プロローグ
2019年5月、午前2時44分、島後島から北北東へ約239.6マイル。日本の排他的経済水域付近で私の乗る艦は一隻の不審船を追跡していた。今年の冬から国連の主導で行われている北朝鮮瀬取り警戒監視活動に派遣された私たちは、深夜の暗いブリッジで息を呑んでいた。こんな大事な時なのに艦長は席を外していた。
「艦長は生牡蠣にでも当たったか。」
オードラン副長がジョークを言った。苛立ちも紛れ込んでいるようであった。対水上レーダーの情報によれば不審船は既に経済水域内に侵入しており、更に進路を変えることもなく17ノットで北上しているようだった。動きがおかしい。ロシアの主要港から遠のいて何処へ向かうつもりか。数10分が過ぎた頃、アンベール艦長が帰ってきた。艦長は速度を上げるよう命令した。命令を受けた私はスロットルレバーを上げる、ディーゼルが高鳴り、ファンネルから黒煙を吹く。「ヴァンデミエール」は速度を上げた。時刻は午前3時23分、夜明けまであと一時間半程だった。夜明けを過ぎた方が見つけやすいのでは、私は心のうちに思った。その時、不審船はこちら側に気付いたのであろうか、ロシア方面に進路を転換した。このままでは逃げられてしまう。
「何としても夜明けまでに追いつけ。」
アンベール艦長は言った。まだ夜は明けない。暗闇の海を20ノットで彼女は疾走する。
午前4時頃、船影を捉えた。クルーがデッキから双眼鏡で確認する。小型の貨物船のようだった。7マイル程まで近づいた時、通信士が無線を入れた。・・・返信は早かった。
「こちらは”メドヴィ・メシャーツ号”。」
通信が続く。
「国籍は?」
「・・・ロシア。」
「本海域での航行は無許可である。航行目的を明示せよ。」
「積荷を運んでいる・・・。日用品とか、食品とか。」
「目的地は?」
「・・・。」
返信が無かった。ブリッジが静まり返る。
「コルサコフ。」
数分遅れて返信が帰ってきた。通信士が続けた。
「出発港は?」
「ウラジオストク。」
オードラン副長が顔をしかめた。それもそのはずだ。ウラジオストクから出港していたら、ほぼ真南に進んで今度はまたロシア方面へ逆戻りしている格好だ。今度はデッキから双眼鏡を覗かせていたビゴー航海員が叫んだ。
「出力上げました。」
貨物船のファンネルから黒煙が上がるのが薄っすらと見えたようだ。速度を上げたようだった。アンベール艦長が席から立ち上がった。ブリッジ内の皆がそれを見た。アンベール艦長は右手で顎を撫でながら言った。
「停船させろ。」
通信士が停船命令を発信した。
「停船せよ。立ち入り検査を行う。繰り返す、停船せよ。」
今度の返信は数分を過ぎようが帰って来なかった。貨物船との距離は次第に縮まっていく。その間、通信士は停船命令の発信を続けていたが貨物船は止まる様子を見せなかった。やがて貨物船との距離が約2キロメートル程になった時、問題が発生した。後30分程でロシアの経済水域に入ってしまう。ブリッジ内は少し騒然とした。
「逃げられるなぁ。」
隣で操舵していたマッソン航海員が呟いた。オードラン副長は首を回していた。
「警告射撃。」
アンベール艦長が言い放った。騒然としていたたブリッジ内は一変して沈黙となった。
「後方、200メートル・・・。」
アンベール艦長は淡々と指示を続けた。緊張が走った。艦首の単装砲が動き始め、やがてその動きを止めた。狙いが定まった。次の瞬間、爆音が轟き閃光が走った。薬莢が跳ねる音が響く。貨物船の後方で水しぶきが上がった。しかし、貨物船は速度を緩める様子はない。
「前方、100メートル。」
アンベール艦長が次の指示を出した。砲が向きを変える。発砲した。今度は貨物船の前方で水しぶきがあがった。さっきよりも近い。しばらく間ができたが、貨物船は速度を緩めなかった。間に合わない。逃げられた。私は思った。その時、アンベール艦長が言った。
「当てろ。」
オードラン副長は目を見開いて艦長を見つめた。私も同じだった。アンベール艦長の目は怖いほどに座っていた。
「煙突直下・・・、三発、連射。」
アンベール艦長は指示を続けた。指示を受けたCICのクルーはどんな顔をしているのでろうか。そう思ったのも束の間、砲が動き出した。貨物船に向かって発砲する。三発。私はその間、閃光の眩しさに目を細めていた。着弾の瞬間を見ることはできなかったが、貨物船から炎が上がっているのを目視できた。命中だ。貨物船の速度は次第に落ちていき、やがて動きをとめた。200メートル程にまで近づいた時、船上でクルーが消火活動をしているのが確認できた。私達はサーチライトを点灯させ貨物船を照らす。
「両舷停止。」
私はスロットルレバーを下げて艦を停止させる。武装隊員が複合艇を下ろし始めた。アンベール艦長は溜息をついて貨物船を眺めていた。私は腕時計を締め直した。武装隊員を乗せた複合艇が貨物船へ向かう。時刻は午前4時40分を過ぎていた。東の水平線が薄っすらと明るくなってきていた。しかし、まだはっきりと物が見えるほどではない。武装隊員が貨物船に乗り込んだ。船上でクルーと揉めている様子だった。ブリッジのクルーは黙ったままそれを眺めていた。しばらくすると武装隊から連絡が入った。船内に積荷とみられる物は一切無かったらしい。それと、クルーを拘束したとの連絡だった。アンベール艦長は全員を連行して来るように指示した。
「全員指示があるまでブリッジで待機せよ。」
アンベール艦長はそう言うとブリッジを出ていった。
「子供、いくつになった?」
オードラン副長がマッソン航海員に質問した。マッソン航海員は唐突な事に戸惑っている様子であったが調子を合わせた。オードラン副長は世間話が大好きだった。私はその笑談に聞き耳をたてた。狭いブリッジでのこの時間が妙に好きであった。その後、貨物船のクルーを連行して武装隊が戻ってきた。
私は紅茶を口に含み、しばらくしてから飲み込んだ。ポワソン記者がペンの動きを止めて私の顔を見た。
「連行されたクルーについて何か知っていますか?」
ポワソン記者が質問した。私は首を振ったが、直ぐに思い出したかのように話した。
「ロシア人の男が4人と、アジア系の男が一人。」
「5人だけ?それだけで貨物船をですか。」
ポワソン記者はペンを唇に当てて考えている様子だった。
「・・・風の噂だけどね。」
私は念を押した。一連の事の情報は当時厳格に管理されていたため、限られた人物しか真相を知らない。
「その後クルーは?」
ポワソン記者は険しい表情で質問した。私は答える。
「当時寄港していた広島まで連行したよ。後は日本の公安に引き渡した。」
ポワソン記者は何度も小刻みに頷く。その直後、私は再び思い出したかのように言葉が出た。
「ヘリコプターが来た。」
取材陣の顔が上がった。私は話を続ける。
「広島へ戻る途中、・・・石川県沖、75マイル。」
私の頭の中で声が飛び交う。
「イシカワ?・・・そこにヘリコプターが?」
ポワソン記者の質問を断ち切る様に私は話し出す。
「違う・・・。4人だ。広島で降りたのは4人。ヘリコプターが来たんだ。そして1人連れて行った。」
ポワソン記者が身を乗り出す。
「時間とか覚えていますか。」
「午前7時過ぎ、思い出した。黒いパンテルだった。ブリッジから旋回して来るのが見えた。」
私は興奮した様子で答えた。
「パンテルが降りてきた?」
ポワソン記者の質問に私は頷く。パンテルは民間機のドーファンの軍用モデルであるが、私にとっては見慣れた機体である為、直ぐに区別が出来た。ポワソン記者がメモ帳をめくった。私はタイミングを見て語り始める。
「男が降りてきた。ハンガーで艦長と話を交わしていた。その後は分からないが、40分位過ぎた時に男を一人連れて再びパンテルに乗り込んで飛び立っていった。当時デッキから見ていたビゴー航海員がそう言っていた。風の噂なんかじゃない。ビゴー航海員は堅実な男で決して嘘などつかない。」
ポワソン記者は熱心にメモを取る。一通りメモを取った後にペンをテーブルに置いた。軽く椅子を座り直すと私の顔を見て言った。
「ビゴー航海員は今はどちらに?」
私は答える。
「・・・亡くなったよ。ずっと前にだった。戦争でね。まだ若かったのに・・・。」
取材陣がざわめきだした。
「D-yearだ・・・。」
取材陣の誰かが囁いたのが聞こえた。私は、それに答える。
「その通り。”ヴァンデミエール”はフィリピン海沖で魚雷攻撃を受けて沈んだ。」
「貴方もそこに・・・?」
「・・・私はそこにはいなかった。事件の後の9月に私達はフランスに戻ってきた。その後次の年の四月まで”ヴァンデミエール”に乗っていたが、私はその後に”ラファイエット”へ転属となった。その後は例の・・・。”ヴァンデミエール”は太平洋へ派遣されて帰って来なかった。」
明るいはずのカフェのテラスは暗い空気に包まれ、取材陣の女性記者は口を噤んでしまった。ポワソン記者が気を取り直して質問してきた。
「私達は今度日本へも取材に行く予定ですが、貨物船はそのまま日本へ運ばれたのですか?」
私は両手をテーブルの上で組んで答える。
「貨物船はもう無い。・・・海上で爆破処分された。アンベール艦長の命令だった。そして艦長も戦争で亡くなられた。」
ポワソン記者はまた下を見ながら何度も小刻みに頷いていた。そしてボイスレコーダーのスイッチを切った。ポワソン記者は機材をカバンにしまうと、立ち上がって手を差し出してきた。
「今日は取材に協力して頂き有難うございました。こんなにも貴重な情報を・・・。」
私もポワソン記者の手を取って立ち上がった。
「こちらこそ感謝するよ。君たちが来なければこんな60年も前の事、思い出すことなどできなかった。ありがとう。」
私は来年で88歳となる。今は農場主となって田舎で暮らしている。孫にも恵まれた。息子が農場を継いでくれてもうあまり動きまわることはない。今回はテレビで彼らを知って、自ら取材の協力を申し出たのだ。機材の片付けを終えて皆が席を立った時、私はポワソン記者に再び声をかけた。
「君たちはどうして・・・、こんな感じの取材を?」
ポワソン記者ははっとした様な顔をした後に、カバンから一冊の本を取り出して私に手渡した。
「この本ですよ。”桜花の散る正午”。これについてのドキュメンタリーを作っているのです。」
最近話題になっている本であった。
「ああ、彼女の・・・。皆苦労したよね。」
「もうお読みになりましたか?」
「いいや。」
「でしたなら是非、一目でも。」
ポワソン記者は一瞬残念そうな表情をした。それを見て私は慌てて言った。
「君たちさ、日本に取材行くって言ってたけど・・・、やっぱり彼女に会うの?」
取材陣は顔を見合わせた。その後ポワソン記者は真剣な表情で言った。
「勿論。」
そう言うと取材陣は階段へ向かって歩き出した。その時、私は揺さぶられたかの様に言った。
「時間もなんだし、君たちの都合が良ければ一緒に昼食をどうだい?美味しいパイの店が近くにある。あとレモネードも。」
現在午後12時40分。取材は朝から休むことなく行なわれていた。取材陣はそれぞれの時計を見た後にまた顔を見合わせた。
「是非ご一緒させて下さい。」
ポワソン記者が微笑みながら答えた。私も微笑み返す。
「まだ話したいことや、聞きたいことが沢山ある。」
私は取材陣を連れてカフェを出た。フランスの小さな町でのこと。