は鈺瑤にあるから、君と会っても何も言わないよ。実際、私は宸柳に何か言われたことはないし、君も言われたことはないだろう?」
だから、おまけの姫と会っても何も問題ないだろう?
龍聆はそう言いたいらしい。
問題ならある。
昔からある不文律を侵すことに疑問視を抱く。普通ならそうであるはずなのに、それがない。
そのこと自体問題なのだ。
龍帝の手がついていないから、他の男がちょっかい出してもいい。
そんなことがまかり通るなどおかしい。
「さて、今日は瓊妃様に課題を出しておこう」
「課題、ですか?」
初めてそんなことを言われて、シュカは首を傾げる
「――何故、龍は龍妃を複数人選ぶのか」
「え?」
「君は考えたことがあるかい?」
突然の質問に戸惑うと、ニコリと龍聆は微笑む。
「答えが分かったら教えてね。それでは、また」
謎の言葉を残し、別れの挨拶をして来た彼を不気味に思いながらシュカはその場を辞した。
しかも、シュカの言葉など聞かなかったかのように、また来ると告げて。




