4.翁
壁の向こう側は生垣だったらしく、枝を掻き分ける。
頭や肩についた葉を手で払いのけながら辺りを見渡すと、シュカは思わず感嘆の声を上げた。
「土っ!」
おそらく庭園であろうそこには、シュカが待ち望んでいた土があった。
木や花が色鮮やかに彩っていたが、この目にはいい色をした土しか目に入らない。
飛びつくようにしゃがみ込んで、土を手に取る。
指先で摘まんで押して、その感触を確かめてはにんまりと微笑んだ。
しっとりと水分を含んだこの土は、土壌としては最高だ。
シュカは心を躍らせながら庭園を見渡して、どこかいい場所がないかと探し歩いた。
できれば奥まった場所で、人に見つかりにくいところがいい。
きっと管理人がいるのだろう。
その人にもなるべく見つからない場所がいいだろうか……と悩んでいると、後ろから声をかけられた。
「何をしている」
白髪白髭の翁が、突然現れたシュカを訝しむように見つめてきた。おそらく彼が管理人なのだろう。土のついた麻の袴は下賤の者しか穿かず、そのような身分の人間が庭ですることといえば、手入れくらいなものだ。特にこの庭園は龍帝が足を踏み入れる場所、おいそれと卑しい者が闊歩したりしない。
とは言っても、今のシュカも下女の格好をしている身。不審な目を向けられても仕方がない状況だった。
だが、慌てることなく、用意していた言葉を翁に伝える。
「どこか空いている場所とかありますか? できれば家から持ってきたこの種をここで育ててみたいんです」
懐から出した布を開き、小さな種を彼に見せる。
村から発つときに思い付きで家から持ってきた根菜の種だ。
ずっと隠し持っていたのだが、玉麗の言葉に腹を括ったシュカはこれをどこかで密かに育てようと企てた。
本当はこの璜呂宮から逃げ出してやろうかとも思ったが、さすがに無謀過ぎるし、村にも迷惑がかかるかもしれない。
なのでせめて畑を持つという我儘だけは、一人で叶えようと後宮を抜け出してきたのだ。
「ここでか? ここがどこか分かって言っているのか?」
翁はぎろりと鋭い目を向けてくる。
それもそうだろう。
突然、宮中の庭に農作物を育てたいと言ってくる女が怪しくないわけがない。
「はい。不敬であるのは承知の上なんですが、他にいい場所がなくて。城からも出られないし、ここはいい土をしているし。どこか空いている場所があればと思って。内緒で使って……ダメですか?」
シュカはしおらしく頼み込む。
と言っても、勝負は半々と言ったところだろう。
むしろ、無理なのは百も承知だった。
庭園とはいえ、この城のものは龍帝である宸柳のものだ。
好き勝手にしていい道理はない。
翁は少し考え込んだあとに踵を返す。
やはり無理があるお願いだったか、と肩を落とすと、翁が振り返って言ってきた。
「こっちだ。ついてきなされ、瓊妃様」
やった! と喜んだのも束の間、シュカは正体がバレていたことに顔を青褪めた。
どうしてバレたのだろう。
服も着替えたし、髪の毛も一本に結んで地味にしてきた。
部屋に引き篭もっていたせいで肌も白くなり、栄養のあるものを毎日食べていたから肉もついてふっくらしてきたものの、染み付いた平民臭さはいまだ健在のはず。
妃と一発で見抜かれるほどの高貴ななりはしていないはずなのに。
シュカは頭を捻った。
「来ないのですか? こちらにちょうど場所があります。なに、貴女様を後宮に帰そうだとも思っておりませぬ。安心してついてきなされ」
念を押されるように翁に言われて、シュカは大人しくその背中についていくことにした。
どちらにせよ、ここで立ち止まっていても仕方がない。
だが、どうして瓊妃だとバレたのかそれが気になって仕方がない。
黙々と歩く翁に、シュカは苦笑いをしながら問いかけてみた。
「……ど、どうして私が瓊妃だと?」
翁はじろりとこちらを見て、次に後ろに目を向ける。
「お気をつけなされ。見えておりますぞ、龍華紋が」
そう言われて、シュカはハッとして思わず自分のうなじに手を当てた。
すっかり忘れていたが、そう言えばそうだったと指摘されてようやく気が付いた。
自分からは見えない位置にあるし、普段まったく意識していなかったので忘れていたのだ。
うなじに龍妃の証である紋があるのだと。
龍妃に選ばれた際に、龍につけられたらしいその印は『龍華紋』という。
朱色の大輪の華の周りを龍が取り囲んでいるもので、龍妃に選ばれると身体のどこかに浮かんでくるらしい。
それこそが紛れもなくシュカが龍妃である証拠なのだが、今はそれがシュカを窮地に追いやっている。
「それにあんなものを引き連れてくる御仁は、龍妃様しかおりませぬ」
そう言われて指をさされた先に目を向けると、そこには二本の角を生やした小さな獣がいた。
塀の上をこちらについてくるように移動している。
「……饕餮」
シュカは呆れたような声を上げた。
仔猫ほどの大きさだが、もしも体躯が大きければそこかしこで悲鳴があがっていただろうその獣は、シュカの護衛だ。
シュカのというよりも龍妃のと言った方が正しい。
あの獣はシュカが龍妃になった当日の夜、寝静まった暗い部屋の中に現れて自ら何者であるかを名乗った。
饕餮という名の獣は、どうやら龍の子らしい。
龍に龍妃を守るようにと命じられて、シュカの前に現れた。
ああいう獣があと八匹いるのだとか。
シュカは饕餮と螭吻に出会ったことがあるが、そのいずれもが最初の邂逅時に挨拶を交わしただけでああやって草葉の陰から見守っている。
こちらに積極的に接触するつもりはないようだ。
ときおり霞のように姿を消したりするので、驚かされる。
しかし、侍女ですらその存在にいまだに気付いていないのに、すぐに気付くとはこの翁何者だ? と、シュカは訝しんで心なしか距離を取り始めた。
だが、彼はそんなこちらの様子を気にした様子もなく、黙々と歩き続ける。
「龍華紋は首に布でも巻いて隠しておけばいいでしょう。用心するに越したことはない」
そう言われて、シュカは静々と汗拭き用に持ってきていた布を首に巻いて隠す。
「……ありがとうございます」
「いえいえ」
口元を和らげて微笑む翁は、最初の印象とは違って優しかった。