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歎異抄(たんにしょう)を勝手に読む

作者: 久賀 広一

え~、僕の生家の宗派が浄土真宗(本願寺派)であることからか、たびたび親鸞しんらん聖人(しょうにん)の逸話や書物に行き当たることがありました。


それで、先日ついに『歎異抄』を町民図書室(住んでるとこが田舎過ぎて、図書館ではない)で借りるハメになってしまいました。


これはまあ、親鸞会さんという団体が主催されている映画上映会に幾度か通わせてもらって、親鸞聖人の良くできた全6巻のアニメ映画を見せてもらったからですね。


誇張や脚色はあるでしょうけど、ほんとに表現が難しいところをきちんと描けている、素晴らしい作品に思えました。

……もちろん、今のアニメからすれば「ふっ」と笑いたくなるような部分もありましたが。



それで、司馬遼太郎さんが「無人島にたった一冊本を持って行っていいとしたら、何を選ぶ?」というような話で『歎異抄』を挙げられてたみたいなんですよね。


それには心底驚いて、「それほどの書物なのか!」と思ったわけです。

(歎異抄は、唯円ゆいえんというじき弟子が記した、親鸞聖人亡き後、教えが弟子たちによってどんどん曲解されていくことを歎いた《ことなることを歎く書》というものです。もちろん、その教えは釈迦の教説より、主に善導大師ーー法然ほうねん上人しょうにんーー親鸞聖人へと受け継がれたものですし、詳しく言えば弟子──師匠の間柄ではなく同じ道をゆく同朋ーー唯円ということになりますが)



そもそも、何でこんなものを書こうと思ったのかと言いますと、僕の普通の読みすじでは、まず歎異抄にたどり着けない、ということです。

(今回は500円で観れるアニメ映画から、さらに6本立ての親鸞聖人映画に繋がっていった。信者を勧誘している親鸞会さんにとっては「しめしめ」というわけですが……でも強制なんかはなく、ほんとに気さくなマダムが主催されてました)


そしてもう一つは、有り難いものだけど、難しい書物をわざわざ開くよりは、アホの語りでもいいから簡単なやくが知りたい、という人がいるかもしれない、という僕の押しつけです。


自分なら、そう思いますから。


それくらい、内容がすごいものなんですね……

だから、『カミソリ聖教しょうぎょう』と呼ばれるほど、子供(無知な人間)に持たせると危険で勘違いを生みやすい教えですが、アホながらちょっとだけ取り上げてみたいと思います。



まず、「親鸞聖人って誰?」という人へ。


ーー浅い知識でほんとにめちゃくちゃ勝手な決めつけになりますけど、この方は浄土真宗の宗祖とされていて、「この苦しい人生から、そして死から、どうすれば救われるのだ?」ということを突き詰められた方ですね。



「後生の一大事……」

人はーー自分は、欲を追い求め、他人を、その他の生命を傷つける悪行を多く積み上げる。

地獄に落ちることが決まっているのなら、この大変な事態をどうにかせねば、苦しみしかないではないか! というような思いをお持ちだったようです。


結果的に、比叡山の厳しい修行に耐え、それでも悟りにはたどり着けないと絶望され、7千余巻の経にすべて目を通し、法然上人との仏縁によって、「何もかも救われることは、約束されていたんだ」という思いにたどり着かれた方です。

阿弥陀あみだ如来にょらいーー(浄土教諸宗において、最も優れた仏として、お釈迦様もふくめた全ての仏の頂点におられる方)によって、「南無阿弥陀仏」の一言、一念によって、すでに人は救われることが望まれた存在であることを、体感されたということです。


ご存じの方も多いかもしれませんが、『他力本願』というものですね。



……本題に入りますが……



自力のみでは、人は絶対に、真に救われることはない。



「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」という高名な文言がありますが、これが多くの場合、「?」ということになります。


「善人は浄土(まあ天国のようなもの)を約束されている。悪人ならば、それはなおさら」という訳になりますかね。


「善人が救われるのは分かる。でも、悪人はなおさら!? 意味不明!!」


そう思いそうなものです。普通。


でも、人心を喝破かっぱしていくと、本当に罪を犯していない善人などいない。”善”(と思い込んでいること)を自力で行う人は、自分が善であると認識しているために、ときに大きな過ちを犯す。人を傷つける。見栄のために、体裁が悪くなる真実から目をそらしたり、隠そうとしたりもする。

しかし悪人は、自分が悪を犯した悲しい存在であることを知っているために、善人よりはるか素直に真実の教えを受け止めようとすることもある。


若い頃に大きな過ちを犯した人間が、のちに多くの人を救う大人物になる例があり、自己の罪悪を知らない善人が、信条によって他者を、やがては自分を制裁することになる例もあると思います。


……そもそも、阿弥陀如来はすべての人間が(他者を傷つける)悪だと見抜かれた上で、

『すべての人を救う。生きている間に必ず、絶対の幸福に導く』

という本願を立てておられるような存在らしいです。



そして、僕が他の読み物で理解していたにも関わらず、一番実践できていなかったことがズバリと書いてありました。



「他人を糾弾するな」

この世では、どんなに極悪な罪を犯した者でも、救われることが許されている。


もし、それを否定するのなら、一切の罪を貴方が犯していない限り、貴方も許されることはない。



……もちろん、罪とは法律上のものではなく、人の心を傷つけたことがあるかどうか、食べもしない動植物の命を、一度でも奪ったことはないのか、というような内容だと思います。


他力本願とは、知識によってもたらされる救いではない。

それは自力であり、個人の思い込みの”善”である。


自分の命の流れに、どこからかやって来る真摯な思いに身をまかせる他力でこそ、人は本当に救われていくーー正しくは、阿弥陀如来の本願、恩徳おんどくによって、すでに浄土が許されているーー


「人一倍欲深い」と、自身で言われていた親鸞聖人が救われたのは、一切の許しーー罪の清算のために自力で念仏を唱えるのではなく、これからも生きていく上で、どうしても避けられない己の過ちも含めてすでに救われることが如来大悲(だいひ)によって約束されているからこその、有り難さからくる他力の念仏、さらに”他人と比べる必要のない絶対の幸福”がすでに仏教では説かれていたから、という単純かつ遠大な回答だったのではないかと教えられました。




……以上の二点が、僕が歎異抄で強く学ばされたことですが、他にもすさまじい教えがいくつも書かれているので、まだ未読で興味の湧いた方は、ご一読されるのもいいんじゃないかと思われます。


……ちなみに、「糾弾はダメだ」と言いながら、自分はまた糾弾文書を上げさせて頂くことになるかもしれません。

相変わらずバカだなとは思いますが、そういうものをなくしてしまうと書くものがほとんどなくなってしまう未熟な人間だからですね。

(それでも書きたいという、己のごう……)


あと、文章の訂正意見はいつも喜んで求めているんですが、今回に限り、それは対応できないかもしれません。


何故かと言えば、訂正しなければならない箇所、解釈が全てになる可能性があるからです。


だから、「これは何もかも間違っている。親鸞聖人とは、歎異抄とは、浄土真宗とはこうだ!」と言われる方がおられれば、それを自作にしたためて、僕にお知らせ下さい。


また勝手に判断させて頂き、”こちらの方が書かれたものの方が、正しいですよ”という追記をさせて頂きます。


それでは……横暴極まる内容で失礼しますが、お付き合いありがとうございました……!















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― 新着の感想 ―
[一言] 突然のコメント失礼いたします。哲学、思想系に関心ある者です。歎異抄、難しいですよね。歎異抄の解説書なるものが世の中いろいろとあるそうですが、中でも1万年堂出版の「歎異抄をひらく」っていう本が…
[良い点] カミソリ聖教のことろ、それなって思いました! [一言] 私も最近、歎異抄をひらく、という本を読みましたので感想を書かせていただきました。 私は、新聞の広告に歎異抄ひらくが紹介されていたの…
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