24.瓊妃という女
衛兵曰く、瓊妃は部屋で錯乱し、侍女たちを殴り飛ばしたあとに後宮から逃走。おそらく、璜呂宮の外へと出ようとしているのだろうと。
瓊妃の行方は秀英の指揮のもと、衛兵たちが総出で探している。どうにか外に出すまいと皆が躍起になって探している最中のようだ。
「どうなさるのですか」
「決まっている。これを機に、瓊妃に会う」
廊下を突き進む宸柳の後ろから晧劾が問いを投げかけてきた。それに即答し、はやる気持ちのままに後宮へと赴く。
これは千載一遇の機会だ。
衛兵がひっ捕らえてきた瓊妃に会える、これとない機会。
待っている秀英の隣に控えていれば、それは自ずとやって来る。
「秀英」
後宮に入り、彼の元に赴くと、あからさまに鼻の頭に皺を寄せた。何故ここに来るのかと、文句のひとつでも言いたそうだ。それでも口に出さないのが、董秀英という男だではあるのだが。
その代わりに矛先を別に向けてきた。
「どうされたのですか、陛下」
「瓊妃が逃げたと聞いてな。様子を見に来た」
「わざわざ足を運ぶほどのことでもありませんのに。瓊妃様が少々悋気を起こしましてね、後宮を飛び出しただけです。これだから、陛下の御前には出せないのですよ、あの方は」
やれやれと呆れた顔で瓊妃を蔑むような言葉を吐く。
宸柳は、その言いように少々苛立ちを覚えながら、冷たい一瞥をくれた。彼女を後宮から出さないのは、自分たちの都合のせいだろう。身勝手な理由で閉じ込めているに過ぎない。
それを知っているからこそ、宸柳のためだとのたまい、瓊妃からすべての機会を奪っている秀英には嫌悪感が増す。
瓊妃に会ったのは、たった一回だけだ。
婚姻の儀のとき、龍の前で夫婦の誓いを共に立てた。
突然龍妃となって戸惑っていたのだろう彼女は、痩せ細って窪んでしまっていた大きな目をきょろきょろとさせていた。
裾から覗き出た手首は、子どものものかと思うほどに細くて骨が浮き出ていた。日焼けで肌の色も黒く、まるで枝が服を着ているようだと驚いた覚えがある。服の方が重くて、ぺしゃりと潰れてしまうのではないかと、儀式の最中に隣に並んでいてハラハラもした。
きっと、後宮で暮らすようになれば、飢えることもなく健康的になるだろう。故郷にいるときよりも幸せに暮らせるのではないかと思っていた。
それが驕った考えだとも気付かず。
自由を失った彼女は今、それを求めて外に飛び出そうとしている。
「逃げ出したくなるようなことがあったに違いまい。ならば、俺が彼女の話を直接聞こう」
今、宸柳にできるのは、そんな勇猛な彼女を秀英から守ることだ。今の今まで、何もしてあげられなかった不甲斐ない男だったが、今度こそはと前に進み出る。
「いいえ、それは私の仕事でございます。陛下の手を煩わせるほどのことでは……」
「ほぅ……瓊妃は一度しか会ったことがないが、それでも我が妻。会ってはいけない理由があるのか?」
「ですからそれは、瓊妃様はいまだに粗野な部分がまだあるためでして」
「一年以上もかけて教育したのに、いまだに成果を出せていないのはお前のやり方が間違っているからではないか? 文字のひとつも教えてやらぬのが、お前の言う教育か?」
秀英の顔が気色ばむ。宸柳がそこまで知っているとは思っていなかったのだろう。
鈺瑤の話は積極的に耳に入るが、瓊妃の話はほとんど入ってこない。まるで緘口令が敷かれているかのように。宸柳の中から瓊妃の存在を忘れさせるかのように。
「だから、俺が直々瓊妃に話を聞こう。お前のやりようも含めて、……何かしら訴えたいこともあるだろうからな」
「陛下!」
とうとう、彼は焦りのあまり感情を露わにした。しめた、と宸柳の気持ちは前のめりになる。だが、それを抑えて冷静に言い放つ。
「そんなに慌ててどうした。――俺と瓊妃が会うと、何か不都合なことがあるのか?」
「……それは……いえ、特には。ですがよろしいのですか? このことを藩家に知れても。もし、知られたそのときは……」
「お前の失態も知られるだろうな、秀英」
「……っ!」
サッと秀英の顔色が変わる。
そうこう言っている間に、遠くの方から松明の明かりが見えて、数人の足音が聞こえてきた。
両脇を衛兵に捉えられ、項垂れている女が一人。
――瓊妃だ。
「ご苦労、皆の者」
秀英が衛兵に声を掛ける前に、宸柳が先んじて労いの声を掛ける。すると、皆の視線がこちらに集まって、必然的に宸柳が話の中心となる。龍帝を退けてまで秀英が話を進めることができず、青褪めながら口を開閉していた。
「瓊妃は無事か? 怪我はないか?」
「はい。多少の汚れや擦り傷はありますが、大きな怪我はないようです。庭園を抜けて、西側の外壁をよじ登って外に出ようとしていたところを捕まえました」
「そうか、ご苦労」
随分と遠くまで逃げたようだ。もう少しで城外まで出てしまうところだった。
とにかく、大きな怪我もなくて何よりだが、瓊妃の姿を見ると、彼女がどれほど必死に逃げようとしていたのかが窺い知れる。
黒い髪は乱れ、帯が緩み襟が大きく開かれていた。そのせいで中に着ている汗衫(肌着)が見えてしまっている。襦裙の裾も破けて、足元は泥だらけだ。手は布で覆われていて、それだけでも痛々しい。
衛兵たちに両腕を掴まれたその姿は、罪人のようにも見えた。
いたたまれなくて、宸柳は拘束を解くようにと指示をする。
ゆっくりと地面に下ろされた瓊妃は、顔を伏せたままその場に突っ伏した。
彼女の前に行き、その場に傅く。目の前の小さな身体がわずかに震えているのが分かった。
「顔を上げろ、瓊妃」
宥めるような声で言うも、彼女は顔を上げようとしなかった。
それどころか、フルフルと首を横に振り、拒絶の姿勢を見せる。
「問題ない、顔を見せろ。秀英には文句は言わせない」
彼が近くにいるから顔を見せづらいのかと思いそう言ったのだが、それでも瓊妃は顔を見せようとはしなかった。
何だ、どういうことだ。
宸柳は眉を顰める。
逃げ出して合わせる顔がないと思っているのか、それとも別の理由からか。何故彼女が頑なになっているかは分からないが、これでは埒が明かない。
仕方がないと、宸柳は最後の手段を取った。
「――命令だ、瓊妃。顔を上げろ」
ビクリと彼女の肩が大きく揺れて、指先で地面をゆっくりと引っ掻く音が聞こえてきた。
そして、おもむろに頭が動き、その相貌が露わになる。
一年以上前、初めて会ったときに見た窪んだ大きな目は、肉がついて健康的な目元になり、頬に赤みがさしていた。がさがさで薄かった唇も、桃色の艶やかなものになっている。日に焼けていた肌の色が白くなっていて、以前よりも随分と洗練された風貌に変わっていた。
枝かと思われた手首も年頃の女性並みの太さになり、黒に金が混ざったつぶらな瞳から、滂沱の涙を流し、こちらを睨みつけるように見ていた。
昔の面影はまったくなく、宸柳の記憶の中の瓊妃とはまるで別人だ。
――別人のはずなのに。
それなのに、宸柳は彼女のその顔に見覚えがあった。
目を凝らして何度も見ても、幻かと瞬いても、目の前にいる瓊妃の顔は知っている顔だった。
「――シュカ」
下女であるはずの彼女の名前を呼ぶ。
ここ最近、秘密の場所で逢瀬を重ねてきた人の名前を。
瓊妃――シュカは、口を引き結んでそっぽを向く。
その仕草が、他でもない彼女がシュカ自身だということを白状しているような気がした。