23.将晧劾
夜鷹の鳴き声を聞きながら、執務机に積まれた草案をひとつ手に取った。
どれもこれも、首都・辰耀を中心とした発展案で、おもに利を得るのは貴族ばかり。もしくは己の領地が栄える、何とも利己的な案ばかり。藩氏におもねるものも見受けられる。
宸柳が藩家の当主を丞相の地位から追い出してしまったために、一度は落ち目になった権力を盛り返そうと必死なのだろう。
後宮の掌握も然り。
宸柳は重苦しい溜息を吐いて、草案を山の上に戻した。
手に入れるはずがない地位だった。
龍に選ばれるなどまさに青天の霹靂。
けれども、天命を受けたのならば、己のでき得る限りのことを果たしたい。
周りに促されるがまま、思考を放棄してすべての案を通すのは楽だ。
あとは、財政を担う三司に任せ、裁量を丞相に任せる。そう考えると皇帝の仕事いうのは印璽を捺し、子を成せば義務を果たせたとなるのだから、気楽なものだ。
けれども、宸柳はそれをよしとしない。
自分をどういう立ち位置に置くのか、龍帝になってから悩み続けていたが、最近ようやく見えたような気がする。
ひとえに言えばシュカのおかげだ。
彼女が、宸柳が龍帝としてやるべき道を示してくれた。
そのつもりはなかっただろうが。
母も平民だった。後宮に召し上げられたが、宸柳が小さい頃にはよく下町での暮らしを話してくれた。決して楽な暮らしではなく、祖父が武勲をあげるまでは毎日食べ物の心配をするほどだった。
特に旱魃のときは、市場に食べ物が並ばずに、冬前に拵えた保存食で細々と繋げ、それがなくなれば米櫃の底をさらうような生活をしていたのだと。
『銭はあっても、ああいうときは何の役にも立たないのよ』
いつか苦笑いをしながら話してくれた母の言葉を思い出す。
シュカも同じことを言っていた。
龍が現れなくなり、この国は半ば機能不全に陥った。
天候を操れないことがいかに不利益をもたらすか。安定した作物をもたらすことができず、海は荒れて漁出ることができない日も続き、結果人々に継続的に食料を供給することが難しくなった。
その間、皇帝はじめ何をしていたかというと、龍を再び呼び戻そうと儀式を繰り返していた。
ある者は龍の伝説が残る土地に赴き龍を探し、ある者は祈祷をし、ある者は龍に関する文献をひっくり返しては解決策を見出そうとしていた。
誰一人、国民の生活を省みようとしなかった。
いつか龍が現れればすべてが解決すると思っていたからだ。驕りとも言ってもいいだろう。
そして百年もの時間を無駄にした。
シュカが再び龍がいなくなることを恐れるのは当然だった。
また、龍に依存しない暮らしを目指そうと考えるのも必然。雑草を食み、木の皮を食べる生活をしていた彼らには、命がけの訴えであるに違いない。
宸柳はそれを見てみぬふりをすることはできなかった。
平民の識字にしてもそう。
足元ばかりを見ていては気付けなかった。視野を広く持っているつもりではあったが、所詮宸柳の思う広さなど、大したものではなかったのだ。
シュカは宸柳に気付きをくれる。下女であるというのに、臆することなく真正面から向き合ってくれるのだ。彼女の真摯さに戸惑うこともあるが、やはり好ましいよ思うのだ。
居心地が良くて小気味いい。シュカとの時間は、充足と刺激で満ち溢れていた。
「何かめぼしいものはありましたか?」
そう言いながら、さらに草案を持ってきた男は執務机の上にそれをどさりと置いて聞いてきた。
また山になったとうんざりとした顔で見上げた宸柳は、舌打ちしそうになった。
「これはまた、中書省の連中も張り切っていることだ」
「それはもう。どうにか陛下のお役に立とうと必死なのですよ」
「取り入ろうと必死、の間違いだろう」
「あらあら、随分とやさぐれておいでで。まぁ、その通りなのですが」
長身で腰まで伸びた長い髪を緩く結わえた彼は、困り眉をさらに下げてニコリと笑う。
彼――将晧劾は宸柳の政務の補佐をしている丞相だ。追い出した藩家当主の代わりに据えたのが、まだ年若い彼だった。
晧劾はその相貌もそうだが、性格も狐のような人間で、初めて会ったときから食えない男だった。
離宮で暮らしていたときからの知り合いなのだが、璜呂宮で働く三司の役人のくせにわざわざ足を運んでくるような変わり者だ。
彼は離宮の財務を担当で、通常であれば上がってきた報告書を読んで査定するだけで終わるはずなのに、何故か毎月やってきては直接その目で確認しに来た。
その折、やたらと宸柳に話しかけてきたのだ。
自分なんかに取り入っても何も得はないだろうに、それでも晧劾は宸柳と交流を持ちたがる奇妙な男だった。
それが功を奏して、今では丞相の立場に収まっている。
先見の明があったのか、それともただの偶然か。
だが、晧劾が優秀であることは変わりはなかった。
「どれもこれも似たり寄ったり、面白みもなければ国の将来を見据えて考えたものとは到底思えないものばかり。率直に言えばつまらない」
「言いますねぇ。まぁ、その通りなのですが」
「お前なぁ……そう思うなら、少しはお前の方で精査してから持って来い」
「すべてに目を通したいと思いまして。貴方、そういう性分でしょう?」
こういうとき、長い付き合いというのは忌々しい。こちらの性分を見透かして動くものだから、癪に思えてしまう。
けれども、身近で彼以上に信頼できる男はいないのも事実。宸柳が何かあったときに頼ってもいいと思えるのは晧劾だけだった。
それは丞相だからではない。
ときおり腹は立つものの、彼が宸柳を易々と裏切るような軽薄な人間ではないと知っているからだ。
だから、普通なら非難を浴びるであろう話もできる。
「なぁ、晧劾はどう思う。龍に依存しない国をつくるという考えは」
もし、この話題を議場に出したら、間違いなく喧々囂々と責め立てられることだろう。
龍の力を疑うのか。
龍帝の立場を放棄するつもりなのかと。
それは晧劾も分かっている。だから、しばし困ったように微笑み、「うう~ん」と呻っていた。
「とても波乱を呼ぶ、面倒くさい考えだと思います」
「だろうな」
「けれども、龍帝たる貴方が何故そのような考えに辿り着いたのか、それに興味があります」
少しは興味を持ってくれた晧劾に、シュカの話をしてみせる。
もちろん、畑で会っていることは伏せて、先日偶然会って話をした侍女に聞いたのだと前置きをして。
加えて、自分がどんな統治者になりたいのか。朧気ではあるが、輪郭が見え始めたその想いを打ち明けたのだ。
しばらく頷くこともなく、本当に聞いているのかどうかも分からない顔で聞いていた晧劾だったが、話が終わると途端に口を開いた。
「実現するには何かと反発を食らいそうな夢ですねぇ」
茶化しているのか、それとも暗に反対しているのか。どちらにせよ、晧劾の反応はよくないものだった。
分かっている。絵空事に近いということは。
喫緊の課題ではない限り、優先すべきではない。どちらにせよ、天候は宸柳が操れるのだから、今今解決するものではないのだ。有事に備えるのは二の次。
けれども、また突然神通力を失ったら。
龍の力を盲目的に信じていいのか、宸柳は分からなくなってきていた。
「いずれにせよ、財政の問題も含めて、龍に依存しない国づくりをするということに意義を皆が見出せなければ賛同はどうあっても得られないでしょう。龍を疑えばまた天罰が下ると言い出す者もいるかもしれない」
「天罰、な。与えられたものを取り上げられたことを天罰と言うのも、またおかしな話だな」
そもそも、大昔は龍の力などなくとも人々は生きていた。空白の百年も犠牲は大きかったものの、国は崩壊せずに保てたし、他国など一度たりとも龍の加護を得たことがない。
人は龍がいなくとも生きていけるのだ。
シュカの言う通り、この国は龍に依存している。
「だが、反対されようが何だろうが、俺は龍がいなくとも豊かに暮らしていける国を目指したい。龍帝になったからには、未来に残る何かを残したい」
十年後、百年後、千年後、また訪れるかもしれない未来に向けて備えられる何かを。
「骨が折れる話で。頑張ってくださいね」
「他人ごとのように言うな。お前も巻き込んでやるに決まっているだろう」
「安易に人を巻き込まないでくださいよ。結局藩家という強大な力に立ち向かうとかそういうことになるのでしょう? とても面倒くさいじゃないですか。今はどうあっても強く出られないお立場なのに、それ以上の重荷を背負うと?」
「面倒くさいことを引き受けるのが丞相という仕事だろう?」
「違います」
およよ、とわざとらしく泣く真似をする晧劾を胡乱な目で見つめる。
口ではこう言っても、やるときはやってくれるのだろう。そうでなければ、彼を丞相に据えた意味がない。
「さて、そろそろ、鈺瑤様の元に通うお時間ではないですか? あまりに遅いと秀英殿からまたお小言を貰いますよ」
「……あぁ、そうだな」
今日もこの時間がやってきたかと、鬱屈とした気持ちになった。
毎夜毎夜、後宮に通い鈺瑤に会いに行くのは、いまだに気が乗らないのだ。
ところが、そうせざるを得ない理由がある。
龍帝である限り、龍妃である彼女から聖力を貰わなければならないのだ。そうでなければ、宸柳はたちまち龍帝としての力を失ってしまう。
毎夜通っているものの、夫婦としての契りを結んだことはない。初夜も、聖力ももらうだけで房間に泊まることなく帰っている。
それは龍聆への遠慮もあるし、鈺瑤の後ろにいる藩家への反骨心からでもあった。いくら夫婦の体をなしていても、子をなせなければ藩家が望む力は手に入らない。
聖力をもらったあと、すぐに房間を出ようとすると、鈺瑤がいつも縋るような目でこちらを見てくる。その目が苦手だった。
「あと、そろそろ瓊妃様にお会いできるようにしませんと。視察はふた月後ですよ」
「分かっている」
「あの頭の固い秀英殿をどうにか説得できればいいのですがねぇ。本当は罷免にできれば手っ取り早いのですが……面倒ですねぇ」
「それこそ、藩家が黙っていない」
シュカには龍聆が何か企んでいるのではないかと心配になって、瓊妃の様子を探ってほしいと言ったが、実は宸柳にはどうしても瓊妃に会わなければならない理由があった。
ところが、それを公にしてしまうと、鈺瑤側は都合が悪い。彼女の龍妃としての立場が危うくなる可能性があるからだ。
瓊妃を中心に、宸柳と藩家の思惑が渦巻いているのだが、現状こちらの分が悪い。後宮をほぼ藩家の掌握されてしまって、付け入る隙がなかなかないのだ。
だから、針の穴のような小さな綻びを探していた。
そして見つけたのが、シュカだった。
「今は探らせている最中だ。何かあれば、こちらから打って出る」
「その際は、私は後ろの方で声援を送っておりますね」
「お前なぁ……」
憎まれ口はほどほどに、と言おうとしたところで、バタバタと騒がしく走り回る足音が聞こえてきた。一人ではない、複数人の衛兵の足音だ。
「何やら騒々しいですね」
晧劾も異変を察知して、スッと顔を戻す。宸柳は立ち上がり廊下に出ると、皆が庭園の方へと向かっていく。
「何があった」
衛兵の一人を捕まえて聞くと、彼は一拝して答えた。
「どうやら、後宮から逃げ出した方がいると」
「誰だ。侍女か?」
それだけならば、こんなにも人手を駆り出さない。
もっと重要な、すぐにでも見つけ出さなければならない人物だ。
――もしや。
「瓊妃様です」
思わず晧劾と顔を見合わせた。