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25.再生の土地



 ――人を殴ると、こっちまでただでは済まなくなるんだ。


 シュカは、自分の右手を見ながら他人ごとのように思った。

 誰かに痛みを与えるとき、自分にもその痛みが返ってくる。

 腫れに効く塗り薬を患部に塗られ、清潔な布で丁寧に巻かれていく様子を見て、今、それを身に沁みて実感していた。


「数日は痛むぞ」

「……はい」

「毎日、こまめに薬を塗れ」

「……はい」


 房間に二人きり。

 長椅子に二人で腰掛けながら、シュカは宸柳の手当てを受けていた。


 適当に秀英に報告を済ませたあとに、宸柳が二人きりで話をしたいとシュカを住まいである龍頭りゅうず殿に招いた。秀英は、シュカが後宮を出ることを強く引き留めたが、宸柳がそれを突っぱねた形だ。


 本来なら許されないことだろう。けれども、宸柳は秀英がいないところでゆっくりと話をしたかったようで、有無を言わさずシュカを連れてきた。

 空き部屋なのか、簡易な調度品しかないその部屋は妙に静かだった。

 衣が破れてみすぼらしい恰好だったのを見かねてか、宸柳が上衣を貸してくれたのだが、初秋の夜は肌寒くて肩を竦める。


 沈黙が耳に痛かった。


「――それで、俺に言うことは?」


 手当を終えた彼は、シュカの手を見ながら聞いてくる。その言い草がつっけんどんで、彼らしくない冷ややかなものだった。


 怒っている。

 当然だ、シュカは彼を騙していたのだから。


 けれども、今のシュカにそれを殊勝に謝る余裕などなかった。

 正直、もうどうでもよくなっていたのかもしれない。宸柳がシュカに失望しようが、怒りを抱えようが、詰ろうが今さらどうだっていい。


 もう畑は潰されてしまった。

 来春、あそこで人参を収穫して食べようという約束はもう叶わない。

 哀しみが深すぎて、情けなくて。二人の秘密の場所を守り切れなかったことがもうしわけなくて、でも抱えた怒りも消化しきれずに半ば八つ当たりのように。

彼を上目で睨みつけた。


 そんなシュカの態度を見て、はぁ……と大きな溜息を吐いた宸柳は、ワシャワシャと髪の毛を乱すように思い切り頭を撫でてきた。

 その仕草に、不覚にも涙腺が緩みそうになる。


「何でもいい、言ってくれ。そうでなければ、今この混乱した気持ちを整理できない」


 参ったような声で言われて、シュカも何から説明していいか分からなくなる。

 考えあぐねて押し黙っていると、心流の方が口を開いた。


「俺を騙すつもりだったのか」


 言葉にできない代わりに、首を思い切り横に振る。

 そんなつもりは微塵もなかった。ただ言い出す機会を逃しただけで、悪意はない。


「いつか、俺に自分の正体を言うつもりだったのか?」


 その質問には答えられなかった。

 自分でもよく分からない。いつかは知らせなくてはという焦燥感を抱えながらも、このままでもいいと思っていた節も確かにあったからだ。

 この関係を壊してまで名乗るべきことなのか。

 自分が龍妃であることよりも、シュカでることを優先していたかったからかもしれない。


 ここで頷いておけばいいものの、シュカはこれ以上嘘を重ねたくなくて沈黙する。

 だが、それに宸柳がひっかりと覚えたようだ。

 眉間に皺を寄せた彼の糾弾は次第にきつくなる。


「俺はお前の信頼を得られていなかったのか?」

「…………」

「それとも、今まで放っておいた意趣返しか?」

「…………」

「今日逃げたのはどうしてだ? それと関係があるのか?」

「…………」

「シュカ」


 硬い声で名前を呼ばれ、シュカはビクリと肩を震わせた。


 けれども、言葉が出てこない。宸柳に向けられる言葉を用意できないのだ。

 

 正体が知られてしまったときの情景を、何度も頭の中で描いていた。そのたびに想像の中の彼はシュカに腹を立てて、詰り、そして二度とあの場所に来なくなってしまう。

 どんな言葉を並び立てたとしても、結局は騙していたことには変わりはない。

 それなのに、どんな言葉を言えようか。

 

しかも、今は気が昂っていて、冷静ではなくて。半ば興奮状態のままの自分が、これ以上口を開いたらどんな言葉が飛び出してくるか分からない。


喧嘩したいわけではない。

でも、喧嘩腰になってしまいそうだ。


今にも、気持ちが決壊して、身も世もなく泣き出しそうになっているのを我慢しているというのに。


「――お前にとって、来春、ともに人参を食べようと言ったのは……そう大事な約束ではなかったのだな」


 そんな風に勝手に決めつけられて言われてしまうと、足元で燻っていた血が一気に上ってきてしまう。

 堰を切ったかのように咽喉の奥底から熱いものがせり上がってきて、それが大粒の涙に取って代わっていった。


 気が付けば、シュカは歯を食いしばりながら悔し涙をとうとうと流していた。


「……そ、そんなわけないじゃない! 大事だった! 大事だったわよ! 何よりも楽しみにしていたし、窮屈なここでの生活の希望だった!」


 自分の胸の袂の合わせ目を、消化しきれない悔しさを握り潰すように懸命に掴む。

 今だって、心の臓がひしゃげてしまいそうなほどに辛い。辛くて辛くて、逃げ出したくなるほどに。


「でも、もうどうしようもない! だって、畑は玉麗たちに荒らされてしまったもの! せっかく出た芽も潰されて、せっかく作った土壌も踏み固められて! 全部なくなってしまったの! 来春の約束はもう果たせない!」


 声を枯らさんとばかりに叫ぶ。

 シュカがいくら大事に思おうとも、周りはそれを簡単に踏みにじるのだと。

 

 宸柳は、畑が潰されたと聞いて動揺していた。腰を浮かせて何かをまた問い質そうとしていたが、その前にシュカが彼から離れるように椅子から立ち上がる。


「どうして逃げたかですって⁈ 侍女たちに部屋の中を探られて、隠していた下女の服が見つかったからよ! 畑を踏み荒らされた挙句、陛下にもらった書の見本を破り捨てられたからよ! ――全部、全部、私の宝物だった! それを龍妃だからとか、藩家のためだとか、鈺瑤様のためだとか、私にとってはどうでもいいことで勝手に私のことを決めつけて、皆勝手に奪うから!」

「……シュカ」

「私はただ、ムラにいたときのように生きがいを持って生きていたかっただけよ! 好きなことをさせてもらえず、学ばせてももらえなくて、秀英様の指示に雁字搦めにされて自由を奪われて! いつ来るかも分からない陛下の来訪を待つだけの日々を強要された私が……唯一見つけた……生きがいだったのに……」


 うぅ~……と呻りながら、シュカは嗚咽を漏らす。もう涙はとめどなくて、顔もぐちゃぐちゃで、感情もまたぐちゃぐちゃになる。

 ずっと降り積もっていた鬱憤や怒りや不安をすべてぶつけるように、シュカは叫び続ける。誰にも届けることができなかった言葉を今、宸柳に向かって。


「もう嫌……私を、私をこのまま放っておくなら……自由にしてよ……」


 おまけだっていい。鈺瑤の邪魔をするなというのであれば、しないと約束する。だから、自由を与えてほしい。当たり前のように他の人に与えられるものと同じようなものが欲しいだけなのだ。


「……シュカ」


 掠れた声で名前を呼ぶ宸柳が腰を上げて、ゆっくりとこちらに近づいてくる。

 シュカは、それを拒むように首を横に振って一歩下がった。


「……いや……こっち来ないで」

「シュカ」


 それでも宸柳は近づいてくる。

 彼の金色の瞳が慈しみと、申し訳なさに濡れていて、近づいてほしくなった。


 憐れんでほしいわけではない。

 慰めてほしいわけではない。


 ただ、暴力のように気持ちをぶつけたかった。消化しきれないものを吐き出すように、宸柳に投げつけてやりたかったのだ。受け止めてほしいわけでもなかった。


 だから、こちらに近づく宸柳から逃げた。

 足を後ろに下げて、いやいやと首を横に振りながら宸柳を拒絶していたのに、背中に壁がついて逃げ場を失う。

 その瞬間、力をなくすように地面にへたり込んだ。

 

「シュカ」


 宸柳の、優しく宥めるような声が聞こえてくる。

 近くで、すぐ側で。


 触れてほしくない。優しくされたくない。

 心を剥き出しにしてしまった今、優しく触れられたら。


「――すまない、シュカ」


 目の前で傅かれ、この身体を包み込むように抱き締められてしまったら。


「……っ……ぅっ」


 縋りたくなる。

すべてを預けて、助けてと叫びたくなる。


必死に保っていたものが脆くなって、ポロポロと剥がれていくのだ。自分は平気だという強がりが呆気なく落ちて、シュカを丸裸にする。


声を上げて泣いて、ただひたすらに声が嗄れ果てるまで泣いたその夜。

宸柳は、震える身体を抱きしめてくれていた。


ぬくもりと、優しさと、慈愛と、そして罪悪感と憐れみと。

宸柳の与えてくれるそれらは、少し居心地が悪くて。

でも、シュカの荒れ果てた心はゆっくりと癒されていく、


潰れてしまったけれど、あの畑もいつかこんな風にまた一から均していけたのなら、宸柳と一緒に育てた作物を食べるという約束を果たせるだろうか。

シュカはふと自分の諦めの悪さを思い出す。


どれほど無駄だとムラの人間に馬鹿にされても、日照りに強い種を作ろうと躍起になっていた昔の自分。

交配が上手くいかなくて枯れても、失敗してまったく育たなくとも前を向いていた。


雑草のように踏みつけられても、起き上がる。

すさんだ心も、畑もいつか。


必ずいつか。




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