19.慧寧妃
「随分と力仕事なのだな、畑仕事というのは。重くないのかそれは」
天に向けて鍬を頭上に上げているシュカを見て、宸柳が驚いた顔で聞いてきた。
驚いたのはこちらも同じだ。まさか今日やってくるとは。
「慣れですよ。意外と慣れるとなんでもこなせるものです」
もういつから農具を持っていたかなど覚えていない。重くて大変だと思ったのはいつが最後だっただろうか。シュカは翁に貸してもらった鍬の柄を見る。他人のものだが、随分と馴染んだものだ。
「今は何をしているんだ?」
「土壌作りですよ。人参を植えるために土をまた柔らかくして、堆肥と混ぜるのです。少し時間を置いて種を蒔きます」
先日、芹菜をすべて収穫し終えた。宸柳が来ていたとき収穫したものを彼にあげたりしたが、他は大半を翁にあげてしまった。
シュカが持ち帰っても料理をすることができない。生で食べてもいいが、香りの癖が強いのでこれ単独ではなかなか食べ切るのはしんどい。
それに生ものは足が速く、すべてを食べ切れるとは思えなかった。
翁にはお世話になっているからと渡すと、彼は喜んでくれた。
シュカは手元に残ったひと束を持ち帰って、こっそりと食べた。自分と、そして宸柳が手伝ってくれてここまで育ったそれは、今まで食べた中で一、二位を争うほどに美味しかった。
またあの感動を味わってみたくて、シュカは宸柳にもらった種を蒔くことを楽しみしながら鍬を振り下ろす。
人参も胡麻もきっと美味しい。
丹念に手づから育てることは、シュカの唯一の生きがいだった。
「手伝おうか?」
「いえ、もう少しで終わるので大丈夫です。どうぞ、座って待っていてください」
シュカがそう言うと、宸柳は休憩用に置いてある丸太の上に座る。手持ち無沙汰なのだろう、こちらをじぃっと見つめていた。
「先日お会いしたばかりなのに、また来たのですか? 早いですね」
「あぁ、気になることを聞いたのでな」
シュカは手についた土を払い、首に巻いた手拭いの端で汗を拭く。一通り身綺麗にすると、宸柳の隣に腰を下ろした。
「ほら、今日はこれだ」
「ありがとうございます!」
紙包に入ったそれを手渡されたシュカは、さっそく中身を確認する。
「粽!」
「あぁ、食べてみろ」
いつからか、宸柳はここに来るときに茶点(お菓子)を持ってきてくれるようになった。
シュカも、瓊妃でいる間はお茶とともに出されるのだが、畑に行くときは賄賂として双子の侍女に渡しているので、いつも茶点にありつけない。
農作業で腹を減らしたシュカには、彼が持ってきてくれる茶点はまさにご馳走だった。
「餡子が入っている!」
「エツという茶点だ。俺も好きなのだが、今日ちょうど出てな。お前に食わせてやかったんだ」
美味しい美味しいと頬ばるシュカを見て、宸柳が嬉しそうに微笑む。シュカは思わず咽喉にエツを詰まらせそうになった。必死に呑み込んでことなきをえる。
おそらく他意はないのだろう。
けれども、シュカの喜ぶ顔が見たくてと言われているようで、気恥ずかしくなる。
それもこれも、饕餮があんなことを言ったからだ。
蜜月などと。
二人の間にそんなもの、あるはずがないのに。
「聞いたぞ。どうやら瓊妃が鈺瑤を呪ったと疑いをかけられたようだな」
「……あ……あー……そうでしたね」
なるほど今日はそれを聞きに来たのかと、シュカはそろりと目を逸らした。
「障りは聞いたが、いろいろと腑に落ちない部分がある。話してみろ、後宮ではどのような話になっているか」
「そうですねぇ……」
考え込みながら、シュカは口を塞ぐようにエツを食んだ。
あれが起きたのは四日前のことだ。
その間、流れた噂といえば、明明がいつの間にか後宮からいなくなっていたということのみ。
朝になったら荷物が消えていて、明明の姿もなかったようだ。
鈺瑤にも秀英にも何も告げずにいなくなった彼女のことを、後宮の人間は好き勝手に噂をしていた。
本当は、明明があの符を置いたのではないかとか。
または、瓊妃が犯人のような口ぶりで問い詰めたために、瓊妃に報復されるのではないかと恐れて逃げたのではないか、など。
もしくは単に居づらくなって消えたか。
有力視されているのは、瓊妃に報復される前に逃げたという説だが、それが本当であるのなら逃げ損というものだ。シュカは腹は立ったが、わざわざ報復しようとは思わない。
「つまり、その明明という侍女が、瓊妃に罪を被せようとして符を仕込んで騒ぎ立てた、という筋道が立てられるわけだな?」
「結局犯人は見つからずじまいだったようなので、必然的に突如として姿を消した人を疑いたくなりますよね。……でも、それが本当なら、明明はどうしてそんなことを」
鈺瑤への忠誠心? 彼女のために瓊妃を追い出そうとしたとか?
でも、もしもあの符が本当に効力を持って鈺瑤を呪っていたらどうなっていたのだろう。
いろいろと疑問は残る。
「誰か後ろで操っていたか、もしくは脅されていたか」
「それは、瓊妃様を追い出すために?」
「だとしても、少しばかりやり方が稚拙だがな」
たしかに、実際あのときシュカには十分反論の余地があった。明明をやり込めたし、龍聆が味方になってくれたので、その場で潔白を証明することができたのだ。
もっとやりようはあっただろうに。
「少し聞いたのだが、瓊妃は自ら書を書いて疑いを晴らしたらしいな。自分は文字は書けませんと言って」
「そ、そのようで……」
そんなところまで宸柳の耳に入っていたのか。
まさか手紙の内容までは聞いていないよな? とシュカは戦々恐々とした。
「……本当だったのだな。シュカの言う通り、農村の者たちは文字を知らない。瓊妃もそうだったとは」
宸柳が落ち込んでいるように見える。
シュカだけではなく自分の妻である瓊妃までもが学がないということに、衝撃を受けたのだろうか。二人が同一人物だと知らない彼は、こんなにも身近に文字を知らない人間がいるということが信じられないのかもしれない。
「しかし、何故瓊妃はいまだに文字を書けない。ここに来てもう一年以上も経っている。勉強もしているのに、それすらもまだままならないと言うのか? だから、秀英はなかなか瓊妃に会わせたがらないのだろうか」
うぅん、と眉間に皺を寄せて宸柳は考え込んでいた。
もしかすると、今しかないのかもしれない。
宸柳に訴えるのは。
シュカも学びたいと願っているのに、何故か文字に触れさせてもらえないということを彼に言って、どうにかしてくれないかと。
昂る気持ちをどうにか静めて、シュカは口を開く。
「……私が聞いた話では、瓊妃様が文字を書けないのは、どれほど侍女や秀英様に頼んでも学ばせてもらえないからだと聞きました。龍聆様との講義ですらも教本もなく、すべて口頭なのだとか」
「……なんだ、それは。秀英たちが瓊妃に文字を学ぶことを禁じているというのか」
驚愕し、目を見開く宸柳に、シュカは深く頷く。
「学は必要ないとまで言われています。何故そこまで頑なに拒絶するのか。……田舎の身分の卑しい者にはそんな資格がないとでも言うのでしょうか」
自分で話していて悲しくなる。
出自、身分云々で差別を受けることは残念ながらよくある。
けれども、自分ではどうにもならないことで機会を奪われるのは、悲しいことだ。
シュカだって、好きで農民に生まれたわけではないのに。
宸柳はしばし難しい顔をして考え込んでいた。
これを話したら、彼がどうにかしてくれるのではないかという淡い期待は持っている。だが、逆に宸柳がどうしようもないと言ってしまえば、どうにもならないのだろう。
期待をしたいのと、希望を潰されたくない気持ちと。シュカの中でそれらがせめぎ合う。
「――おそらく、それは慧寧妃のことがあるからだな」
「けいねいひ?」
宸柳は神妙な顔で聞いたことのない人物の名前を出してきた。