9.気付かない夫と気付かれない妻
「あの……私のようなはしためが、陛下のお顔を拝見するなど畏れ多い……」
「……俺は陛下ではない。遜堅という名の文官で」
「いえ、龍帝陛下ですよね」
あまりにも下手な誤魔化しに、シュカは思わず言い返してしまった。
やってしまったと思っても後の祭り。
タラタラと冷や汗を流しながら、さらに深く頭を下げた。
だが、宸柳はシュカの額に手を当てて無理矢理上を向かせた。
視界が開けた先に見えたのは、彼の拗ねたような顔と金色の瞳だ。
まずい、顔を見られた!
シュカは息を呑んだが、宸柳の意識は別のところに向いているようだった。
「何故俺が龍帝だと分かった」
身分を隠そうと偽名と偽りの身分まで用意していたのに、易々と見破られて悔しそうにしている。
シュカの正体を見破られた様子がなくてホッとしたが、逆に宸柳の変装は下手にもほどがあった。
むしろこれで見破れないだろうと思った理由を聞かせてほしい。
「さすがに分かります。そんな髪の色をしているのは、この国では陛下だけですから」
「え?」
「髪の毛、隠しているようですが見えています」
「……あぁ、そうか」
布を巻いて上手く隠したつもりなのだろうが、隠し方が甘くてひと房髪の毛が零れ落ちていた。
宸柳は毛先を摘まんでウウムと呻る。
「なかなか厄介なものだな」
龍帝となり身体に変化が起こった宸柳は、元々緋色の髪をしていたようだが今は毛先が銀色に染まっている。
そんな複雑な髪の色をしているのは、この国に二人といないだろう。
いつもきっちりと髪を結い上げているので、忘れてしまうのかもしれない。
シュカも龍華紋のことを忘れて翁に指摘された苦い思い出がある。
というか、この人、まったく気付いていないのだろうか。
シュカが瓊妃であるということを。
仮にも自分の妻だというのに、顔を見てもピクリとも反応を見せない。それどころか自分の正体がバレてしまったことに驚いて、こちらの正体を勘繰ろうともしない。
(……あり得ない……一度しか会ったことがないとはいえ、まったく気付かないなんて)
そんなことがあるのだろうか。
シュカもシュカで、宸柳の鈍さに驚きを隠せなかった。
妻の顔すら覚えていないのだ、この人は。
「まぁ、いい。とにかくここでの俺はいち文官だ。休憩場所でまで陛下はしたくない。だからお前もそんなに畏まるな」
「……はぁ」
どうでもいいとでも言うような口ぶりにカチンときたが、下手に言及してもこちらが困るだけなのでとりあえず怒りを治めた。
けれど、本当に気付かないのか。
胸の中にしこりのようなものが残る。
だから、畏まるなと言われても無理な話だ。
そちらはもう正体がバレて清々しているかもしれないが、シュカはいまだに正体を明かしていない。警戒心は持ったままだ。
このまま下女で話が通るのであれば、それでやり過ごしたいとさえ思っている。
自分が瓊妃であると知られてしまったら、この目の前の人はどんな態度を取るのだろう。
未知数だし、何よりこんなところで畑を弄っていることを知られたくはない。
何故か自分の隣に座るように指示する宸柳に渋々従い、少し間を空けて地面の上に腰を落とす。
高貴な彼はさすがに地べたに触れるのを躊躇ったためか、小屋の中にあった木箱を持ってきてそれに座った。
「銀鬣宮の下女ならばちょうどいい。ひとつ頼まれてくれないか」
「……え?」
嫌だ、と咄嗟に思った。
だが、そんな不敬なことを口にはできずに嫌な予感を抱えながら、反応を返さずに様子を見る。
宸柳はこちらの返事など端から待っていないとでも言うように、先に話を進めてきた。
「実はお前には瓊妃の様子を俺に教えてほしい」
「はぁ⁈」
自分の名前が出てきて、さすがに無反応ではいられなくなった。
よりにもよってシュカのことをシュカに報告しろと言ってくるとは。
たしかにシュカと瓊妃は別人だと思っているのかもしれないが、一度会っているのにまったく気付かないのもどうかしている。
少しも似ていると思わないのだろうか。
シュカは宸柳を信じられないものを見るような目で見つめる。
「……何だ、その目は」
「いやぁ……ちょっとあり得ないなぁと改めて思いまして」
「どういう意味だ?」
「い、いえ、……その、陛下はてっきり瓊妃様にはご興味がないのかと……」
「通っていないからか? まぁ、普通はそう考えるな」
そう言って難しい顔をして腕を組んだ彼は、ちらりと銀鬣宮の方へと目をやった。
しばし口を噤み、そしてこちらをちらりと見下ろす。
「お前相手にどこまで話していいものやら悩むところだが……」
「ある程度の情報をいただけないと、私も動きようがありません。ですので、協力するのは無理かと……」
「そうだな……。うーん、どこから話そうか」
話をまったく聞いてくれない。
もうすでに、シュカが手伝うことは彼の中で決定事項になっているようだ。
何なのだ、この人は。
シュカが自分の妻であることにも気付かないどころか、その本人に瓊妃の様子を探ってきてほしいと言ってくるとは。
冗談か?
それとも、手の込んだ嫌がらせか?
あり得ない事態に、シュカはやさぐれていく。
田舎者の娘で食指が動かないのだろうが、興味がないのにもほどがある。
げんなりしていると、宸柳は頭に巻いていた布を取り、前髪を掻き上げる。
その仕草が意外にも色気を纏っていて、シュカは胸を高鳴らせた。
(……この方、もともと見目はいいからなぁ。自分の夫だというのが信じられないくらいに。まぁ、お飾りだけど)
今さら小娘のようにときめいてしまっていることが恥ずかしくて、誤魔化すように少し俯き加減になった。
もちろん、宸柳はそんなことにも気が付かずに頭を悩ませている。
「単刀直入に言うと、瓊妃が狙われているかもしれないのだ」
「え!? い、命を?!」
ようやく出てきた宸柳の話は、とんでもなく物騒な言葉から始まった。
バッと顔を上げて目を剥き、宸柳に食って掛かる。
こんなにも理不尽な状況に耐え忍んでいるというのに、さらに狙われているなどとんでもない話だ。
「命ではない。龍妃としての立場を、だな。だが、事態によっては命をも狙われることになるかもしれない」
「そんな……」
シュカは青褪めてその場にへたり込んだ。
「本当は俺が銀鬣宮に赴いて直接瓊妃と話ができればいいんだが、今はそれができない状況にある」
「どうしてですか?」
「それを望んでいない者がいるとだけ言っておこう。一人や二人の話ではない。俺と瓊妃が近づくのを良しとしない者たちがこの璜呂宮に潜んでいる」
「それって……」
思い当たる家の名前を言おうとすると、その前に宸柳が己の口元に人差し指を当てた。
滅多なことを言うな。誰が聞いていなくても口にするな。
そういうことだろう。
そうなると、宸柳をシュカに近づけさせたくない者たちの正体は分かったようなものだった。
――藩家。
鈺瑤の家の者がそうなのだろう。特に彼女の父親がそうだ。可愛い娘の夫の周りに他の女を近づけさせたくない。
おそらく、宦官の秀英も一枚噛んでいるのか。
言葉にしないものの、肌で感じていた藩家の権力がここまでだとは。
龍帝である宸柳ですらも、彼の家を蔑ろにはできずに慎重に動いている。
思った以上に根深い問題のようだ。
「それで、最近瓊妃の元に龍聆が訪ねてきているだろう? 歴史の老師(先生)などと言って」
「ええ、まぁ」
龍聆の名前を出されて、少し気まずい思いを抱く。
仮にも妻である身で講義のためとはいえ他の男と逢瀬を重ねていたなど、できれば知られたくないものだ。
「二人がどんな話をしているのかを知りたい」
話と言ってもほとんど龍聆が一方的に話す世間話で、特に深いものはしていない。
あとは歴史の勉強ばかりだ。
しかも、龍に関することばかり。
シュカは義理は果たしたとばかりに即座に退席しているし、龍聆もそれを追ってはこない。
「特に面白い話はしていない……と、聞いておりますけど。講義に励んでいると」
「何故龍聆が瓊妃の老師(先生)を買って出たかとかは聞いているか?」
「……いえ、私の耳には入っていないです」
実際、龍聆本人も当たり障りのないことを言って明言はしていない。
シュカも彼の目的を量りかねているのだ。
だが、安直に考えれば答えは一つ。
「陛下はこうお考えですか? 龍聆様が瓊妃様を利用して、何か良からぬことを考えていると」
「……そうでないことを期待している、と言っておく。正直、龍聆がそんなことを企んでいるなど考えたくない。だが、あれほど優しい龍聆でもそう考えてしまうのではないかと思えるほどに、状況的に彼は厳しい立場に追いやられている」
「皇帝の座を奪われたから?」
「……お前は率直にものを言う奴だな。だが、そうだ。それによって龍聆はいろんなものを失った。それに唆す奴もいる」
宸柳は苦々しい顔で頷いた。
シュカからすれば、龍聆は他人の花園に勝手に出入りする身勝手な男に思えるのだが、宸柳にとっては優しい兄のようだ。きっと、シュカが知らない絆があるのだろう。
だが、兄弟とはいえ龍聆は正室の子、宸柳は側室の子どもだ。腹違いであるが故に、ただの兄弟愛では済まされない思いがそこにはあるのかもしれない。
目の前の煩悶する彼の顔が、それを物語っているような気がした。
「だから、中で何が起きているのかを知りたい。大ごとになる前に食い止められれば重畳。そうでなくとも、何か手を打つことができれば、と」
つまり彼は瓊妃の身を案じているわけではなく、頻繁に銀鬣宮に出入りしている龍聆の身を案じているのだ。
自分がその地位を奪ったことで、兄が愚かなことをするのではないかと不安なのだろう。
けれども、自由が利かない身であるために、下女だと勘違いをしているシュカに間諜の真似事を頼んできたわけだと、ようやく合点がいった。
だが、それもおかしな話である。
「なら、俺の後宮に入るなと命令すればよろしいのでは?」
そもそも、何故龍帝に立場でそこまで龍聆に対して下手なのか。そこが理解できずに、ズバリと聞いてみた。
すると、宸柳は苦々しい顔をして眉間に皺を寄せる。
「それができたらいいのだがな」
「できないのですか? 龍聆様を憐れんでいるから? それはまた別の話ではないのですか? 逆に失礼では?」
畏まらなくてもいいと言われたからか、それとも元凶である彼にしっかりと理由を問いただしたいと躍起になっているからか、シュカの言葉は遠慮がなくなっていく。
それにたじろいだ様子の宸柳だったが、怯んだのは一瞬。すぐに、真摯な顔になった。
「たしかに憐れみの心はある。だが、そこの線引きはしっかりとしているつもりだ。――俺が強く出られないのは、龍聆のせいではなく、宦官の方だ。あ奴が龍聆を中に招き入れている状況を危惧している」
「秀英様ですか? どうして……」
「それは! ……それは、言えない」
「言えないって……」
「ここに来るまでにいろいろとあったんだ。だが、それをおいそれと口外することはできない」
「それで私に協力しろと?」
「あぁ」
本当にこの人は龍帝なのだろうか。
シュカに命令すれば簡単に済むことなのに、懸命に協力を仰いでいる。
事情は詳しくは話せない。
けれども、秀英に誘われて後宮に出入りしている龍聆が心配だから協力してほしいと必死に頼み込んでくる。
正直、シュカはその姿に絆され始めていた。
だが、一方で正体を隠している状態で宸柳とまた会うのは嫌だった。
面倒だし、何より自分が瓊妃だと知られてしまったら、それこそ大変なことになる。
璜呂宮の掴み切れない裏を知って己の身の安全を図るか。
それとも、宸柳に知られてしまう危険性を回避するか。
どちらがここで上手くやっていけるのかと、シュカは悩んだ。
「どうか頼まれてくれないか。瓊妃やその周りの侍女たちの様子を教えてくれるだけでいい。あと、銀鬣宮で囁かれている噂なども知りたい。それがなにかしらの手掛かりになるかもしれない」
宸柳は悩むシュカに縋るように懇願してくる。
彼も随分と必死だ。それだけ追い詰められているということなのか。
「……もしも、万が一ですよ? 私がそれに頷いたら、ここに畑を作っていることを秘密にしていただけます?」
「あぁ。逆に頷かなければ、丞相に言ってすぐにでも撤去させてもいいぞ?」
「と、取引材料を脅しの材料にするとは卑怯です!」
「弱みを晒したお前が悪い」
シュカは歯噛みをして宸柳を睨み付けた。
そう言われてしまっては、頷くほかない。
「……教えるだけですよ? 私に累を及ぶようなことにはならないとお約束していただけますか?」
「あぁ。約束しよう」
にっかりと笑う宸柳を見て、シュカは大きく溜息を吐いた。
とんでもないことになってしまったといっときは焦ったが、よくよく考えれば大ごとにならずに済んでいる。
当たり障りのないところを報告しておけばいいだろう。噂など、銀鬣宮には溢れ返っているし、シュカにはそのどれが宸柳にとって必要なものかは分からない。