10.文字
「なら調査結果を紙に書いて、この石の下に挟んでおいてくれ」
宸柳が、すぐそばにあった漬物石大の石を指さす。
シュカはそちらに目をやったが、すぐに苦虫を噛み潰したような顔をして彼にまた視線を戻した。
「……私、字の読み書きできないのですが」
「そうなのか?」
宸柳は意外そうに眉を上げてこちらをまじまじと見る。
「地方の民は、文字の読み書きを必要とはしないと聞いていたが、お前もそうなのか?」
「ええ。私は弥福州の農村の生まれですから、学も何もなく」
「弥福州から? それは随分と遠くから来たものだな。まだ若いのに……ん?」
物珍しそうにシュカを上から下まで見ると、さらに顔を覗き込んできた。正確には目を覗き込んできて、宸柳の金色の瞳とかち合う。
「お前、もしかして、龍妃選定に来たのか?」
「え?」
何故それを? と、シュカは思わず後退る。もしかして正体がバレてしまったのかとハラハラしながら、胸元をギュッと握り締めた。
「黒目に金色が混じっている。聖力が強い証拠だ。それで選ばれてここまで来て、そのまま下女として働くようになった。龍妃に選ばれなかった者の中にそういう道を選ぶ者もいると聞いたことがある」
「……あ、なるほど……そうですね、その通りです」
当たりだろう? と自慢げに言う宸柳に、シュカは何度も首を縦に振る。なるほどそんなこともあるのかと驚きながらも、その話に便乗した。
よかった、自分が瓊妃であると知られたわけではないと安堵しながら、気を取り直してシュカは宸柳に再度訴えた。
「とにかく、陛下が思っている以上にこの国の民は、文字の読み書きはできません。学び舎もなく、幼いころから農作業に駆り出されるのです。学は必要ないと」
シュカであっても瓊妃であっても、ずっと学びは必要ではないと言われてきた。まるで呪いのように。学びたくとも、その機会は平等には与えられないのだ。
「配慮が足りなかったようだな。……すまない。俺は国を統べる者としてまだまだのようだ」
「別に陛下のことを責めているわけではなく……」
どちらかというと、ここに至るまでそこら辺の政策を講じてこなかった歴代の為政者に呆れている。龍の力を笠に着て、足元しか見てこなかったのは近年の飢饉を見るに明らかだ。
「それで、私は口でのやり取りしかできないのですが、それでも私に間諜を頼みますか?」
使うには結構不便であると訴えたかったのだが、宸柳は、ん? と首を傾げる。
「それは問題ないだろう。俺がここに来ればいい」
何か問題があるのか? と至極当然のように言ってのける。
「お前はここで毎日人目を盗んで畑を耕しているのだろう?」
「そうですが、来る時間帯は日によって変わってきますよ?」
「仔細ない。会えたときに聞ければいい」
そんな適当でいいのだろうか。いや、たしかにそれしか方法はないのだろうが。
毎日畑には来るので、そのついでに密偵をした成果を伝えればいいか、畑仕事のついでに。
シュカはそう軽く考えて小さく「分かりました」と返事をした。
今は気安いが宸柳は龍帝だ。
下手に逆らって大ごとになっても困るので、ここは大人しく従った方が身のためだろう。
「ならば、よろしく頼むぞ……えぇっと、名は何と言う」
「……シュカにございます、陛下」
「そうか、シュカ。よろしく。あとここでは俺は龍帝として振る舞うつもりはないので、毎回畏まるのはやめてくれ。頭も下げなくてもいい」
「頭も下げずに、そのまま作業を続けてもいいのですか?」
「あぁ。俺もここには文官の『遜堅』として来ていたつもりだったからな。すぐにシュカに暴かれてしまったが」
それは宸柳の変装があまりにも下手だからだと心の中で呟く。
「ここにいる間は、シュカにはどんな無作法も許すさ」
「……ありがとうございます」
宸柳に初めて会ったとき――婚礼の儀のときだが、こんなに親しみやすい人だとは思っていなかった。もちろん、シュカが必要以上に殿上人だと警戒していたこともあるだろう。
けれども、あのときの彼は鈺瑤とばかり話して、シュカにはそこら辺にある置物かのような扱いだったので、貴き血筋同士としか話さないのだろうとさえ思ったのだ。
シュカの元に通わないのもそのせいだろうと。
ところが、話してみるとそんな素振りはまったくない。
後宮にいる間にヒシヒシと感じていた貴賤意識というものを、宸柳から感じないのだ。一国の主だというのに、気安さを下女だと名乗るシュカにも許している。
(……そういえば、シュカと呼ばれたの、久しぶりだ)
瓊妃でもなく、後宮に入ったときに勝手につけられた瑩婕でもなく、馴染みのあるシュカという名を、ここ一年聞いていなかった。
感傷に浸ってしまったのか、胸の辺りが温かくなり、少し泣きそうになる。望郷の念に駆られたのだろうか。
「陛下って、陛下なのに陛下じゃないみたいですね」
「それはどういう意味だ?」
宸柳は心底不思議そうな顔をしていたが、シュカはこれ以上は言及しなかった。
この城で働いている、宸柳にとっては臣下である人たちの方が居丈高で偉そうだ。
そんなことを言ってしまったら、また変な顔をされそうだから言わないが。
だが、どれだけ親しみを持てても彼は龍帝だ。
シュカの正体が分かれば、どう出るか分からない。
できれば顔を突き合わせて話すことなどないことを祈りながら、二人の変な協定は結ばれた。
瓊妃の様子を知りたい宸柳と、その瓊妃本人であることを隠して彼に協力するシュカ。何やら陰謀渦巻く後宮の膿を出すために手を組んだ二人といったところか。
シュカにとってはとばっちりだが。
けれども、この大きな箱庭で燻っているだけなのも嫌で、閉塞的な毎日から抜け出せるのであればという打算もある。
面倒くさいと思いながらも、結局は変化を求めていたのだろう。
もちろん、よい変化だが。
「それで、まずは何から探ってきましょうか」
「――瓊妃と龍聆の様子を探ってきてほしい。もちろん、下女のお前に側耳立てろとは言わない。噂程度でいい。二人についてどんな噂があるか知りたい」
「噂でいいのですか? 信憑性はないかと」
「往々にして噂の中に真実が隠れているものだ。ある程度こちらで精査すれば見えてくるものがあるだろう」
噂も馬鹿にしたものではないということか。なるほど、シュカは本当に話を持ってくるだけでいいらしい。
「了解しました」
まぁ、シュカが龍聆にされている話をある程度流せば満足するだろう。
「ところで」
「はい?」
シュカが、話題転換にそちらに顔を向けると、宸柳は地面を指さしていた。
「何を植えようとしているのだ?」
ある程度話が終わったら、興味が他に移ったのか、それともずっと気にしていたのか。思いがけない質問をされて、シュカは戸惑った。
「芹菜です」
「ふぅん……上手く育つといいな」
「……あの、陛下」
「何だ」
「わ、私の顔を見て、……その、何か気付くこと……ありませんかね?」
「ん? 気付くこと……? うぅーん?」
「―――――――い、いえ、いいです。何でもないです」
「おかしな奴だな」
そっちこそ!
と競り上がった言葉を懸命に飲み込んだ。